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 なるほど、死神というのはなかなか便利らしい。やけに身体が軽く、走ればいつもの倍以上の速度が出る、脚力も違う。簡単に屋根の上に飛び乗ればそのまま屋根伝いにまっすぐ目的地へと走り飛ばせた。

「浦原さん!」
「おかえりなさいな」

 臨時休業の貼紙が貼られた店の戸を開ければ、地下室の入り口からひょっこりと浦原が顔を出した。

「上手くいったようで何より。じゃあステップ2に移りましょうか、降りてきてくださァい!」

 手招きされるまま下に降りれば、一護はまだ穴から出てきていないようだった。相変わらず遠巻きに叫び声が聞こえる。

「黒崎サンが虚になるまでのタイムリミットまであとおおよそ40時間。その間、相模サンは虚退治と…殺し合いをしてもらいます、アタシとね」
「へ?」
「本来であればじっくり時間をかけて基礎からすべきですがそうも言ってられない。これが最短ルートっスね」

 浦原は扇子を袂に仕舞うと、杖の柄をスッと引き上げる。光を反射しながら引き抜かれたのは間違いなく斬魄刀だった。

「相模サンも刀を抜いて…さて、じゃあまずは30分間アタシが貴女を殺しにかかるので生き残ってくださいね。避けるだけで構いませんので。ホラ構えて」

 夏樹は言われた通り、斬魄刀を引き抜く。
 怖い、と引き抜くと同時に身体が強張る。これは、人を殺すための力だ。自分の手を見ると、微かに震えていた。
 そんな夏樹の心情を見透かすような浦原の瞳が刺さる。

「やめますか?」

 夏樹は一つ深い深呼吸をすると、不安を握りつぶすように手に込める力を強くする。

「大丈夫、です」
「じゃあいきますよン」

 口調はいつも通り、けれども放たれる殺気は今までの比にならないくらい重厚だった。
 背筋に走る死の恐怖に夏樹は身体を硬直させてしまう。

「っ!」

 夏樹が咄嗟に身を翻せば、束ねていた髪が数本はらりと地面に落ちた。
 縺れそうになる脚をすんでのところで動かして、一太刀、二太刀、浦原が繰り出さられ剣筋を文字通り死ぬ気で避ける。

―無理無理無理無理!!

 後ろから迫る脅威が全く本気を出していないと分かるのに、一瞬でも気を抜けば死ぬと本能が訴えかける。
 死覇装がざくりと切れる音がしても、振り返ることすらできず、ただただ脚を動かした。

「!」

 突然こめかみに走る頭痛に思わず片手で頭を押さえる。ずきずきと痛みを堪えつつ、後ろから飛んでくる鬼道をどうにか避けつつ我武者羅に走った。

―な、にこれ…!

 チカチカと脳内に何かがフラッシュバックする。白昼夢のような、縁のない不確かな幻影に夏樹は一瞬意識を飛ばしかけた。

―あ、れ。動ける

 霞んだ視界が瞬きひとつした後には明瞭になる。自分の身に何が起きたのか理解する前に、目の前の事象に対処すべきだと夏樹は翻すと息を深く吸い込んだ。

―どうやって戦うのか、身体が、知っている。でも、これは、

 内に宿る違和感にを無視して、足の動きを速める。少し距離を取ると振り返り、浦原の刀を受け止めた。

―重いっ…!けど!

 耳を突き抜ける金属音が何度も何度も鳴り響く。打ち合う最中、夏樹は間合いを読もうと全神経を尖らせる。

―今!

 一瞬力を緩めると流すように刀を降ろし、浦原の態勢を一瞬崩す。夏樹はその一瞬の隙に指を立てて、狙いを定める。

「破道の三十一!赤火砲!!」
「甘いっスよ!」

 浦原は一瞬目を見開くも、指から飛び出た火球は片手で振り払う。夏樹の目の前に迫る斬魄刀を避ける間合いはもうない。
 ギリギリのところで斬魄刀を引き抜くと、夏樹は意を決して浦原の刀にぶつける。鋭い金属音と飛び散る火花。
 どうにか押し負けまいと両の手で必死に柄を握っていた。
 ―が、均衡は一瞬にして崩れる。夏樹は気が付けば地面に叩き付けられていた。

「いっっつぁ…」
「いやぁ、急に仕掛けてくるからびっくりしましたよォ。…相模サン?」

 浦原は仰向けの夏樹に手を差し伸べる。が、その手を向けた相手は蹲ったまま動かずにいた。

「気持ち、わる…」

 ぐるぐると視界が回って上も下も分からなくなって、夏樹は堪え切れず嘔吐する。寒くもないのに体が震えて、身体が麻痺したようにうまく動かない。
 身体の奥底を何かに侵食されるような感覚に、震えの正体が恐怖だと理解する。

ー私じゃない、何かが、入ってくる

「相模サン!」

 浦原は慌てて夏樹が呼吸を取れるよう体勢を動かした。咳き込む背を摩りながら、乱れる霊圧の揺れ方に注視する。
 しばらくして霊圧の揺れは終息し、夏樹の呼吸も正常なものに戻った。

「…落ち着きましたか」
「すみません…」
「少し無理させちゃいましたかね。ですが、」

 浦原は帽子の奥から鋭い視線で夏樹と視線を交わす。まるで諫めるような視線に夏樹は思わず肩を揺らす。

「鬼道なんて一体どこで?」

 鬼道、と言われ夏樹はどう答えて良いのか迷う。浦原と斬り合う中で、動いていたのは確かに自分の意志ではなかったとも言える。
 今思えば、あれは夢で逢う彼女が助けてくれたのではないか、とそう思う。けれど、そのことを浦原に伝えようとは思えなかった。今言うべきではない、そんな直感があった。

「途中から明らかに動きが変わった、不自然なほどに。例えるとしたら、まるでセーブしたゲームを途中から始めたような、別の誰かが乗り移ったような、そんな感じっス」
「おっしゃってる、意味が良く分かりません」

 震えそうになる声を隠しながらそう答えた。その例えが、例えでなく、夏樹自身がそうだと思ってしまったから。肯定するのは酷く恐ろしいことのように思えた。

「すみません、私もよく分かっていなくて」
「…また何かわかったら、教えてくださいっス。鬼道は他にも使えそうスか?」
「分かりません、けど、使えるような気がします」
「そっスか」

 何か知っているのか聞き返そうとすれば、浦原はどこか寂し気な笑みを浮かべた。そうして、帽子を深く被り直すと夏樹をまっすぐに見据える。

「…少し休憩したら虚退治にでも行きましょうか」

 それ以上のことは聞けそうな雰囲気もなく、夏樹は疑問を腹の底に押し込めると小さく頷いた。

「もう半端な覚悟は、ないようスね」

 こくりと頷くのと同時に背筋にぞわりと撫でられるような気配に身体が揺れる。夏樹は浦原ではない、ピリと空気が張り詰める気配にペイントされた空を見上げた。

「…どうしました?」
「その、今虚が出たような」

 浦原はそう言われて辺りを探ってみるが、特に虚が出た様子はない。気のせいだろうと言いかけたその瞬間――

「どうやらホントっスねぇ。アタシはここを離れるわけにはいかないので、相模サンおひとりで虚退治お願いしますねン」
「えっ」
「なぁに、アタシの攻撃を避けられるだけの脚力があれば大丈夫っスよぉ」

 早くしないと誰かが虚の餌になりますよ、と容赦ない催促に夏樹は慌てて梯子に足をかける。

「い、行ってきます!」
「ええ、お気をつけて」

 夏樹が出て行くのを見届けると、ピッピと慣れた手つきで彼に電話を掛ける。

「もしもォし!こちら庶民の御用達浦原商店ス!…えぇ、はい、はい。すみません、どちらとも言えない事態になりました。ご自身で確かめて判断してもらっても?」

―…あとは頼みましたよ、平子サン

 のんびりとした歩調で浦原は一護の落ちた穴を覗きに戻る。この後のことはきっと友人がうまくやってくれるだろうと、穴の淵に腰を下ろした。
 動き出した歯車は噛み合う全てを巻き込んでいく。凄まじい速度で世界は、回転し始める。未熟な若人を圧搾し、塵になれと言わんばかりに。