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 地面を、空を蹴って、騒ぐ悪意の元へと脚を動かす。
 公園横の空き地で意味などない咆哮を上げる白い仮面の化け物を目の前にして、夏樹は小さく呼吸を整える。
 以前見た時はそれこそ生命の危機に足がすくんだものだった。けれど、虚が放つ殺気は散漫としていて、浦原から放たれた其れと比べてしまえばそれこそ子猫とライオンくらいの差があるのではないか、と呑気なことを頭の片隅で考える。

「大丈夫、大丈夫…」

 震えは止まったけれどまだどこか憶する心を叱咤する。虚を斬る、イメージをより明確に。ゆっくり瞼を上げて、眼前に迫った虚の巨大な手を避けると思い切り斬魄刀を振りかざした。
 耳を劈くような悲鳴と共に、虚の身体は崩れていく。
 行きと同じように霊子で足場を作り、最短ルートで浦原商店を目指そうと右足を上げたその時、

「っ!?」

 夏樹は反射と言ってもいい速度で斬魄刀を引き抜き身体を反転させた。
 金属音がぶつかる音が耳の奥にまで響く。

「反応速度は悪ぅないな、けど」
「平子、くん…!?」

 突如目の前に現れた金髪に夏樹は目を丸くした。勢いよく後ろに飛んで、体勢を整える。

「なんで…」
「なんでもクソもあれへん。尸魂界に行きたいとか言うアホを叩きのめしに来ただけや」

 夏樹が平子の言葉を理解しきる前に、押し込められるような違和感にハッと周りに目をやる。目を懲らせば薄い膜のような立方体に辺りが包まれていた。
 何故平子が自身の事情を知っているのか、斬魄刀を携えているのか、目の前の状況を理解しようと必死に頭を回そうとする。けれど、思考回路をぶった切るように、平子の殺気が威圧する。
 確かに以前、あの日の夜、消されてしまった記憶の中で確かに平子は斬魄刀を所持していた。そのことを思い出しながら、目の前の現状に刀を構える。

「安心せぇ、結界張ったからな。なんぼドンパチやっても周りに漏れはせん」

「ほな、いくで」

 何が安心しろなのさ、と夏樹が返事をする間もなく、平子は距離を詰めて斬りかかる。ビシビシと突き刺さる霊圧は浦原の殺気よりも鋭く、夏樹の動きを鈍らせるには十分だった。
 紙一重で斬撃を避けるが、すぐさま次の攻撃が飛んでくる。

「弱いやつが一丁前にモノだけ言うやつ、オレめっちゃ嫌いやねん。部相応見極めて物言えゆー話や」
「何をっ…!」
「尸魂界に自分が行くんは無理や、言う話、や!」

 夏樹は勢いよく地面へと叩き付けられた。肺の中身が一度に吐き出され、呼吸が乱れる。

「こん程度で怯むようやったらだぁれも倒せへんど、死神舐め腐っとるやろ」

 刀の峰で肩をポンポンと叩きながら平子は面倒臭そうに夏樹を見下ろす。

「大体なんやねん、朽木ルキアとそないに面識ないやろ。ガキ臭いヒーロー気取りかいな」
「………っ」
「喜助の奴も何考えとんねん…こんなん向こうに、」

 平子は明後日の方向を向いたまま、斬魄刀を水平に構える。一直線に飛んできた夏樹の斬魄刀がぶつかる。

「人を煽るのがこんなに上手なんて知らなかったんだけど!」

 そう吐けば平子はハッと短く笑い、片手で容易く夏樹を押し返す。

「その目ェは嫌いとちゃうで!」

 何度も何度も金属音がぶつかり合う音が響く。
 身体を動かせば動かすほど、まるで昔もそうしていたかのような感覚が蘇る。
 舞うように、平子の太刀を一筋、二筋と交わし、突くように平子に斬りかかる。

―あぁ、あかんな…この太刀筋、構え…”まんま”やんけ

 夏樹の目は最初こそ戸惑いや困惑が浮かんでいたが、今は落ち着いた様子で平子を見据えていた。
 ありもしない思い出をなぞるように、夏樹刀を振るう。それは、いつしか見た夢の中にいるような感覚だった。

「ちっとはマシなってきたけどなぁ…甘い、言うてるやろ!」

 平子は夏樹の太刀筋を受け止めるとそのまま地面に思い切り突き飛ばした。
 地面に思い切り倒れ込むが勢いよく起き上がり、再び刀を構える。

「オレに傷一つ付けれんような奴が行くんは無理や、やめとき」

 頭上で逆さまに見下ろす目線は冷え切っていた。
 殺意すら感じる視線に夏樹は背筋に悪寒が走るが、負けじと睨み返す。

「やだ!」
「やだ、ちゃうわボケェ。行く理由ないやろ、あっさい友情のために死ぬんか。黒崎一護に任せとけ」

 平子はため息まじりに刀を鞘に戻した。

「ったくなんでオレが鍛え上げたらなあかんねん…」
「今、なんて」
「あ?喜助の奴に相模チャンの修業付けろ頼まれててなぁ、って聞いてへんのかい」
「ちっとも…」
「あいつ面倒臭なったな…」

 平子はキレ気味にぶつくさと文句を続けた。が、不意に夏樹に視線を送る。

「言うとっけどやな、オレやる気ないで」
「!」
「オレは自殺願望者に時間割く程暇ちゃうしなァ」

 平子は気怠そうに帽子をかぶり直すと、その場を離れようとした。

「待って!」
「あん?―――!!」
「これ、大事な物なんでしょう?」

 夏樹は平子に向かって手を突き出す。
 ほどいた夏樹の髪の毛が風に揺れる。

「おま…」

 手に持っていたのは、彼女の母の形見だった。

「…タダで教えてなんて甘いこと言わない。……これじゃ、ダメかな」

 夏樹の予想外に大胆な行動に平子は呆然としていた。

「お願いします。力を、貸してください」

 深々と頭を下げる夏樹に平子は思い切り眉を顰める。

「それ、母ちゃんの形見と違うんか」
「そうだよ」
「簡単に手放すてどういうことやねん、その程度のモンとちゃうやろ」
「うん」

 夏樹は頭を上げると平子と目線を交わした。その目に迷いは宿っていない。

「私のお母さんはね、”やらなくちゃいけないと思うなら、こんなものはくれてやれ”って言うような人なの」

 懐かしむように笑う夏樹の目はとても穏やかで、平子は目を背けられなかった。
 平子の横まで来ると、手をそっと取って彼女の命よりも大切であろうものを握らせる。

「お母さんの物、これしか残ってないから…大事にしてね」
「強引すぎて引くわ…」
「えへへ」
「褒めてへんぞ!何考えとんねん…!」

 平子は理解できないといった表情で夏樹を睨みつけるが、憶する様子はない。

「ルキアちゃんを助けるって、そう決めたから」
「こっんの、頑固か!」
「私が今行っても力不足なの分かってる。だから、強くなりたい」

 平子はガシガシと乱雑に頭を掻いた後、気怠そうに空を仰いだ。

「あいつホンマなんちゅーモン押し付けてくれとんねん…」
「……ダメ、かな?」
「あーーーもーーわかった、分かった」

 平子の言葉に夏樹はパッと顔を上げ嬉しそうに口を開く。

「ありがとう!」
「言うとっけど、手加減とかせーへんで。稽古途中に死んでも知らんで」

 長いため息と共に少女に視線を向ければ、嬉しそうな顔が見えた。

「大丈夫!絶対死なないから!」
「あの実力でどっからその自信湧いてくんねん!」
「勘、かな?」

 ため息を何度付けば気が済むのか、自身に問いかけても終わりはない気がした。

―修行つける、言うてもなァ…表でドンパチやんのも不味いし、かといってアジトに行けばあいつらおるしな…山ん中とかでやるしかないか…。ひよ里に見つかるんは一番あかんし、ハッチなら何とか…

「……まぁ、追って連絡するから今日は喜助んとこ戻り」

 平子は長々と考え込んだが面倒になり、ボリボリと頭を掻いた。

「うん」

―まァた嫌な役回りやわ…ったく

「今度こそ、ほなな」

 平子は夏樹が浦原商店の方へ向かうのを見届け、彼女の母の形見を見る。
 以前見た時よりも、明らかに色のある面積が減り、白く薄らぼんやりとした姿になっていた。
 まるで彼女との思い出も減ってしまったような、そんなバカげた錯覚に自嘲交じりのため息をついた。

「これで、ええんか…」

 答えのない問いに、平子は何度目か分からない葛藤と共に目を閉じた。