27

 夏樹が浦原商店に戻ると、一護は相変わらず穴の中で雄たけびを上げながら崖を駆け上っていた。
 因果の鎖を切断されてから、40時間が経過しようとしていた。

「ただいま戻りましたー」
「お疲れ様っス。平子サン強かったでしょう?」

 まるで今してきたことを見ていたかのような素振りで開口一番にそう言いのけた。
 浦原は扇子で呑気に仰ぎながら、行きとは明らかに違う夏樹の見た目に浦原は首を傾げる。

「…髪の毛どうしたんスか」
「えーっと、結ぶものがなくなっちゃって」
「まさか、渡したんスか?」

 夏樹はその問いに対して苦笑いを答えとした。
 浦原は一瞬眉を顰めるも、パッといつもの飄々とした笑みを浮かべる。

「時間は有限。さっさと続きやりましょっか」

 唐突に懐から取り出したものを夏樹に渡す。何かと思って渡されたものを見ると、それは飾りのない髪ゴムだった。

「いやぁ、雨のがあって良かったっス!」
「ありがとうございます、お借りしますね」

 手早くいつもの位置に髪を戻すと、定位置にある髪にどこかホッとしていた。
 浦原に向き直れば、もう杖から斬魄刀を引き抜いてこちらを見ている。

「体調はどうです?」
「もう大丈夫そうです」
「じゃあ次は、アタシの帽子を落としたら勝ちっスよ」
「よろしくお願いします!」

 地面を勢いよく蹴って真っ直ぐ浦原に斬りかかる。ぶつかる金属音ももう耳に慣れた。
 力いっぱい柄を握る度に、斬魄刀を振り下ろす度に、痛烈な切り傷を作る度に、思考は研ぎ澄まされていく。
 それはまるで白昼夢でも見ているかのような感覚で。
 刀を振るうのが面白い。交わして突いて、飛ぶように、舞うように動くのが面白かった。

―――、――!

 遠くで声が聞こえた。聞いたこともないのに、懐かしいと思う不思議な響きを携えて、その声は心の奥底に向けて語り掛ける。
 けれど、何を言っているのかは分からない。

 何時間打ち合ったのかも分からなかった。
 気が付けば満身創痍の切り傷だらけ。一歩動くのも億劫になるほどで、夏樹は地面に倒れこんで肩で息をしていた。

「お疲れ様でした」

 浦原を見ると息1つ乱していないようで、実力の差を改めて実感する。

「疲れ、ました…」
「まぁそりゃ5時間くらいぶっ続けでしたからねぇ。帽子は落とせませんでしたけど、よく頑張りました。温泉で一息入れてくるといいスよぉ」
「え、ここ温泉まであるんですか…?」

―一晩でここ作ったって言わなかったっけ…浦原さん何者…?虚よりヤバいんじゃ…

「アラアラ、虚よりアタシの方がヤバいって顔されてますねぇ」
「ひぁっ」
「雨〜!相模サンを温泉に案内してあげて!」

―コッワ!怖いな!!?

 冷や汗をかく夏樹をよそに、浦原が声を上げるとふかふかのタオルを持って雨が駆けてきた。

「アタシは黒崎サンの様子を見てくるんであとはよろしくね」
「はい…こっち、です」
「あ、ありがとう。雨、ちゃん?」
「紬屋雨、です」

 ぺこりと丁寧にお辞儀をしてくれるので、夏樹も慌ててお辞儀を返す。

「喜助さんの、温泉…傷、すぐに治ると思います…」

 視界は白い煙に包まれて、程よく脳に届く情報を削っていく。目を閉じれば血がどくどくと巡る感覚に、思っていた以上に疲れてるのだと理解できた。
 最初こそ雨の言っている意味が分からず首を傾げたが、入ってみてすぐに納得した。

「んああぁぁぁ…気持ちいい…」

 謎の地下空間にぽつんとある謎の温泉。衝立と岩によって視界は遮られていて、夏樹は心置きなく足を伸ばす。
 傷口に湯が沁みるけれど、痛みがスッと引いていく感覚が気持ち良かった。魔法のようなこの湯も彼の作ったものなのかと思うと感嘆のため息が出る。

―なんか、色々あったな…ルキアちゃん、大丈夫かな

 瞼を下ろして感覚を研ぎ澄ませても、ルキアとのあの繋がりは感じられなかった。

―何かに邪魔されてるみたい…

―できることを、やらなくちゃ

 湯で一度顔を洗うと、勢いよく立ち上がりテキパキと身支度を済ます。
 温泉から上がると、浦原はぼんやりとした様子で深い穴を覗いていた。

「浦原さん!…一護は」
「まだかかりそっスねぇ。温泉、気持ち良かったでしょう?」
「あ、はい。いいお湯でした。ありがとうございました」
「で、その格好…続き、スか?」

 死覇装のまま夏樹は片手を斬魄刀にかけていた。

「お願いします」

 再び勉強部屋に金属がぶつかる音が響く。夏樹は無我夢中で浦原に食らいついた。
 そうして数時間後、再び夏樹が再びボロボロになった頃、稽古は終わった。

「アタシからのレッスンはこれでおしまい。明日からは、平子サンにお願いしましょっか」

 テッサイが夏樹の側に来ると、切り傷を回道で手際よく治療していく。

「ありがとうございます」
「…本当に、行くんスね?」

 浦原の表情は帽子で影ってよく見えないが、奥から鋭い視線が夏樹を刺す。
 きっとしかめ面をしているのだろう。夏樹は迷いのない瞳で頷いた。

「はい、行きます」
「…テッサイ、相模サンにアレを」

 ハイ、と短い返事と共にテッサイが取り出したのは1冊の真新しいノートだった。

「ここに使えそうな鬼道が一通り書いてあります。どんな時でも使えるように自分のモノにしてしまう、というのはとても大切なことですぞ」
「ありがとうございます」
「どうか、お気をつけて」
「はい!」

 短い言の葉の中に、彼女がこれから対面するであろう受難と試練にどうか立ち向かえるように、と浦原は祈りを込める。どうか、お気をつけて、と。

 そんな浦原の心中を察するはずもなく、夏樹は地上に戻ると死神化を解いた。
 外に出ればもう日が暮れていて、時刻はいつもの晩ご飯の時間を指していた。夏樹は急ぎ足で帰路へと着く。

―部活、行けなくなるの連絡しなきゃなぁ…でも、汐里に何て説明を…うーん…

 眉間に皺を寄せながら、垂れてくる汗を適当に手の甲で拭う。

―心配かけたくない、し…何より、

―きっと、いい気はしないよねぇ…

 結果的に頼ることとなったのは、彼女の想い人だ。
 夏樹はもう一度、汗を拭おうと手を上げた。が、その瞬間に足が止まる。

「っ…!?」

 ずきりと、まるで身体を引き裂くような痛みが全身を駆けた。
 全身に過重がかかり、思わず痛む胸元を握りしめた。心臓が引き裂かれるような鈍痛に冷や汗がどっと吹き出る。けれども数秒後には狐につままれたように痛み自体は引いていた。逆にそれが不安を煽る。

「なに、今の…」

 こめかみを伝う嫌な汗と手の震えが、気のせいで片付けるには早々だと訴えかける。
 妙に嫌な予感が心をざわつかせて落ち着かない。
 夏樹は息を大きく吸うと、不安を振り払うかのように家に向かって駆け出した。