32

「…………」

 治療しても残る浅い傷痕だらけの身体を適当に誤魔化して、晩御飯を済ませる。訝し気な祖母の視線から逃げるように自室に引きこもると夏樹は死神の姿に戻った。
 できる時に、できる事を。そう思って刀に意識を集中させる。
 意識を深く、深く。沈んでいく感覚はまるで底なし沼に足を取られたような気になる。

「あ、れ」

 眩い白に覆われた世界に思わず夏樹は目を細めた。

―どこだ、ここ

 薄氷の上に立っている。息を吐けば白く、ぶるりと思わず身震いをする。
 見渡す限り、地平線の彼方まで白が続いていた。下を見ると今にも割れてしまいそうな隔たりの向こうに、不安定に揺れる自分がはっきりと見えた。
 ゆらゆら歪む自分に何故だか自嘲気味の笑いが零れる。

「やっと来たんかいな」
「…誰?」

 振り向けば藍鼠色の袴を着た男が立っていた。一つに束ねた長い髪が風に靡く。
眉間に深く皺を寄せたまま、こちらを睨んでいた。

「お姉ちゃんは、どこ?」
「あいつは休業中や、ちょっと張り切って動きすぎたからな。しばらくは出て来れんやろ」
「貴方も斬魄刀?」
「そうや、オレは―――。お前を守るために力を貸すモンや」
「?」
「あぁ、やっぱまだ届かんか。寂しいもんやなぁ」

 男は悲しげに片眉を下げて笑った。懐から出した煙管をひと吸いすると、空に向かって白いため息を吐く。
 纏う雰囲気が彼女に似ているような気がした。掴み所がないのに、気持ちを真っ直ぐに伝えて来るところが。
 あぁでも、平子くんにも少し似ている、とぼんやり夏樹は考える。同じような訛りで、どことなく飄々としていて。

「まだ、あかんわ。もっともっと、自分を研ぎ澄ませ。何のために、力を振るうのか」

 不敵に笑う姿も何故か彼女を彷彿させる。懐かしいような、温かいような、寂しいような。感情が入り乱れて整理ができない。

「オレはいつでも、オマエのすぐ傍におるからな」

 そこで意識は再び反転する。時計に視線をやれば午後11時を過ぎていた。眠い気もするが、目が冴えてしまったようだった。
 ひとつ伸びをすると、カバンからテッサイにもらったノートを取り出す。彼の字は達筆すぎて難解な字も多かった。自分用に書き写せばようやく不可思議な術の一端が見えた気がした。
 できるをことを少しでもと手を動かすが、見慣れない漢字を書き写していた手がピタリと止まる。

―どこでこの漢字見たんだっけ…ていうか、私は鬼道なんて知っていたんだろう

 シャーペンを動かす手がピタリと止まる。使う機会のない漢字ですら読めてしまう、すらすらと。まるで空気を吸うのと同じように。

―私は、何…?何が、

 こみ上げる得体の知れない恐怖を押し隠すように勢いよくノートを閉じた。

―深く考えるのは、やめよう。今やるべきは、ルキアちゃんを助けるための力を付けること…

 早く朝になってしまえばいいと願いながら布団に潜ると強く目を瞑る。

―大丈夫、だいじょう……っ!?

 突然襲う心臓を鷲掴みにするような痛みに身体が強張る。身体の奥から力強い何かが溢れ出てきて、意識が呑み込まれかける。

「な、にっ…また!?」

 この痛みは2度目だった。昨日の夜と同じ痛み。

―身体が…っ、爆発しそう…!

 制御しきれない圧倒的な熱量に夏樹は只ひたすら耐えるように身を縮こませる。
 自身の存在全てを飲み込もうとしているような波に翻弄されて、目じりに涙が溜まる。
 身を焦がす強い感情、これは、

―憎い、悲しい…?どうして、どうして…!

―深呼吸せえ、落ち着くんや

 身体に響く低音は斬魄刀の声だった。浅い呼吸を繰り返す中、縋るように意識をその声の方へ向ける。

―霊圧を絞れ、そう…そうや。いつもの霊圧の波に合わせろ

―ええ子や、大丈夫…その力もお前のもんや

 浅い呼吸がしばらくすると深いものへと移ろう。

「あり、がと…」

 握りしめていた手をゆっくり解いて額についた汗を拭う。

―また、だ…私の中に、何かが、いる…

 得体の知れない力に呑み込まれそうになる恐怖。奥底から湧き上がる純然たる力、自身への疑問、頭を占める悩み事は尽きない。

―ルキアちゃんを、助けなくちゃ…アレが、アレが手に渡ったら、大変なことに…

 意識は徐々に微睡み、自分が何を考えているのかも分からなくなる。ただ漠然とした焦燥感と恐怖に心臓を掴まれているようだった。
 子供のころのように無性にお姉ちゃんに会いたくなった。いつかのようにただ隣に居て手を握ってほしいと。
 彼女も眠っているのだろうか。もしそうなら、少しでも心安くあるありますように。彼女の夢が、穏やかでありますように。そう祈りながら深く深く眠りについた。


 = = = = =


「あ、リサさん、おはようございます」
「ん、おはよう。えらい早いやん?」

 酷く蒸し返す朝、リサはあまりの暑さに目を覚ました。二度寝を決めようとすれば、外にちょうど1人の霊圧が近付いて来るのを感知した。そうして外に出れば、予想通り渦中の少女がへらりと笑みを向けてきた。
 無視しても良かったが、平子のあのいつもの調子を捨て置いた背中を思い出すと、頼みを無下にはできなかった。

「なんだか、目が覚めちゃって」

 照れたように笑う少女の霊圧は、やはり見知った霊圧によく似ていた。夏の山中を雪解け水が流れるような柔らかい清涼さがある。詩人のようなことを平子がいつの日か穏やかな顔でそう話していたのを思い出す。

「何する予定なん」
「えっと、素振りと鬼道の復習を」
「ふぅん、ほんならあたしが見たるわ」
「!あのっ、ありがとう!」
「別に、暇なだけやから礼とかいらん」

―…アンタ、ほんまは何者なん?

 リサはずっと喉につかえている言葉をまた飲み込んだ。今は誰にも答えの分からぬであろう問いだと知りながら、頭は考えることをやめてくれはしない。

「そういえば鬼道なんてどこで覚えたん」

 赤火砲を放つ夏樹を見てふと思ったことを口にすれば、テッサイさんに教えてもらって、と答えが返ってくる。一瞬顔が怯えたように強張ったのをリサは見逃さなかった。
 それを敢えて見逃すと、リサにしては非常に珍しく夏樹の指導を始めた。そうは言っても本当に見ているだけで特に口出しはしなかったが。途中、左右の霊圧の出力がバランス悪いから直せ、とだけ言ったことが唯一の指導と言えるものだった。
繰り返し鬼道を放つ夏樹の霊力は底なしらしく、何十発も赤火砲や蒼火墜を放ったにも関わらず息はほんの少ししか乱れていない。一発放っては飽きることなくブツブツと呟きながら微調整を繰り返す。

―なんか、似てる。何に似とるんやろ。確かにどっかで、昔、

 勝手に鬼道の二重詠唱を試し始めた夏樹にリサはハッとすると、思い切り夏樹の身体を引っ張った。
 一瞬遅れて爆発音が夏樹のすぐ足元で響く。

「何やっとんのや、アホ!」
「び、っくりした…」

 目をパチクリさせる夏樹の前髪は少し焦げていた。

「リサさん、その、ごめんなさい」
「今の二重詠唱やな?なんでそんなんやろうとしとんの」
「二重、詠唱…?」

 リサがあまりにも怒気を孕んだ声で詰め寄るので夏樹は身を縮こませる。

「何しようとしてたん」
「その、赤火砲の軌道を這縄で修正すれば予想外の方向から攻撃できるかな、と…」

 リサは二重詠唱の概念すら知らないにも関わらず創意工夫を凝らす夏樹の答えに、ふっと何十年ぶりにとある少女を思い出した。直向きに自身を磨き上げ続けようとしていた眼鏡をかけた小さな文学少女を。

「考えは悪ないけどその鬼道は相性悪いからやめとき、暴発するだけや」

 呆れてため息をつけば夏樹はバツの悪そうな顔をして頷いた。

―あの子のことやから、きっと今頃は副隊長にでもなってオッサンのケツシバいとるくらいかもな

 モヤモヤとしていた記憶の欠片がようやく掘り起こされる。不意に思い出した後輩の姿を想起するのに一瞬だけ瞠目すると、夏樹と同じように修行に励んでいた姿が目に浮かんだ。

「そろそろ朝ご飯の時間やし切り上げ。ご飯もう食べたん?」
「おにぎり持ってきました!」
「ふぅん、ほな行こか」
「うん。あ、あのっ」

 夏樹はどこか居心地悪そうに口を開く。そうして、昨日のお昼ご飯の事なんだけど、と続ける。お金を払っていなかった事をずっと気にしていたのだと言う。
 予想だにしていなかった支払いの申し出にリサは瞬きを一つした後、大きく吹き出した。

「あ、アンタこんな時にそんなアホな事考えとったん!?」
「えっ、えっ!?」
「ええわ、そんなもん。後で全部喜助に請求したるわ」
「だ、ダメだよ!自分の事くらい自分で!」
「喜助はアンタを利用しとんのやからこっちもそのくらい利用しとき。この話はこれでしまいや」
「で、でも…」
「夏樹、料理はできんのん?」
「料理?一応は…」
「ほな明日の夜、ご飯作ってって。うちん中でまともに作るん拳西くらいしかおらんのよ」

 まだ何か言いたげな夏樹の肩を軽く叩くと居間の方へ先に行くよう促した。その背中を見送るとリサは態とらしく、聞こえるようにため息を零す。

「で、なんで出てこんのや。変態」
「変態ってオマエなぁ…」

 物陰から姿を現した平子の鳩尾に勢いよく拳が入る。

「態々結界まで張ってこっちの様子覗き見する奴が変態やなかったらなんや言うの」
「張らなアイツ気付くやろ」
「何考えてんのかどうでもええけど。真子明日の晩ご飯当番、夏樹とやりぃよ」
「は?なんでやねん」
「アンタ最近サボり気味やったやないの」

 あたし、カレー食べたい。そう言うと平子は面倒臭そうに眉根を寄せた。

「なんやねん、オマエ…アッ、明日の当番自分やからやろ!?…ってそんだけな訳やなさそうやな」
「別に。ちょっと昔思い出してしもただけや」

 それだけ言えば平子は何も言わなくなった。自分でも、他人の面倒を見るなんて邪魔臭い事を進んでするなんてあり得ないとは思っている。
 少しくらいの手助けを。あの時できなかった事を。心の奥底に残る蓋をしていた痼りにほんの少しだけ向き合いたい気分になった。それだけの話だった。