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 平子は部屋を出ると夏樹を起こそうとして、慌てて襖を開く。中から呻き声が聞こえてきたものだから。

「…な、きゃ、行かなきゃ…って、待ってて…」

 繰り返し呟かれる、行かなきゃと待ってて。誰に向けられたものかは分からないが、下手にまた霊圧が乱れると不味いと夏樹の肩を揺らす。

「んっ…ん…ふ?」
「おー、おはよーさん。よう寝れたみたいやな」
「おは、よ…?」

 夏樹は眠たそうに瞼を擦って辺りを見回している。そんな様子に霊圧が暴走することもなさそうだと平子は小さく息をつく。

「ぼちぼち帰るで。はよ帰らな晩飯遅いてひよ里にドヤされてまう」
「あ、う、うん?」
「あと、しばらく帰宅禁止や。喜助ェ!アレできとるな?」
「ばっちり調整終わってますよン」

 廊下の奥から何やら大きなものを動かすような音が響く。

「帰宅禁止…?あれって、えっと」
「せや、尸魂界行くまでの間な」
「あー…霊圧が暴走する、から?」

 夏樹はぱちぱちと瞬きしながら、状況を飲み込もうと平子を見る。きっと修羅場を潜ればもっともっと、彼女の洞察力は厄介な存在になりかねないと警戒心を抱きつつ平子は頷く。

「満足にコントロールできるようなったら直ぐにでも帰したる。夜が多いんやろ?暴走すんの」
「うん…で、でも大したことないし」
「あかん、オレかリサ、ハッチのおる場所におれ」

 平子は続けて夏樹の霊圧の状況を説明した。このまま暴走の頻度や規模が大きくなれば命に関わることを告げる。

「一応症状を抑える薬は喜助が作った。けどな、基本的にあの薬は補助みたいなもんで、夏樹自身が制御できるようにならな話ならんのやと」

 水と錠剤を渡せば素直にそれを飲んだ。瓶の髑髏マークには訝し気な顔をしていたが。

「う、ん…でも、その、あんまり家を空けたくなくて」
「と思って準備しましたよォ!」

 スパーンと勢いよく障子が開く音がして、2人の肩は思わず跳ねる。

「いやぁ、早い目に準備しておいてよかったス。黒崎サンの相手しながらは流石に厳しいので」
「な、ナニコレ…」

 夏樹は引きつった笑みのまま、震える指で目の前の異物を指す。
 見事にそっくりそのまま、「相模夏樹」が立っていた。夏樹は何が起きたのか分からずにいるらしく、ただただ困惑した表情で平子と浦原を交互に見る。
 流石は元技術開発局長とだけあってその出来栄えは素晴らしいものだった。が、素晴らしすぎるが故に平子はコイツやっぱ変態やな、とも思う訳で。
 夏樹が留守の間、夏樹の代わりとして生活してくれるものだと説明するが、表情はあまり晴れない。ぐったりとした身体にソウルキャンディを捻じ込めば、ぱちりと目が開く。ヒィと小さな悲鳴を上げて夏樹は反射的に平子の服の裾を掴んだ。

「お留守の間はお任せくださいニャァン!ご主人様!」
「動い、た…って、にゃ!?自分の顔でその台詞言われるとかなりキツい…うわぁ」

 意識はすべて謎の語尾に持っていかれたらしかった。

―どういう趣味しとんや…コイツ

「何でもお申し付けくださいにゃん」
「この語尾どうにかなりません!?」
「ソウルキャンディ、ネコのメイの仕様なんスよぉ。最近人気で仕入れるのもかなり苦労したんスから」
「うわぁ…」

 直視するのも辛いようで顔を覆う夏樹に、どんまいと肩に手を置く。猫のポーズを取る夏樹の姿は幸いにも顔を覆っていたおかげで気付いていない様子だった。思わず笑いが吹き出そうになるのを平子は必死に堪える。

「だぁいじょーぶ!普通の人には違和感なく溶け込むように出来てるんで。なんと!性格は死神学者が算出した理想の性格が採用されてるんスよ!」
「すごくすごく信用ならないんですけど…でもそうも言ってられないんです、よね…うん、仕方ない、仕方ない」
「仕方ないですにゃん」
「うっ、もう私の前で喋らないで…」
「にゃっ、ンッフ、こら、あかんっ、で!も、無理やっ…!」

 夏樹のじとりとした侮蔑の視線が飛んでくるも、笑いを我慢するのは厳しすぎた。
 堪え切れず大笑いすれば夏樹は咎めるように平子の肩を掴んで揺らす。

「もう!笑わないでよ!」
「ひっ、んぐっ…無理や…!ふぐくっ」

 思いきり眉間に皺を寄せているあたり、そろそろ一発殴ってやろうかとでも考えていそうだった。
 平子は呼吸を整えると目じりに溜まった涙を拭う。

「ほな夏樹んち行って荷物まとめて、義骸置いてこよか、なぁ?にゃん」
「にゃんは余計」
「そないにしかめ面しぃなや」
「平子くんが笑うのやめてくれたらやめる」

 流石に同じ顔が2人並んで歩くのもまずいので、夏樹は死神になる。ぶらぶらと暑苦しい夜道を歩く。バスに乗って鳴木市の自宅まで戻れば、祖母がいつもと同じ様子でで義骸の夏樹を迎え入れた。

「…なんかすごい複雑な気分」
「しゃーないにゃん」
「平子くんしつこいぞ!」
「はは、だいぶ顔色良ぉなったやん」
「あ」
「もう7時やしな、ほんまに急いで帰らんとまずいわ」

 そう言って平子は夏樹の前で屈んで手を後ろにやる。

「ほれ、早よ。瞬歩使う体力ないやろ。てか霊圧安定しとらんやんけ」
「い、いやっ、大丈夫。大丈夫だよ!?」
「何が大丈夫やねん、さっき喜助にもおぶってもーてたやろ」
「もう自分で歩けるしっ、は、恥ずかしいから…」

 語尾は尻すぼみ、顔を真っ赤にさせて首を勢いよく横に振る。
 平子はため息をつくと、買い物袋を2つとも片手に持つと夏樹の体を勢いよく持ち上げた。所謂、俵担ぎだった。

「?…!?えっ!?」

 一瞬で夏樹の視界は夕暮れの茜色だけになった。急な加速に夏樹の悲鳴が響く。

「ちょっ、待って、待って!!」
「口開いたら舌噛むでぇ。素直におんぶされる気になったか?」
「なった!なったから!!!」
「足場ちゃんと作れるか?オレから手ぇ離したら落ちるから気ぃ付けや」
「ひっ、わか、った」

 出来るだけ下を見ないように、恐る恐る平子の肩に腕を回す。そんな様子に平子は喉でくくくと笑う。
 何度も空中で虚を倒し、この高度にも慣れているだろうに。

「わ、笑わないでよ…!」
「すまんすまん」

 行くで、と声をかけるのと同時に宙を蹴る。夏樹のしがみつく腕にギュッと力が入った。

「目ェ開けてみ」
「…?わっ!」

 突然脚を止めた平子の見せた空は、綺麗に茜に染まる入道雲と、夜の帳が下がりつつある藍色が入り混じっていた。少し視線を下げると金星が1日の終わりを告げている。

「綺麗…」
「なぁ、上手い遅刻の言い訳考えといてや。ひよ里に怒鳴られんで済むような」
「えぇ…それは難しいお題じゃない?きっと平子くんが1発シバかれる方が早いよ」
「夏樹盾にしよ」
「えっ、ヤダよ!」
「決まりやな」

 何も決まってない、そう文句を言おうとした。が、平子はNOはナシやと遮るように瞬歩で大きく跳ぶ。
 突風に負けそうになり、夏樹は慌てて平子の肩に顔を埋めた。
 もらった薬を服用して安心したのか、夕日で気分が晴れたのか、夏樹の声色は幾分か明るくなってた。にゃんにゃん、と揶揄えば控えめな手刀が頭に当たった。