37

 朝目を覚ますと、昨日のあの寒気と吐き気は何だったのかと思えるくらいにスッキリとしていた。晩ご飯も食べずに寝たしまったから空腹感が酷い。

―お腹すいたっ…けどとりあえずシャワー浴びよ…

 のそのそと布団から出て支度をする。時刻はまだ4時。

―昨日何時に寝たんだっけ…なんか、すごい幸せな、懐かしい夢を見たような

 夢の内容は全く思い出せず、ただただ薄らぼんやりとした感想を抱く。
 手短に朝食も済ませて広間に降りる。何をしようか悩みながら身体をほぐしていると、背後で物音がした。

「おはようさん」
「おはよ、う?」
「調子は悪なさそうやな?霊圧の調子はどうや」

 何処と無く固い空気を醸す平子に夏樹はほんの少し身構える。帽子で隠れた表情は良く見えない、口元だけがいつものように弧を描いていた。

「うん。ん…ちょっと高くなった気がする」
「ほーか。…なぁ、1つ確かめさせてくれや」

 平子はするりと斬魄刀を抜く。夏樹はびくりと身体を強張らせた。

「、何を?」
「覚悟を、や」

 行くんやな?と続く言葉に無言で頷く。

「命張れるって言うんやな」
「死なない覚悟なら、した」
「……そうか」

 そう言い切るのと同時に平子は殺気の籠った一太刀を浴びせた。夏樹は間髪を容れず死神になるが、鋒が頬を掠めた。

「急に、何っ!」
「刀抜かな死ぬで」
「っ、!」
「尸魂界に本気で行く言うんやったら、見してみぃ」

 平子はそれ以降何も言わず、無言でひたすらに刀を振るった。夏樹も必死に応酬するが、まるで赤子と大人のやり取りのような実力差だった。いつもは本気を微塵も出していなかったのだと、悔しくなる。
 夏樹の気付かぬうちに、平子以外の仲間も集まり無言で2人の斬り合いを眺めていた。
 どのくらい時間が経ったのかわからない、けれども数時間は、正午はゆうに過ぎていたことだけは確かで。身体はもう限界だと悲鳴をあげるが、そんなことはお構いなしに斬撃は降り注ぐ。

―痛い、握る手も、切られた腕も足も、

 嫌だ、止めてしまいたい。そう思う気持ちに蓋をしてもう一度斬魄刀に力を籠める。確かに自分の霊圧は上がっているが、もっと奥底に眠る力を引き出せるような感覚もあった。
 目まぐるしく逡巡すう思考とは裏腹に、無言の斬撃の応酬に只管に抵抗するしかなく。打開すべく攻めの一手を必死に探る。

「早よ始解しせんかい!」

 怒鳴るように告げる平子の言葉に返す元気もなく、荒い息のみが口から出た。
 そして遂に夏樹の片膝が地面に着いた。ガクガクと疲労から震える脚は意志と裏腹な行動を取る。それでも気力で立ち上がると、視界がチカチカと点滅しだした。

「あかん!真子止めるで!」
「待て、もう少し」

 頭上でひよ里が飛び出ようとするのを羅武が腕を出して制止する。そう会話する声も下で戦闘を続行する2人には届かない。

―あ、れ…やば、

 目の前に迫るのは殺意の篭った刀。直撃したら死ぬ、そう思った瞬間、視界が暗転した。
 斬魄刀を握る手に誰かの手が重なる温もりを感じる。

―呼べ、もう聞こえるやろ。オレの名前

 彼の声と一緒に背中を押される感覚に、小さく息を吸うと呟くように言の葉を続ける。

「―――繋げ、翠雨」

 身体の奥底から鉄砲水のように押し寄せる衝動的なエネルギーに身を任せるままに、刀を振りかざせば細く白い光が平子へ伸びる。
 矢のように放たれたソレは瞬きひとつした間に平子の脚へ突き刺さった。
 が、平子の動きが一瞬止まるもののこちらへ襲う勢いは止められる程ではなかった。

―あ、避けれな、

「…間一髪って、ヤツやね」

 衝撃に耐えようときつく瞑った目を恐る恐る開けると、片眉を下げたリサの顔があった。

「リサ、さん…」

 ずるりと力抜けた身体が地面に倒れ込むのをリサが支える。どうやら身体を彼女が引いてくれたらしい。地面に座り込んで漸く前を向くと、平子が酷いしかめ面でこちらを見ていた。

「コレ、早よ解除してくれ。痛いんやけど」

 地面に座り込んだ自身の脚に、突き刺さった白い矢を指さす。

「ご、ごめんっ!こう?」
「アダダダダ!!アホ!逆や逆!!なんで霊圧吸い取る方に力籠めとんねん、殺す気か!!」
「え!?」
「イダーーーーッ!強めんな!アホ!アホ夏樹!!下手くそ!」
「えぇぇ、どっ、どうしよう!」

 夏樹がどうにかしようとする度に平子に痛みが走るらしく、苦悶の声と罵詈雑言が響く。あたふたと力を込めては平子の悲鳴が上がり、その度にリサが声を立てて笑った。
 確かに自分の中に霊力が満たされていくのが分かる。この斬魄刀は、そういった類の能力を持っているらしい。

「オマエ…オレの霊圧吸い尽くす気か…」

 漸く、パキンと音を立てて矢が空に溶ける。ゼェハァと息切れる平子とは対照的に夏樹の顔色は幾分良くなっていた。

「ご、ごめんなさい…」
「ったく…始解できるようなったんやったら後はちゃァんと鍛えとけ!」

 平子はため息をひとつ吐くと、ベシンッと夏樹の額に小気味のいい音のデコピンをかます。

「いったぁ…」
「お返しじゃ、ボケ」

 痛みに悶えていると、平子は軽い千鳥足でその場を去った。

「お疲れ、よかったやん」
「あ、リサさん」

 夏樹は手元に視線を戻す。純白、というものはこうだと示すかのような白さの刀身。切先は透明で薄く、触れば崩れてしまうのではないかと思う程の儚さを纏っていた。薄い鍔には繊細な蔦模様が刻まれている。

「…綺麗、」

 美しさの概念を象ったような斬魄刀に対して、夏樹は辛うじて形になった感嘆を漏らす。
そっと刀身に指を滑らせると指先から金属独特の冷たさが伝わってくる。刀を鞘に納めると、いつもよりも澄んだ音で鯉口が鳴った。

「あ、れ…」

 ホッと息をつくと、不意にぐらりと身体が傾き掛けた。上手く力が入らない。ぐらぐらと視界も揺らいで、夏樹は思わず片手で顔を覆う。

「初めての始解で疲れたんやろ。今日はもう休み」

 うん、と返事をしようとして眠気に耐えられなくなったらしい夏樹は意識を飛ばした。ごとりと頭を地面に打ち付けそうになるのをリサが慌てて受け止める。
 床に寝かせたままも良くないだろうと、ハッチが修行用に使っていたマットへ夏樹を運ぶ。静かに眠りこける夏樹の顔を覗きにひよ里がそっと近付いた。

「…呑気な顔しくさりよって」
「ん、ん〜…」
「まぁ今日くらいはそっとしておいてやりな」
「…フン」

 ぐりぐりと夏樹の頬を押し潰していた指を離すと、ひよ里もまた一人何処かへ去って行く。その背中を追う訳でもなく、リサと羅武も別の方向へと散って行った。