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 平子はぼんやり自室でお気に入りのジャズを流していた。けれど、耳から入った音は脳にまで届かず、音が止まったことにさえ気づく様子もなかった。食事を取る事すら忘れて、どのくらいそのままだったのか。薄く開いた眼はどこを捉える訳でもない。

「真子、晩飯やぞ」
「……」
「ハゲ」
「…………」
「オイ!返事くらいせえや!!このポンコツ!!!」

 返事どころか自分に視線すらよこさない平子の胸倉を思い切り掴んでガタガタと乱暴に揺らす。

「っうぉ!なんやねん急に!!」
「なんやねんちゃうわ!目ェ開けながら寝てんとちゃうぞ!!何べんも呼ばすなや!ハゲ!」
「は?寝てへんわ!!」
「ったく、飯くらいちゃんと食べんかい」
「ハイハイ」

 平子は気怠げな表情のままソファから立ち上がることなく、動きを止めたひよ里を見つめる。

「…どないした」

 ひよ里は何度か視線を動かした後、重たそうに口を開いた。窓から差し込む茜色に邪魔されてひよ里の表情は平子からはよく見えない。

「あいつ、裏切ったりせんのか」
「…何でそう思うんや」
「やって、藍染の娘なんやろ」
「せやな。直接会うてみてどうやった」
「…ただの人間やった。甘たれで、普通の」
「やろうな」
「うちが手合わせしてできた傷、全部治していきよんねん。ええって言うてんのに」

 平子はひとつひとつ、丁寧に拾うようにひよ里に言葉を促していく。

「ほーか。まぁ人を傷付けんのが嫌や言うんやもんな。ほんで?」
「…真子は、どない、思とんねん。アイツの斬魄刀やぞ?ええんか?」

 珍しく切れ切れに言葉を紡ぐひよ里を揶揄うでもなく、平子は淡々とした声色で答えを出した。

「…ええも何も、そこにあるっちゅーだけやろ」
「うちは、」

 数回口を開けては閉じて。ひよ里は平子の顔から視線を逸らして小さな声で呟いた。

「うちは、アイツが帰ってくるって信じたいねん。アホみたいやけど」

 夏樹の奴ももう起きとるで、と振り返ることなく言い捨てて、ひよ里は部屋を出て行った。

「信じたい、か…」

 空の茜色はもう随分と藍色に染まりつつあった。
 ひよ里に、浦原にすらも、黙っていたことがある。
 夏樹の霊圧が暴走して、その抑止に巻き込まれた時に平子は彼女の霊圧に確かに触れた。夏樹の霊圧の中にある、彼女の痕跡。柔らかな軌跡から、平子は何かの片鱗に触れた。
 誰を、何をなのかなんて事は分からない。けれど、確かにあの時彼女の守る意志があった。
 どうにもそれが、夏樹が死神化してからずっと感じていた喪失感を助長させていた。

 考えすぎてはいけないと顔を上げれば時計の針はもう7時を指していた。
 時間を認識したからか急に空腹感が襲ってくる。今日の当番はラブだったろうからどうせいつもの弁当屋だ。


= = = = =


 明くる日の夕方、のんびりとした空気がアジトに漂う。夏樹の霊圧は随分落ち着いたように感じた。浦原の処方した薬がよく効いているらしい。
 あの霊圧暴走は平均して日に2度。薬で抑えられるのは規模だけで回数自体は抑え切れていない。リサと平子、ハッチの誰かが、夏樹のそばに着くようになっていた。
 それが始解のおかげで霊圧の操作も容易になったようで、始解を修得してからはまだ暴走が始まっていなかった。霊圧がぐらついているのは変わらないが。

「今日で10日目、まぁなんとか昨日には始解もできて及第点ギリギリクリアなんと違う?」

 リサが食後のコーヒーを片手に肘つきながらでも夏樹に声をかける。

「まだ全然ヒヨコやけどな」

 テレビに顔を向けたまま、詰まらなそうにひよ里が口を挟んだ。

「あはは…」
「何でそこで笑うねん!キレるとこやろ!!」
「ひよ里ちゃん自分で言っておいてそれは…」
「うちはええねん」
「いた、痛いいひゃい!」

 ひよ里は無造作に夏樹の片頬を引っ張った。ぱたぱたと手を振るがひよ里を押し退けようとはしなかった。
 不意に夏樹のケータイが鳴ってその場を外す。しばらく経っても戻って来ないものだから、平子はふらふらと夏樹のいるであろう方へ足を運ぶ。
 過保護か、とひよ里から野次が飛んだが、あいも変わらずぐらぐらと霊圧を揺らしっぱなしにされては心配するなと言う方が無理な話だった。

「……ん、うん。ごめんってば。あはは、また来年行こ?今年は…うん。花火、皆んなで楽しんできてよ。じゃあね、汐里」

 曲がり角の向こうから花火と単語が聞こえてきて首を捻る。そういえば、明日は鳴木市の花火大会かと商店街のポスターを思い出した。自分の靴の音で夏樹がこちらを振り返る。

「あれ、平子くん」
「花火行けへんの」
「あー…うん。今年はいっかなって」

 へらりと何でもないような顔で笑う姿に平子は薄っすらと苛立ちを覚える。
 
「明日は休みやぞ、修行」
「へ?」
「オレらも祭り行くし。だぁれもお前の相手なんか出来へんから、自主練もナシや。あーあー、折角の祭りの日ィにこんなとこでもたくさするんは誰やろなぁ」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返した夏樹は意図を汲み取ったのか、苦笑いを返す。

「じゃあお留守番してるね」
「なんでやねん!」
「平子くんだって分かってる癖に」
「別にええやないか、華の女子高生やぞ。ちゃんと楽しむことくらい楽しめや」

 ベシンといい音を立てたデコピンが夏樹の額に決まる。少し涙目になりながら額を抑える姿に少しスッとする。

「休むんも修行のうちや」
「んー…」
「強情なやっちゃやのォ…」

 本当は使うつもりはなかったのだけれど、強情な彼女は思いのほか生き辛い道を行こうとするのが好きらしい。
ポケットから取り出したものを無造作に投げる。

「わっ」

「それ、霊圧抑えるモンでな。喜助から預かっとったんや。根本的な霊圧問題の解決にはならんから使わんつもりやってんけど、祭りん時くらい使えばええやろ」

 白いシンプルなブレスレットを夏樹はまじまじと見つめる。恐る恐るといった様子で腕に付けると、顔がパッと綻んだ。

「どうや?」
「すごい、ちょっと楽になった。霊圧がぐらぐらしない」
「なんかその様子やと暫く付けっぱでもええかもしれんなぁ。ま、花火はこれで行けるな」
「ありがとう、平子くん」

 顔を上げた夏樹の表情は、汐里といる時によく見ていた笑顔だった。

「やっとええ顔でわろたな。ここんとこずーっと顔、強張りっぱなしやったで」
「そんな事ないと思うんだけど…」

 おかしいなぁと笑う姿はやはり何処と無く固かった。

「オレらも近くにおるやろうから、まぁ、祭り行ってき」
「…うん、そうする。えへへ、汐里と会うの久しぶりだなぁ。なに着てこう」
「浴衣」
「いや、それはちょっと面倒かな…持ってないし」
「風情のないやっちゃ」

 態とむくれて見せれば夏樹はカラカラと笑った。ぬるい夏の夜風が頬を撫でた。