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 夕方、時折姿を消す平子を探しに夏樹はふらふらとアジト周辺を歩く。割とよくいるのは、倉庫と倉庫の間の物陰で、そこは風通しも良く避暑には持ってこいの場所だった。思った通り、タバコの煙が通りの間から漏れている。
 金糸が角の向こうに見えた。けれど、平子くん、ご飯だよ、そう口にするはずだった言葉はうまく喉を通らなかった。平子が指でつまんでいたのは、母の形見。
 平子は無表情に手に持った石を見つめている。その横顔が寂しそうで、苦しそうで。夏樹は今すぐに立ち去りたい衝動とそれに相反する衝動に板挟みになって動けずにいた。

―あ、れ。変だな

「…ん?夏樹か?」
「っと、あの、ご飯だよって」

―どうして、ごめんなさい、なんて思ったんだろう

 平子はチョイチョイと手招きした。何だろうと思いながら近づくと、平子は夏樹の手を取った。

「これ、返すわ」

 平子は手のひらにそっと形見を乗せる。壊れぬよう丁寧に、そして、何処か名残惜しそうにそれを手放した。

「えっ、なんで…!」
「始解もできた、斬術も回道も上手なった。尸魂界、行ったらええと思う」
「う、ん」
「せやから、これは夏樹が持っといた方がええと思ったんや」

 平子はジッと夏樹を見つめる。けれど、その懐かしむような視線に夏樹は違和感を感じた。こちらを見ているようで、何か別のものを見ているような。
 
「飯、行こか」
「うん…って、あれ」

 手のひらに視線を戻すと、母の形見は預けた頃と随分色が変わっていた。

「白い…」
「あぁ、それな。多分やけど夏樹の霊力と呼応しとる」
「私の…?」
「これに霊力込めると黄色なるんやけど、随分減っとるやろ」
「うん」
「元々、コイツは死神の霊力がスッカラカンなった時、緊急の霊力回復道具として使われとったんや」
「なんでそんなものが…」
「分からへん。けど今は別のモンに変わっとる。まぁちゃんと持っとき」
「でもっ、これ平子くんにも大事な物なんでしょ…!?」

 平子は一歩先に歩き始める。夏樹は手のひらを握りしめて、その場から一歩踏み出せずに居た。

「せや、大事や」

 平子の影がピタリと動きを止める。

「やから、ちゃんと持って帰って来るんやで。返さんでもええから、無事に戻ってこれたらそれでええ」

 それだけ言い切ると、平子は振り返ることなくスタスタとその場を去った。
 夏樹はもう一度手のひらに収まる形見を見やる。母の形見は何も変わらないはずなのに、何故だか平子に預ける前よりも重たく感じた。強く握りしめると、髪を結い直す。

―お母さんの形見は、ここ…ここに、あるのがいい気がする

 ポケットに今まで付けていた髪飾りを仕舞うと、勢い良く地面を蹴った。

「お先っ、平子くん!」
「は!?」
「最後に来た人が皿洗い!でしょ!」
「っくそ!セコいぞ!」
「ずるくないよ!」


= = = = =


 1人自室でそっと斬魄刀を撫でる。
 明日の深夜、尸魂界に行く。きっと自分は何かを見つけるのだろう。何かを知るのだろう。
 それはとても恐ろしく、今までの全てが崩れ落ちるような暗い暗い行き先で。それだのに、自分の足は歩む事を止めることはないのだろうと理解していた。
 人間の好奇心は如何してこうも理不尽なのだろう。知らずにはいられない、手を伸ばしてしまう。
 時計を見ると1時を回っていて、明日も夜中まで起きていなくてはいけないのに、と苦笑いが溢れる。嫌に目が覚めているのは気が昂ぶっているからだろうか。

―少し外の空気でも吸って来よう、気分が変われば眠れるかも

 屋上なら風通りがいいかもしれないと、死神になって一気に空に向かって飛ぶ。こういう時に死神は便利だなぁなんて呑気なことを考えながら。

―満月、過ぎちゃったなぁ

 ぼんやりと月を眺めながら、屋上の桟に身体を預けて座り込んだ。風が時折吹いておろした髪を揺らす。
 落ち着いた時間が改めてできると、どうにも余計なことにばかり意識が向いていく。
 母のこと、自分の力のこと、『お姉ちゃん』のこと、平子のこと、そうして父のこと。特に父の話をするのはタブーな気がして、家族の話を意図的に避けていたし、考えないようにもしていた。

ーあぁ、そっか。私、みんなと、大事な話を何もしてないから、

 自分は今もまだあの薄氷の上に立っている。平子たちとの関係は、極めて不安定で偽りの平穏だと気付いている。きっと尸魂界に行けば、この薄氷のような平穏は全て砕け散るのだとも、何となく理解していた。

―大丈夫、大丈夫…

 不安を押し隠すように母の形見を両手で包む。

―でも、もし、もしも。私が望もうと望むまいと、平子くんたちの『敵』になってしまったら、

―…やだ、なぁ、

 じくじくと痛む胸を今日は知らん振りするのも難しくて、夏樹は目頭が熱くなるのをグッと堪える。
 屋上に上がったところで結局気分は晴れず、空を見上げればさっきまで見えていた月は、すっかり雲に覆われてしまっていた。

―でも、やっぱり、処刑だけは止めなきゃ、でも、

「寝れへんのか?」
「ヒッ!」
「そないにびっくりせんでもええやんけ…」

 突然声を掛けられて身体が大袈裟に揺れた。ビーチサンダルが床と擦れる音が近づき、見上げると金髪が風になびいていた。
 呆れの含んだため息とともに、平子は慣れた手つきで煙草に火を付ける。

「何夜更かししとんねん、お肌に悪いぞ」
「お肌って、ふふっ。煙草の方が悪そうだよ」
「オレはええねん」

 煙が風に乗って霧散する。それをただぼんやりと眺めていた。無言で平子の口から吐き出る煙を目で追っていると、不思議と不安が少しずつ凪いでいく。
 顔を横に向けると、桟に持たれ掛かった平子の左手が目の前にあった。
 細くて、けれども自分の指より節々が骨張る、大きな男の人の手だった。薄くヤワに見えるのに、刀を握り続けた掌はとても固い。

―いつも、この手が、助けてくれた。何も言わず、助けてくれた。向き合うのを怖がる私を

「どした?」
「な、なにも」

 ぼやっと手ばかり眺めていたら、視線に気付いたらしい平子がこちらを向く。

「なんや、心細なったんか」

 ニヤニヤとした顔が上から降ってきて、夏樹は思わず視線を逸らして、別に、と否定の言葉を投げた。

「ま、そら当然やろ」

 ぐしぐしと床にタバコを捻じつけてしまえば、赤い火の粉は空へと消えた。ガラ入れに器用に吸い殻を投げ飛ばすと、夏樹の正面にしゃがみ込んだ。

「ほれ、真子クンパワー注入や」

 夏樹の両手を取るとするりと指を絡ませる。霊圧暴走した時と同じように、ぎゅっぎゅっと手を何度か握る。
 平子はしてやったりと口元に弧を描いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す夏樹を笑った。

「真子クンパワーって何」
「そらァ…アレやで!無敵のパワーやな」
「すっごいアホっぽい」

 夏樹は無性に恥ずかしくなって立てていた膝に顔を埋めた。

―顔が、熱い…夜で、良かった

 触れてはいけないと、何となく思ったから。だから、そっとその感触を思い出すだけで良かったのに。触れた箇所が妙に熱くて、力が入らない。

「…平子くんはさ、」

 気が緩んだせいか、余計なことが口から溢れそうになり慌てて口を噤む。

「…ごめん、何でもない」
「何やねん。途中で切られたら気になるやんけ」

 顔を上げると茶化す訳でも、無関心な訳でもない、彼自身の人柄が滲み出るような表情がそこにあった。
 夏樹はユルい表情を作る平子を見て、強張った身体からゆっくりと力が抜けていく。誰かの心に寄り添おうとする、彼のその空気が好きだと思った。

「…もしも。もしもの話、なんだけど」
「おん」
「私が、敵になったらどうする?」

 動いていた平子の指がぴたりと止まる。夏樹の言葉に平子はゆるい表情のまま片眉を下げて首を傾げた。

「なんやお前、敵になるつもりなんか」
「ちがっ、くて…ごめん、そういう事じゃなくて」
「…ゆっくりでええから、言うてみ」
「え、っと…ルキアちゃんの処刑を、止めないと、何か取り返しのつかない事になるような、気がしてて」
「ずっと、嫌な予感がこびり付いて、」

 平子は言葉を必死に探す夏樹を急かすことなく、ゆっくりと相槌を打つ。焦らなくていいとでも言うように。

「お父さんの事とか、色々考えてたら……怖くて、」
「ごめんなさい。わたし、何も大事な話、できなくて」

 目頭が熱くなる感覚に夏樹は再び顔を膝に埋めると、繋いだ手を解こうとした。
 平子はそれを邪魔するように、握る力を強くする。

「…オレも、言うてへんことぎょうさんあるんや。言わなあかん、大事なこと」

 一緒やな、と覇気のない声が聞こえてきて夏樹は思わず顔を上げる。この人は、いつだって自信に溢れていて揺るがない、心の何処かで彼は完璧な人だと思っていた。不安の色が映る瞳に自分も平子も変わらないのだと気づく。

「戻ってきたら、話すわ。向こうで見て、オレの話聞いて、自分がどうしたいか考えたらええやんか」
「…………うん」
「あいつらも、夏樹のこと簡単に突き放したりせんから。皆んなで考えたらええんや」
 
 平子は夏樹の手を強く引いて立ち上がらせる。漸く解かれた手を、自分で解こうとした手が離れるのを、寂しいと思ってしまうのは強欲だろうか。

「行ってき、夏樹。ここで待っとるから」
「うん」

 不安はなくならない。情けなく震える足で、それでも進むと決めた。立たせてくれる人が、背中を押してくれる人がいるから、帰ってくる場所があるから。
 平子に背中をトンと押されて、夏樹は少しぎこちない笑顔を作る。不安を受け入れた、強がりの笑顔だった。平子は十分だ、と言うようにいつものにやりとした悠々とした笑みを返した。

「行ってきます」