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「…っ、」

 目を覚ますと薄暗い見知らぬ部屋で。クラクラとする頭を抱えながら起き上がると、鳩尾がじくじくと痛んでいた。

―どこだ、ここ…

 ぐるりと見渡したところで詳細は分からないが、どうやら自分は何処かの部屋にいて布団に寝かされていたらしい。

「あぁ、おはようさん」
「ギ、ン…」
「思ったより顔色は良さそうやね」

 夏樹は反射的に腰の斬魄刀に手を伸ばすが、空を切る。夏樹の顔が強張るのを見てギンは苦笑いを零す。

「そないに警戒せんでもええやんか」

 そう言いながら、ギンは斬魄刀を夏樹に手渡した。手元に相棒が戻り安堵する。

「どうしてギンがここにいるの」
「そらこっちの台詞やわ。死んだん?」
「違う、けど。ギンは…死んだの…?」
「まぁせやろね」

 感情の読めない笑顔は相変わらずで、何処までが真実なのかは判別がつかなかった。
 父との関係性は定かではないが、物心ついた頃からずっと一緒に遊んだりしてもらった記憶がある。彼の関西弁を真似してみては、父が困った顔で笑っていたのを思い出した。兄のように慕っていた存在だった。
 母が死んだ日を境にパタリと姿を見せなくなった事を今更思い出す。そうして夏樹は、ふと思い付いた事を前のめり気味に口に出した。

「ねぇ、ギン!お父さんとお母さんこっちで見てない!?」
「なんで?」
「だって、死んだら尸魂界に送られるんでしょ」
「そら死んだらやけど、虚に殺された人はこっちに送られてこんよ」
「そ、っか…」

 最初の勢いはみるみる尻すぼみに小さくなって夏樹は項垂れた。

「って…待って」
「?」
「なんで?なんで2人が虚に殺されたって、知ってるの…?」
「夏樹」

 夏樹は無言で斬魄刀を柄に手を掛ける。敵意を宿した表情に対して、ギンは夏樹の手を取るとやんわりと柄から離させた。

「あかんよ、そんなんしたら。ボク、キミのこと殺したないなァ」

 手を離されている間、夏樹は微動だに出来なかった。地肌に纏わりつくような、身体の髄から感じる恐怖に冷や汗がこめかみから流れ落ちる。

「夏樹。なんで来てしもたん」

 静かに怒気を含んだ声でギンは夏樹を静視した。
 どういう意味なの、そう聞きたかったが、乾いた舌が口に張り付いて上手く言葉を発せられない。

「来てしもたもんはしゃーない、か。キミ、お母さんに似て頑固やからなぁ」

 ため息混じりにゴソゴソと懐から小瓶を取り出す。

「これ、飲んで」

 目の前で摘まれているのはは白い錠剤。見るからに怪しい上に、本人も得体が知れない中、そんなモノを服薬できるはずもない。夏樹は思い切り首を横に振った。

「何、それ」
「何やっけなぁ…境界をなくすとか馴染ませるとかどうとか…まぁええか、死ぬ覚悟、して来たんやろ」

 一歩分ギンが布団に乗り上げて近づく。夏樹は思わず後ろにずり下がるが、背中が壁に当たってしまい逃げ場がなくなる。

「そんな訳わからないの飲む訳ないじゃな、んっ」

 突然指が口に無理やり押し込まれる。何が起きたのか分からず一瞬反応に遅れる。突き飛ばそうとした両手は簡単に片手で纏められてしまった。

「ん、んっ!」

 指が抜かれた瞬間、嘔吐きながらも錠剤をどうにか吐き出そうと口を開ける。

「あかんよ」

ぬるり。

「!!?」

 口の中に入ってきた異物に夏樹の身体は驚きを通り越して動くことすら出来なくなった。顎を掴まれて振りほどく事も出来ずただひたすらに翻弄される。
 薄く目を開けたギンと目が合って、どうしようもない羞恥に耐えかねて目をきつく閉じた。
 角度を変えて、何度も、何度も舌が口内を蹂躙する。抵抗虚しく錠剤は喉の奥を通り過ぎてしまう。恐怖と羞恥が入り混じって、頭がキスされているのだと理解でき始めた頃には意識が朦朧とし始めていた。漸く離れた口からは糸が引き、ギンのいつもの薄ら笑いを浮かべた顔が視界に入った。

「よう飲めました」
「…けほっ、」

 夏樹は咳き込みながらボロボロと涙を流し、呑気な科白を吐くギンを睨んだ。

「……は、じめてだっ、のに…!」
「あぁ、初めてやったん。そら堪忍」

 ギンが自分に向かって伸ばした手を思い切りはたき落す。情けない程に狼狽して、夏樹の手は酷く震えていた。

「出てって」
「夏樹」
「出てっててば!!!」

 その後ギンが何か言ったような気がしたが、夏樹の頭はそれを受け入れるだけの余力もなく。膝を抱えると唇を噛み締めて静かに嗚咽を零した。

―初めて、だったのにっ…!

 恐怖で動けない自分が情けなくて、さっきまでの感触が口の中に残っていて涙が止まらない。

―やだ、やだ、どうして…っ!わたしが、キス、したかったのは!…したかった、のは…?

 口の中に残る感触への嫌悪を払拭するかのように、自分の指を組む。

「っうぁ」

 怒りが収まらぬ中、突然身体の奥が疼き始める。ほんの少し前まで頻繁に起きていたあの感覚に夏樹は背筋が凍る。

―な、んで…!?まさか、さっきの薬…!?

 心臓が、凡ゆる臓器が鷲掴みにされて、熱に浮かされる感覚に夏樹は座っていることすら困難になる。

―どうしよう、こんな所で…!

 花火大会の時を彷彿させる熱量に目眩がした。苦しくて、熱くて…哀しくて。まるで『自分が自分で無くなる』ような感覚に恐怖する。
 自分では抑えきれない霊圧に翻弄されるがまま、夏樹は意識を落とした。


 = = = = =


 額に冷たいものが当たる感覚で意識がぼんやりと覚醒し始める。

「あ、れ…」
「あぁ、目が覚めたかい」

―ここ、どこ…わたし、なんで

 瞬きを何度かすると、視界が明瞭になって見知らぬ死神の男性がいるのを認識できた。

「隊長の姪っ子さんなんだってね、あの人に親戚がいる事にびっくりしたよ」
「あなた、は…」
「ボクは吉良イヅル。市丸隊長の部下で、キミの看病を頼まれてね」
「イ、ヅル…イヅルさん…?」

 柔らかい声色に夏樹は小さく安堵の息を吐いた。水分を取るように言われ、背中を支えられながら上体を起こした。
 イヅルに後のことは頼んだから、ギンが去り際にそう言っていたのを思い出した。左目が前髪で隠れた金髪の少し鬱屈そうな青年がそのイヅルらしい。

「薬も飲めるかい?解熱鎮痛剤なんだけど」
「け、結構です…」

 飲まされたのとは別の形の錠剤だとしても、さっきの今で薬なんて、しかもそれがギンの部下が用意したものなど飲める訳がなかった。夏樹は酷く怯えた表情で首を勢いよく振る。
 吉良は苦笑いしながら薬を救急箱に仕舞った。

「薬は苦手かな」
「え、っと、はい」
「食欲は?水分と栄養は取っておいた方がいい。固形物を食べる元気はありそう?」
「空いてないけど、食べられそうです」
「じゃあおにぎりでも持ってくるよ」
「その、すみません…」
「これでも昔は四番隊に居たんだ。安心してくれていいよ」

 少しぎこちない笑顔を浮かべた吉良は空になった湯のみを持って部屋を出た。
 夏樹はズルズルと布団に寝戻る。少し起きているの精一杯だなんて情けないと唇を噛み締めた。

―今は、朝?昼…?ここはどこで、どのくらい寝てたのか確認しないと…ルキアちゃんの処刑まで10日はあるはず。焦って捕まったらそれこそ本末転倒だ…

 未だ揺れる霊圧は、今までと違ってこんこんと湧き出る泉のようで。いつも暴走していた霊圧は自分のものではなかったのに、今は自分の霊圧が底無しに増えて行くような感覚に近かった。自分がどんどん侵食されていくような感覚に震える。

―ギン、何考えてるの…境界を無くすって、何を…なにを

 思考は微睡み、恐怖すらも飲み込んで意識は深く深く落ちていく。


 = = = = =


 夏樹の寝かされたギンの私室を出て、吉良は漸く安堵の息を吸う。

―何者なんだ、あの子は…!あの霊圧、平隊士が持つものじゃない、下手すると隊長格だぞ…!

 深いため息と共に調理室へと足を向ける。旅禍の件でまだ何処と無く浮ついた雰囲気の隊舎内で、ギンに彼女の世話を頼まれた経緯を思い返していた。
瀞霊廷の外壁が降り立った事態が漸く落ち着きを見せ始めた頃、ギンに私室に来るように言われる。そんな事を言われた事など初めてで、戸惑いを隠せず首を傾げていると手招きで急かされた。
 私室には何故か結界が張られており、部屋には少女が寝かされていた。中に入った途端異常な霊圧に思わず口を覆う。

「た、隊長これは…」
「ボクのー、姪っ子。ちょっと事情が厄介やねん。この霊圧はしばらくしたら治るはずやから、それまで看たってくれへん?」
「ボクがですか!?」
「この霊圧やからそこいらの隊士には無理やし、て言うか任せたないし」
「は、はぁ…って、この異常な霊圧はなんですか!?うちの隊士にこんな子はいなかった筈では…!」
「とりあえず死なんように世話したって」

 あまり説明したがらない彼に吉良は説明を求めるが予想通り、ボクは隊の様子見てくるし後は任せるで、と一言で片付けられてしまった。
 とは言え、他の誰かには任せたくない仕事だと言われてしまえば逆らう事もできない。それどころか珍しく頼りにされたと嬉々としてしまう。
 恐る恐る少女に近付けは、腫れた目元には涙の跡が付いていて呼吸は荒かった。顔もやや赤らんでいて、額に手を当てると熱があるようだった。

―霊圧が過剰暴走している…?霊圧は時間経過で治るのであれば、とりあえずは水分と栄養の補給。それから解熱鎮痛剤があった方がいいかもしれない

 少し冷めた米を握りながら、ほんの数時間前の経緯はそうだったと1人頷いた。

―隊長は本当に言葉が少なすぎる!ついていくこっちの身にもなって欲しいものだ…

 隊長の姪とあれば良いように見せたくて、無意識のうちに普段よりも饒舌になっていた事に対して本人は自覚していなかった。
 握り飯を持って再びギンの私室へ向かう。隊長本人は不在のようで、恐らく旅禍騒ぎの指揮を取っているのだろう。

「体調はどうかな」
「あ、えっと、イヅルさん…」
「顔色は少し良くなったね」
「すみません…」

 ぺこりと頭を下げた少女は、失礼ながら彼の姪とは思えないほど礼儀正しく、あの独特の訛りもなかった。顔も似ていないが、流魂街出身となれば血縁関係以外の親族だってあるだろうと流す事にした。

「口に合うといいんだけど…」
「ありがとうございます。あの、さっき外が騒がしかったんですけど…何かあったんですか?」
「あぁ、旅禍がね昨日の昼頃に侵入しようとしたらしいんだ。あれから騒ぎもないし門番に追い返されて終わったんだろうね」
「旅禍…?」
「うん。瀞霊廷への侵入者、かな。詳細は分かっていないようだけど」
「そう、ですか」

 どこかホッとした様子を見せると、おにぎりに食べ始める。美味しいです、と口元を綻ばせた様子を見て吉良も少し表情が和らいだ。