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 夏樹がもう一度目を覚ましたのは日が明け始める少し前の頃だった。

―わたし、一体どのくらい寝て…

 前と違ってギンも吉良もいない。斬魄刀はすぐ手元にあるのだから、いつでも動けるはずだ。だるさもなく、むしろ霊力が増えて身体も軽いくらいだった。

―みんなの霊圧…うん、生きてる。ちょっと感じにくい人もいるけど。前よりもずっと感知の範囲が広くなってるのは、あの薬のせい…?

 夏樹は一呼吸分息を吸うと霊圧を消して辺りの散策に出かけた。まずは情報収集だ、と。

―ルキアちゃんの霊圧は、あっちの方から…どうしてだろう。静かすぎる

 目を凝らすと奥の方に白い塔が立っている。そこが牢だろうと周囲に警戒しつつ走り始めた。

―あ、れ。違う、こっち右。で、次を左…なんで、私知ってるの

 人の少ないほうを選びながら着実に道を進める中、身に覚えのない既視感に夏樹は底知れぬ不安を感じていた。

『まァたそうやってひよ里ひよ里て!オレんこと放置か!』

 一瞬のフラッシュバックに夏樹は思わず踵を返す。止まる事なく脳裏にちらつく金色に目眩した。

『アホ、オマエの考えとる事くらいお見通しや』
『今日の晩飯なんなん』
『いーやーでーすーゥ、今日はオレの好きにさしてもらうで』

 ズキズキと痛む頭を抑えながら、こめかみから流れる冷や汗を乱雑に拭った。
 平子がこちらを愛おしそうに目を細めて笑っていたり、楽しそうに企む顔を作っていたり。死覇装に白い羽織を着て、長い髪の間から見える五の文字。

『ほら、  、行くで』
 
 愛おしい。そんな感情が向けられた記憶の断片に身体がふらつき膝をついた。

―いま、私、だれだった…?

 どくどくと妙に自分の心音だけが身体に響く。自分の存在そのものが不明瞭になる感覚は今までにないくらい輪郭を持った恐怖として襲いかかる。
 夏樹は数度深く呼吸をすると、ゆっくりと目を開けた。

「大丈夫、私が尸魂界に来たのはルキアちゃんを助けるため。大丈夫、私は私。大丈夫…」

 ぶつぶつと自分のすべき事を復唱して恐怖を無理やり跳ね除ける。

―今は…!ルキアちゃんの救出が先!!

 あちこち影で走り回ったり新入隊員のフリをしたりして情報収集した結果、阿散井副隊長が旅禍に倒された事、藍染隊長と言う人が殺害された事、そのいざこざで吉良副隊長と雛森副隊長が牢に入れられた事、旅禍が複数名捕まった事、と矢継ぎ早に脳に情報が叩き込まれていく。

―予想以上にごった返してる…

 夏樹はさらに慌ただしい様子の死神達が、ルキアの処刑が早まったという情報を掴んだ。

―今日の正午…!?時間がもうない、急がなきゃ!

「!…この霊圧、イヅルさん…?」

 自分の進行方向にある見知った霊圧に夏樹はルートを変えて足を進めた。が、

―着いてくる…!?

 どうにか避けようとしていたのに、ルキアのいるであろう牢のすぐ近くのだだっ広い場所に着いてしまった時に漸く誘導されていたのだと気付いた。

「…夏樹さん」

 明らかに憔悴しきった目でこちらを見つめる吉良の様子に、半ば無意識に柄に手を掛けた。

「ここで君を止めるよう言われてね、悪いけど倒れてもらうよ」
「お断りしますっ!」

 2人とも同時に刀を引き抜き、ぶつかり合う金属音と共に火花が散った。

「どいてください!」
「君が何をしようとしているのかは知らないけれど、僕は隊長の命を遂行するだけだよ」

―一振り一振りがっ、重い…!けど!現世にいた時より身体が軽い…!

 夏樹は相手がこちらの実力を甘く見ているだろう早期に決着を付けようと刀を構える。

「悪いけど、隊長の姪に油断するほど甘くはないよ」

 一瞬、ほんの一瞬の隙をついて吉良は夏樹を斬った。左腕から血飛沫が飛ぶ。スローモーションのように、自分の身体が傾くのを感じて、気が付けば地面に倒れていた。

「ごめんね」
「っうぁぁぁああぁ」

 夏樹は意識が遠のきそうになる中、回道を傷口に当てる。痛みが少し和らいだところで、上体を起こし吉良に向かって刀を振った。

「…はっ、っ、繋げっ!翠雨!!!」
「!!」

 刀の軌道に沿って白い矢が浮かび上がり、吉良に向かって勢いよく飛んだ。吉良はそれを全て撃ち落とす。
 平子達と色々なパターンを想定して取り組んだ模擬戦が今の夏樹の戦いを支えていた。勝てない相手だとしても、足止めすることはできる。戦いを回避することはできる。

「人を斬るのが怖いのかい?」
「!!」

 早々に見抜かれて夏樹は歯ぎしりする。平子達と訓練している時は真剣を使っているとは言え明らかな実力差から全力で振るっても彼らを傷つけることは殆どなかった。それが今、実力差も分からないみ知った相手を前にして、夏樹は思い切り刀を振るえなくなっていた。

「縛道の二十一!赤煙遁!!」

 撃ち落としているほんの数秒の合間に夏樹は鬼道を放ち、次の矢を装填すると吉良の足元に撃つ。正方形に陣取るように地面に刺さった矢を吉良が認識できた頃には、自身が四角錐の結界に覆われていた。

「これは…!」
「すみません、私、行かなきゃいけないんで」

 翠雨の矢には相手と自身を繋げて、相手の霊力を自由にする力があった。相手から霊力を奪い取る事も与える事もできたし、結界を張った空間内の霊圧を無理やり抑える事もできた。
 攻撃力が高い訳ではないにしろ、鬼道系の斬魄刀の技巧の凝らしやすさは夏樹に向いていた。

―今優先すべきはルキアちゃん救出、傷は痛いけど動けないわけじゃない、大丈夫…!

 吉良に背を向けると夏樹は走り出した。

「舐められたものだね…面を上げろ、侘助」

 ―――ガァァン!!と、後ろで何かが砕けるような轟音が響いた。

「君を行かせるわけにはいかない」
「…私の結界じゃ副隊長足止めは無理、か」

 地面を砕かれ、結界の杭が大きく吹き飛んでいるのが見えた。きっと斬り合いでは負けてしまう。それが分かっていたからこその戦闘を回避する戦法だったが逃げ道はないらしい。
 吉良は瞬歩で距離を詰めると夏樹に斬りかかる。刀がぶつかり合う音が響いた後、吉良は無表情に問いかけた。

「何回僕の剣を受け止めた?」
「!!」
「もう持てない重さだろう?」

 急に地面に斬魄刀がめり込み、夏樹は前のめりになる。何が起きたかは分からないが、地面に突き刺さった斬魄刀は異常に重たく抜けそうにない。

「悪いけど、その腕もらおうか」
「っ、繋がれ!催涙ノ雨!!」

 夏樹は刀の刃に指を滑らせると、勢いよく手を横に振った。飛ぶ血飛沫が矢に変わり吉良へと飛んだ。

「その手はもう食らわないよ」
「ですよね!」

 夏樹は瞬歩で吉良の真横に付くと腕を掴み、組み倒した。吉良の肩に隠した短い矢を突き立てた。

「体術の方が、得意なんですっ…!」
「これは…!」

 吉良は自分の霊力が勢い良く吸い取られる感覚に、慌てて矢を引き抜こうとした。

「ダメです」

 夏樹は吉良の霊力を内側から乱した。突然の霊力の乱流に吉良は悲鳴をあげる。

「今のイヅルさんさ鬼道も撃てませんよ、貴方の霊力は今私がコントロールしています。だから、」

「斬魄刀、解除してください」

 最初に斬られた傷口からまた血が出始めた。ドクドクと流れる血が夏樹の足元をフラつかせるが、それを悟られまいと力を込める。

「…仕方ない、っな」

 息絶え絶えの呼吸の中、吉良は始解を解く。後ろで夏樹の斬魄刀も重さを失った反動でカラリと地面に音を立てて転がった。
 ホッと夏樹が斬魄刀を拾おうと背を向けた瞬間、

「ごめんね」

 後ろから焼けるような感覚が先に来て、夏樹は斬られたのだと頭が後から理解する。吉良に突き刺さる矢が小さく音を立てて砕けた。

『敵に後ろ見せんな言うてるやろ、アホ!!!』

 修行時に怒鳴られたひよ里の声が脳裏で聞こえた気がした。霊力乱流の痛みを無視した吉良の一撃に、夏樹の視界は暗く、沈んでいった。
 吉良は斬魄刀を鞘にしまうと、近づく霊圧に驚く様子もなくその場を去る体勢を取る。

「なんだ、これは…!吉良!牢に居たはずの君がどうして…!!」
「浮竹隊長…彼女の…旅禍のこと、頼みます」

 吉良はそれだけ言うと瞬歩で去った。後を追うことももちろんできたが、目の前で息絶え絶えの見知らぬ死神を見て、浮竹は目を見張る。

「清音!」
「はいっ!!」
「彼女の手当てを!!」

 何処からでも駆け付ける部下を呼び付けると、少女の処置に当たる。横に転がる斬魄刀を見て、浮竹はひどく眉を潜めた。

「何故…この斬魄刀が…ここに…」

 丁寧に鞘に戻すと、浮竹は殲罪宮を仰いだ。かつての部下によく似た少年、姿を消した筈の四楓院夜一、急に早まる朽木ルキアの処刑、そうして手元にある斬魄刀。
 嫌な予感がする、この処刑を止めなくては、と急ぎ踵を返した。