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 1ヶ月半ぶりの我が家だった。義骸には浦原商店に戻ってもらい、祖母の様子を伺う。いつも通り少し皮肉交じりの口調で、起きるのが遅いと文句を言った。
 制服に袖を通すのも何だか不思議な気分になる。これが自分の本来だったのに、死神の方が余程しっくり来るのは向こうに長く居すぎたせいだろうかと、寝ぼけた頭で夏樹は考える。
 尸魂界を出て、時間が経てば経つほどジクジクとした焦燥感が胸を蝕んだ。ギンは全部を話しに来ると言ったけれど、それはいつになる事かも分からず、処刑を待つ罪人のような気分だった。

「おはよう」
「おはよ!」

 汐里とも久しぶりの筈なのに、いつも通りを装っても上の空になりがちだった。何を話して歩いたのかすら覚えていない。始業式もこのままばっくれてしまおうかなんて事を考えていた。
 雲が流れて行くのを眺めていれば、下校の時刻になる。一人足早に学校を出ると帰路につく。
 変な気分だった、此処に居ていい気がしなかった。学校の友人とも、一護達とも、死神とも、平子達とも、誰とも一緒に居たくなかった。

―崩玉なんて物を使って何をしようとしてるの…お父さん

「!」

 心の不安が募るばかりの中、不意に身体の奥底が熱く疼く。自分の中にある崩玉が、核が、ざわりと騒ぎ、血が沸騰しそうなほど熱くなる。目眩がする程の熱量に、夏樹はきつく目を瞑った。

―まただ。崩玉が、一瞬だけ動いた

 空に目を凝らしても、ただただ澄んだ夏空が広がるだけで何も異変は見当たらない。それでも、この何処か目に見えぬところから引きつけられるような力をもう何度か経験していた。

―まるで、呼ばれているような

 夏樹は自分1人が誰をも敵と見れず、戦いに備えるようにと言われて、誰と何を守る為に戦えばいいのか分からなくなっていた。
 代行証もどうしても使う気になれなくて家に置いてきている。あれがあると、まるで自分は死神として父と戦うことを決意したようで心に重くのしかかってきた。

―早く帰ろう

 無事に帰ってきたら顔を見せるように、そう平子達に言われていたのにとてもじゃないが合わせる顔なんてなかった。

―平子くん達は最初から分かってたんだ。私の中に大切な人がいるのが。だから、協力した

―私じゃなくて、帰ってきて欲しいのはお姉ちゃんだ。私じゃ、ない

 どんどん心臓が重くなっていく上に、内臓が鷲掴みされたような不快感が付きまとった。
 夏樹は眩しい夏の太陽を睨みつけてみるが、汗が吹き出るだけだった。

―崩玉なんてものがあるから?

「夏樹っ!」

―誰を、何を止めたらいいって言うの

「夏樹ってば!!」
「っわぁ!?び、びっくりした…」
「もう!何回呼んでも気付かないなんてどういうことよ」
「ご、ごめん…」

 漸く耳に届いた親友の声を煩わしいと思ってしまった事がショックだった。けれど、今は誰とも話したくないのも認めざるを得ない事実で。
 誰かの否定も、正論も、慰めも、欲しくなかった。ただただ1人になりたくて、夏樹は汐里に背を向けて家路を急ごうとする。

「待って!」
「なに?」
「…真子のところに行くの」

汐里は酷く不機嫌そうにそう聞いた。聞きたくなかった名前に夏樹の心臓は逸る。

「…行く訳ないじゃん」
「夏休みの間、何してたの」
「別に、何だっていいでしょ。汐里には関係ない」

 そう口走ってから、夏樹は汐里の顔を見て後悔する。

「関係ない?そうだね!私別に死神じゃないし!!」
「あっ…」
「夏祭りの日も急に居なくなってさ、真子と一緒に居たの見てるんだけど!?ふぅん!あっそう!」

 覆水盆に返らずとはこのことで、口から一度放たれた言葉を取り消すことはできない。けれども汐里にかけるべき言葉も見つからなかった。

「ごめん」
「聞きたいのはそんなことじゃない!ねえ、なんで、」

夏樹は何に対しての謝罪なのかも分からないまま謝罪を口にした。震えそうになる声を隠すように、汐里の伸ばした手を避けると背を向けた。

「私、ごめん、帰る」
「夏樹!」

 怒気の籠った声色に夏樹は口をきつく一文字に結んだ。普段なんてことなくつける嘘が肝心な時に出てくれない。上手く繕えないもどかしさが自身の不甲斐なさを助長した。

ー話す勇気なんて、ない。怖い、怖くて、仕方がない

 平子達の元へ向かうには足取りが重く、関係のないことを頭に思い浮かべては気を紛らわせるしかなかった。

ーあぁ、暑いな。まだまだ夏だ


 = = = = =


翌日気が重くて仕方がなかった。いつもと違うルートを使って、1人通学路を歩く。汗がぼたりと地面を濡らした事も気にする余裕がなかった。
 昇降口から教室に行く途中、夏樹はふと目に入った光景に足を止める。見間違う筈のない金髪に、夏樹は内臓全てがひっくり返るような緊迫感が走り、その場から逃げ出した。
 慌てて教室に入ったものだから、クラスメートからは怪訝な顔をされたが時計がずれていたと笑って誤魔化した。

―なんで、平子くんが学校に…

 ずるずると椅子に座ると机にうつ伏せになる。僅かな視界から見えた手は震えていて思わず笑ってしまった。
 そこからのテストも殆ど覚えがなかった。夏樹にとっては呼吸すらも怠惰なくらい、息苦しい日常だった。
  逃げる必要もない相手から逃げている現実は、ただ自分が臆病だから逃げ惑っているだけだと事実を突きつけられたようで息苦しさを増進させた。

「夏樹、あんた顔色悪いよ?」
「あー、ちょっと調子悪いかも」
「今日は午前でテスト終わりなんだし早く帰りなぁ」
「そだね」

 明らかに汐里と話さない夏樹を気遣ってクラスメートは心配の声を掛ける。喧嘩でもした?と言う問いに、ちょっとね、と答えるので精一杯だった。
 夏樹は一瞬汐里と目が合ったが思わず逸らしてしまう。胸の痛みは何度襲っても、慣れはしない。汐里と話したいのに、近づくことすら酷く勇気がいるようだった。
 鞄に荷物を詰めなているとガラリと教室のドアが開く。鞄を肩にかけて部屋を出ようとしていた矢先のことだった。

「夏樹」

 夏樹は金縛りにでもあったかのように、名を呼ばれたたったその一言で動けなくなった。教室に突然訪れた見知らぬ男子生徒にざわりと注目が集まる。
 夏樹は顔を上げることすら出来なかったが、声色だけで怒気を孕んでいるのが十二分に伝わる。

「…なに」
「お前なんで逃げんねん。顔出せェ言うたやろ」
「浦原さんから聞いたでしょ」

  震えそうになる声を必死に誤魔化して、夏樹は頑なに拒絶の態度を示した。

「……ちっ、来ぃ」
「ちょっ!」

 腕を思い切り掴まれて、夏樹は無理やり教室を連れ出された。騒つく教室の音すらも耳に入らず、掴まれた箇所がやけに熱かった。
 一瞬、目の前で揺れる金色と記憶の隅にある長い金色が被って、またずきりと胸の奥が痛んだ。

「……ったく、だんまりかいな」

 人気のない校舎裏で平子は夏樹を壁際に追いやると、腕を組んで行く手を阻む形で立っていた。
 平子はため息をつくと、夏樹、と幾分柔らかい声を出した。夏樹はそれにすらびくりと体を揺らして、視線は相変わらず斜め下を向いたままだった。

「怪我はせんかったか」

 夏樹は無言で頷いた。平子はすかさず軽めの手刀を頭に落とす。

「アホ、脇腹刺されて寝込んどったことくらい聞いとるわ。…傷跡、残らんかったか」

 夏樹は首を小さくまた頷いて答えた。答えなくてはと思う反面、何か口にした瞬間涙が溢れてしまいそうで、夏樹は必死に口をきつく結ぶしかなかった。

「そーか、そら良かったわ。…にしてもそのぐっちゃぐちゃの霊圧どないしてん」

 夏樹、と柔らかい声で上から降ってくる音に、息を吸う事すら苦しくなる。

「向こうでまぁ色々聞いたんやろうけど。ひよ里も皆んなも、お前が顔出さんから心配しとる。ちゃんとただいまくらい言いに来ぃ」
「………行けるわけ…ない、じゃん」
「言うたやろ、味方やて」
「そうじゃ、なくて…」

 夏樹は手を強く握りしめて、口にしたくない気持ちが爆発的に蠢くのを感じていた。

―だって、『失敗作』って呼んだお父さんが、平子くん達に何をしたか、なんて考えたくもない

―でもそれよりも、私がお姉ちゃんじゃないって分かった時のみんなの反応が怖い

―私が何なのか、今の自分が誰なのかすら、わからないのに、

ー私は、私でいたいのに

 ぐるぐると同時多発的に今まで心の中を渦巻いていた考えが頭の中を真っ白に塗り潰していく。

「わたしじゃないでしょう?帰りを待っていたのは」
「…!」
「私じゃなくて!お姉ちゃんを、千代を待ってたんでしょ!?行けるわけないじゃん…!平子くん達をお父さんが傷つけて、どうして私が会いになんて行けるの!?」

 あの人の斬魄刀を持った、藍染惣右介の娘でもある自分がいるだけで、一体どれほど傷付けてしまったのか、それを考えるだけで怖くて怖くて堪らなかった。
平子の、ひよ里の、あの寂しげな横顔をさせたものが自分の中にある。
 考えたくなんてなかったのに、と瞬きひとつこぼした瞬間に涙が夏樹の目から落ちる。

「お姉ちゃんが少しずつ混じってきてる。私、もう自分が誰かも何かも分かんない。分かんないの…!」

 死神になった瞬間、ぶわりと爆発的に霊圧が上がる。平子の目に移る自分は酷く醜い顔をしている気がした。

「私、怖くてお姉ちゃんを拒んだ、お姉ちゃんが私の中で、生きてるのに」
「千代が、生きとる…!?」

 霊圧の揺れに合わせるように夏樹の瞳の色は黒と翡翠を行ったり来たりする。平子の表情が困惑で固まる中、夏樹は振り絞るように言葉を紡ぐ。

「向こうで平子くんを見たの。きっと、お姉ちゃんの、記憶。大好きで、大切で、そういう思い出」
「落ち着け夏樹…!」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ…!私が、お姉ちゃんを平子くんから、取ったの!みんなに会うのも怖い、もう何処に居ればいいのか、分かんないよ…」

 平子が無意識に伸ばした手を夏樹は勢い良くはたき落した。

「やっぱり、分かんないよ、平子くん」

 夏樹は泣きながら笑っていた。それだけ言い残すと、その場から風のように立ち去った。平子が一瞬遅れて追いかけようとした瞬間、近くから人の声がしてハッと足踏みする。

「…あかん、あいつ足速すぎやろ…」

 夏樹はこの一瞬で平子の霊圧知覚範囲から完全に外れてしまった。平子は深いため息をつくと、空を仰ぎつつ視
線を夏樹のいた後ろの窓に目を向けた。

「こら汐里ィ、覗き見なんてええ趣味やんけ」

 開いた窓から体をひょいと覗かせると、その裏に隠れていた汐里はびくりと跳ねた。

「き、気付いてたの…?」
「そら気付くわ、アホ。…オマエ何やっとんのや」
「だって夏樹が何も話してくれないから…悪いとは思ったんだけど。さっきの、どういう事?」

 汐里の怪訝そうな顔に平子は頭を掻きながら、少し躊躇った後静かに答えた。

「……あー…まぁ、混乱しとんのやろ」
「ねえ、お姉ちゃんって、誰?」
「…すまん、話たぁないんや」

 平子は夏樹に叩き落とされた手をぼんやりと眺めている。しもたなぁ、と独り言を零した後、汐里の頭を乱暴に撫で回した。

「夏樹見かけたら連絡くれ」

 汐里と別れて学校を出ると、平子は夏樹の捜索を始めた集中して探知範囲を広げるも、引っかかる気配はない。

―あいつ、助けてって目ェしとった。それにすぐ手、差し出してやれんかったオレのミスや

 思わず舌打ちが漏れた。

―せやけど、オレはどうアイツと向き合えばよかったんや。分からへん、そんなもん、分からへんわ