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 夏樹は家に帰るでもなく、死神になってできる限り学校からもアジトからも離れた場所へと移動する。

―今、家に帰ったら平子くんに鉢合わせになる気がする

 逃げ足だけは立派に動くようで、情けなさに笑いが溢れる。
 どこに行くべきか迷っていると、チャリ、と金属音が懐から聞こえた。中を探ると尸魂界に行く前にリサから譲り受けた倉庫の鍵が出てくる。

―平子くんも、知らない場所…

 その響きは酷く魅力的で、夏樹は地図を見るとそちらへと足を向けた。
 着いた先は町外れの山の麓。廃屋がいくつも並ぶ中の、小さな倉庫だった。鍵を開けると中は白いシーツを被せられたいくつもの本の山が立っており、少しの埃っぽい臭いとひんやりと冷気が漂っていた。
 山の中からは何やらおどろおどろしい気配を感じたので、触れぬようにそっと間を練り歩く。リサの読書用に見えるソファが奥まった一角に置いてあった。
 ソファになだれ込むように横になると、夏樹は目を閉じた。

―ルキアちゃんを助けるって勇んで、ほんと、バカみたい。私のしてきたことは、徒らに平子くんの心を土足で踏み荒らしただけだ

―お父さんには誰も傷つけてほしくない。でも、それは他人を傷つけた私が言えること?それに…そう簡単に、敵だ味方だなんて、言えないよ…

―お姉ちゃんは誰なの。どういうことなの、ねえ。私は誰で、何を選べばいいの

 いくつもの鬱屈した考えが浮かんではまた別の問題を引き連れて、ぐるぐると答えの出ない問答が繰り返される。頭の中は酷く混乱していくばかりで、夏樹は薄く開いた視界から覗く青空を睨んだ。

―聞きたいことが…考えなきゃいけないことが、たくさん、あるのに

―やだな…もう、嫌だ。どうして、こんなことになっちゃったの

 そんなことを考えるうちに、幾度目かの崩玉の疼きが夏樹を襲う。精神すらをも侵食していく力の濁流に、できる限りの抵抗を示す。

『千代が、生きとる…!?』

―あ、

 昼間の情景が夏樹の心を強張らせる。その瞬間、意識は勢いよく精神世界へと引っ張られた。
 空から勢いよく落下すると薄氷を叩き割って水中へと身体は沈んでゆく。落ちていく途中でぼんやりと声がいくつも聞こえてきた。耳を澄ますと、その不明瞭だった呼びかけは徐々に形を持って夏樹の横を通り過ぎていった。

『オマエなんっやねん!急に人のこと投げよって!!』
『あら、先に手を出そうとしたんはそちらとちゃいます?』
『ええ度胸しとるやんけ!』

 泡になっていくつもの、いくつもの情景が夏樹の手をすり抜けて水面へと上がっていく。淡く光りながら柔らかく美しい輪郭を描くそれは、涙が出そうなほど綺麗な情景だった。夏樹は無意識に手を水面に伸ばした。

『ひよちゃんひよちゃん、明日は一緒に甘味処に行けへん?』
『ほしたら今から寮まで競争や!負けた方の奢りやで!』
『えっ、もうスタートってズルない!?』

『っ、せやから!惚れてもうたんや。オレと、オレと…!』
『はぁ…お断りしますけど』
『はっや!?待てや!最後まで聞けや!!』
『いや、最後まで聞いても同じや思いますよ』

『うちも席次もらえたんよ!』
『待ちくたびれたわ、アホ!今日は飲みに行くで!!』
『頑張った甲斐あったやんか、おめでとうさん』
『なんでハゲがでしゃばってるねん!邪魔や!!』
『千代に鬼道教えたんはオレやからですゥ〜』

 夏樹のよく知るひよ里や浦原も、楽しそうに笑う姿があった。けれど、平子の関わるものが一番多く、何より温かかった。

―これは、お姉ちゃんの記憶だ。幸せな、記憶

『オレと、夫婦なってくれ。オレは必ず隊長になる。千代と、一緒におれるように』
『うちは…うち、は』
『今はまだ返事せんでええ。せやけど、本気や。隊長なれば貴族やとか流魂街出身やとか、そんなもんオマエもオレも何も気にせんで済むやろ』
『ほんま…アホちゃうのん』
『せや、アホやアホ。アホなるほど惚れてしもたんや。千代、好きや。一生隣におってくれ』

 幸せな記憶が過ぎれば過ぎるほど、夏樹の身体は底へ底へと沈んでいく。水面の明かりも徐々に小さくなっていく。夏樹は強く歯噛みすると、力の奥底から彼女を無理やり引きずり出した。

「お姉ちゃん」
「夏樹ちゃん!!!なんでアンタがこんなところに…!」

 虚ろな目で夏樹が千代の姿を捉える。もうこんなのいらないでしょ、と手を伸ばすと彼女の仮面を剥ぎ取った。薄く開かれた瞳から覗く淡い翡翠色が困惑を訴える。

「どうして、何も教えてくれなかったの」
「………!」
「平子くん、待ってるよ?ねえ、どうして?私こんなことなら平子くんと出会いたくなんてなかった…!お父さんのことも、どうして、ねえ、」

 傷つけた。彼らを、知らぬうちに傷つけた。その事実が呼吸すらをも苦しくさせる。強く噛んだ唇から血の味が口内に広がっていく。

「…もし知ってたら、夏樹ちゃんは間違いなく藍染に殺されてた。藍染の作戦を邪魔せんかったから、今回は殺されへんかった。それだけの話よ。不確定な要素を孕んだまま得た知識で対抗する力もないのに何もできる訳ないんや。知らへん方がよっぽどマシ」

 冷めた声で千代はそう言い切った。夏樹の瞳は変わらず虚ろなままだ。

「平子くんのことは?ねえ、なんで?こんなの、私…!」
「それ、は…」
「平子くんと居るのが、すごく苦しい」
「翠雨、何のつもりなん!!こんなもの夏樹ちゃんに見せて…!」
「こんなものちゃうやろ。大事なモンや」

 ぬるりと影から陰気な顔をした翠雨が姿を現す。かつての主人と刀は顔を見合わせると今にも斬り合いが始まるのだと錯覚するほどの殺気を放ち合う。

「隠すんは守るんと違うで、千代。何も知らんで夏樹は何を選択できる言うんや」
「せやからって…!うちの記憶を見せることないやろ!?」
「何も知らんで蚊帳の外で足掻いて。その苦しみが分かるか?オマエが誰か、知りたいて望んだんは夏樹や」
「……そうだね。ありがと、翠雨。おかげで何が必要なのか分かったから」

 足掻いたって喚いたって平子達を傷付けていた事実は変わらない。睨み合う二人から一歩引いて夏樹は目を瞑る。

「必要なのは私じゃない」

 夏樹は二人を思い切り自分の空間から押し出した。姿が見えなくなる瞬間、二人が自分の名前を呼ぶ声がした。

「私なんて、いらないじゃない」

 もう何も聞きたくない、知りたくないと、この光の届かない空間で現実の全てから目を背けてしまいたかった。
 穏やかだった千代の記録は夏樹を置いて水面を目指し続ける。記録は徐々に徐々に、終わりの時へと近づいて行く。

『あぁ、やっぱり仕掛けたんはアンタやったの…!藍染副隊長!!』
『やはり鋭い方だ。貴女はもう死んだことになっています、救援は来ませんよ』
『何が目的なん』
『貴女方の創り出したものについて、と言えば分かりますか』

―これは、お父さん…?

 数えるのも諦めるほどに流れた暖かい記憶の終わりに、薄暗く冷たい記憶がゆっくりと流れて行く。

『ちゃう。うちはアンタに殺されるんやない、藍染副隊長』
『面白い事を言いますね、この状況で』
『真子さんがアンタの事訝しんでた事くらいうちかて分かる。せやけど真子さんは何もできんかった』
『そうです、彼は自身の最愛を奪われて尚この事実に気付けやしない』
『何も分かっとらんのはアンタも同じ』

 藍染の視線に含まれるこの世の全てを嘲笑うような冷たさが夏樹の心に鋭く刺さる。返しの付いた棘のように抜いて刺して、夏樹の心は荒んでいく。

―お父さん、お父さん…!

 薄々感じていた違和感と、尸魂界で識ってしまった懸念事項が結んだ線を明瞭になってしまった。知らない頃にはもう戻れない。これ以上の記憶を拒もうと夏樹は強く目を瞑り、耳を塞いで丸くなった。
 背中が何かに当たり、恐る恐る目を開けると、漆黒に包まれていた。自分の形すらも分からなくなるような光も届かない無限に続く闇に、夏樹の心中は不安よりも安堵が勝っていた。もう何も、見ないで済むのだと。
 光の届かない深い意識の底で、夏樹は自分が自分であることを放棄しようとしていた。少しずつ霊力が削り取られていくことへの抵抗もやめて、底に包まれる感覚に身を任せた。

―ごめん、なさい