51

「ちょい待ち、真子」
「なんやねん、オレ急いどるんやけど」

 平子はイラついた表情でアジトから出て行こうとする自分を止めるリサを睨む。

「あんたちょっと手ェ引き」
「はぁ!?」
「夏樹が何に一番怯えてると思ってんの。アンタやアンタ。ちょっと落ち着きぃ」

 昼間の事情を聞いたリサは、平子の前に立ち塞がる。腕を組んでトレードマークの三つ編みを揺らしていた。

「あたしが行く」
「…どういう風の吹き回しや」
「自分こそ夏樹の居場所も分からん上に、霊圧ガッタガタにさせといてよう言うわ。何するつもりなん」
「……………」

 ため息交じりにリサは口を開く。

「千代から、連絡があった」

 その一言を放った瞬間、平子の霊圧は大きく揺れた。目を見開いて平子は何度か口を開閉させる。

「真子、アンタでもひよ里でもなくてあたしに連絡来た意味、考え。来んな、言うことや」

 リサは平子に言葉を発せさせる暇なく淡々と語ると、呆然とする平子の返事を聞くことなくその場から姿を消した。
 出せるできる限りの速度の瞬歩でリサは迷うことなく目的地へと向かう。未熟な少女の心中を思ってリサは歯噛みする。誰も悪くない、それなのにどうしてこうも苦しいのか。

「入るで」

 リサは半分開きっぱなしの倉庫の扉に手をかける。柄にもなく心臓が速鳴っていたが、これは瞬歩のせいだけでないように思えた。

「リサさん」

 姿見た目は夏樹そのものなのに、しゃなりとした佇まいだけで本人でないことを明確に示す。振り返った死神姿の彼女の目は、千代と同じ澄んだ翡翠色だった。

「…千代」
「時間がないんです。お願いします、夏樹ちゃんを助けてください。うち、あの子に酷い仕打ちしてしもうた」
「落ち着きぃ。ええの?あたしで」
「貴女だから、お願いしたいんです」

 強い意志を宿した瞳で夏樹の姿をした千代は深々と頭を下げた。

「貴女を危険に晒す無礼をお許しください。どうか、どうか」
「時間ないんやろ」

 千代の震える声を無視して、リサは千代の肩に手を置いた。千代は小さく頷くと斬魄刀を引き抜いた。

「うちの斬魄刀で…リサさんを夏樹ちゃんの精神世界へ送ります。崩玉が覚醒して夏樹ちゃんを呑み込みつつあるのに…夏樹ちゃんにうちのことも父親のことも何も話さへんで守ったつもりになって」

 千代は悔しそうに下唇を噛んで、斬魄刀を握る手を強く握りしめる。

「早うしないと、自我が全て崩玉に喰われてしまう。やから、リサさんに夏樹ちゃんの意識を引っ張り出してほしいんです。うちはもう魂魄の残滓、あんなんであの子を守ったつもりで…恥ずかしい」
「…任しとき、って言いたいとこやけど。どうなるかは保証できへん。し、帰ってこれる保証もないんやろ?」
「申し訳、ありません」
「アホ、聞きたいんは謝罪やない。覚悟や」

 千代は面食らった顔をした後、やっぱりリサさんは格好ええわぁと笑った。

「情けなくも陥れられてこんな姿になって。諦めたうちの死神としての、魂の誇りを守らせてくれたのは夏樹ちゃん。この子のために全てを捧げると決めたから」
「上等やないの。やれるだけやってくる」
「お願いします」

 千代は指を斬魄刀に滑らせながら切れた指から出た血をリサの鎖骨の間に置いた。

「最初は気持ち悪いと思うんですけど、耐えてくださいね」
「ん」
「いきます…ーーーーー」

 彼女の放つ解号と共に強い光に包まれ、リサは思わず目を閉じる。どぶりと生温い何かに落ちる感覚に目を開けると、辺りは深淵を覗き込んだような闇に包まれていた。

「えらい気持ち悪いとこやね…あっち、か」

 一瞬でも気を抜けば自分も取り込まれそうな禍々しい引力に逆らう。リサはずぶりずぶりと沈みかける体を引き上げながらゆっくりと歩みを進める。

―こんなんを、千代はずっと抑えてきた言うの

 気も遠くなりそうな果てのない闇の中、リサは探知能力を限界まで広げて夏樹を探す。遠くから子供が啜り泣くような声が聞こえて来た。

「…夏樹?」

 返事はないが、ゆらゆらと揺らめく空間の端を見つけると勢いよく引きちぎった。

「見ィつけた」
「……?、!?」

 指先に鬼道で灯りを灯すと、蹲っていた夏樹は言葉も出ない様子で泣き腫らした目を何度も瞬かせた。リサはそんな夏樹を見つけると、特に何をするわけでなく隣に座った。

「な、んで…」
「千代に頼まれたから迎えに来たんや、アホ夏樹」

 夏樹は気不味そうに視線を逸らす。暫くの沈黙を破ったのはリサの方だった。

「このままでええのん」
「……………」
「言うとくけど、あたしはアンタに何も答えは用意してやれんよ。それは自分が解決しなあかんことや」

 夏樹は小さく頷く。リサは続きを促すように夏樹の手に自分の手を重ねた。灯りのない今、互いの存在は手のひらしか分からない。

「どうしたいのん」
「分から、なくて」
「うん」

 ぽつぽつと辿々しい口調で夏樹は口を開き始めた。リサはただそれに静かに相槌を打ち続ける。とりとめのない会話が、しとしとと静かに降る雨のように夏樹の口から溢れていった。

「私、もうみんなに会えない、会いたくない。だって、私お姉ちゃんじゃないから。待ってるのはお姉ちゃんだから」
「夏樹、ひとつだけ言わして。確かに千代を待ってるんは嘘やない。あの子にもういっぺん会えたらって思うてるんもほんま。でも、アンタの帰りを待ってないわけとちゃう。夏樹、アンタを待っててんや」
「…でも、期待させて、傷を抉って。それも本当でしょ」

 その言葉に否定しきることができず、リサは夏樹の手を掴む手が僅かに力む。

「…藍染のことはどないしたいの。千代が表に出て、それで?あんたはどうすんの?放っておくん?」
「それ、は…」
「千代が動くなら藍染も父親ちゃうね、それで済ましてええの」
「ちがっ…お父さんに誰も傷つけて欲しくない。ひどいこと、しないでほしい。お母さんと過ごした時の思い出全部を嘘だなんて、思いたくない…」
「そう」
「お父さんを、憎まなきゃいけないのに。私まだ、信じたいって。そんな気持ちがあるくらいなら」
「あんたが何を想おうと、それはあんたの心に従えばいい。正しいか正しくないかは自分で決めることや。他人を物差しにしぃな」

 時間の感覚もなくなるような暗闇の中で、手のひら越しに感じる温度だけが確かに感じられる形だった。

―もし、あたしが『藍染のしたことが間違ってると思うなら斬れ』って言うたら、その道を選ぶかもしれへん。けど、

「ギンも、要も、私にとっては家族だから。だけど、お父さんが人を傷付けるようなことをしようとしてるのは、分かる。崩玉を使わせたらいけないって」

―千代が真子に会うのを堪えてまであたしを呼んだんは、そうさせる為と違う。この子が自分で道を見つけるためや。誰のためでもなく、夏樹が道を選べるように

 不意にリサが上を見上げると星のような小さな光が幾つも瞬き始めていた。

「私、お父さんを止めたい。だけどリサさん達とは一緒にいれない」
「そう」
「平子くんを、これ以上傷付けるのが、すごく怖い。…ごめんなさい」
「別に謝らんでもええやろ。アホ真子が悪いんやから。あんたは千代やないちゅーのに」
「平子くんは何も悪くないよ。それに…頭で分かってても心が追いつかないことって、あるでしょう?」

 私もまだわかんないんだ、と続けた夏樹の手が震えを誤魔化すように地面を強く押した。

「まあ、夏樹の見てる道とあたしらの道が一緒じゃない事くらい最初から分かっとったわ」
「…そっか」
「あたしらの敵やない、それでええよ。十分や」

 リサは立ち上がると夏樹に手を差し伸べた。夏樹は不思議そうに首を傾げる。

「帰るで。そろそろ千代が痺れ切らすやろ」
「そうだね」

 決して相手の心のうちにずけずけと踏み込み訳でなく、ただ入口で静かに相手が出てくるのを待つだけ。リサは否定も肯定もせずに、けれど、答えを出せるまで隣で相槌を打ち続けた。
 そうして夏樹独りでは混沌としていた答えも望みも少しずつ濾過されていくように、姿が縁取られていく。夏樹の覚悟はリサの目には祈りのように思えた。どこまでも優しく、利己的で、傲慢な祈りだった。止めることがきっと正しいのだけれど、夏樹はきっと後悔を残してしまう。

「リサさん、ありがとう」

 リサは瞬時に眉根を顰めた。それはもう、下劣なものを見下ろすような勢いで睨みつけているにも関わらず、夏樹はいつものリサさんだ、と笑った。

「あたしは何もしとらん」
「うん」
「あんたのやろうとしてることは、荊の道なんてもんちゃうで」
「うん」
「これだけは約束し。生きて、帰ってくる。それが送り出したる条件や。死にそうになったら全部諦め。あたしらが藍染を殺しに行っても文句なしや。ええね」
「…分かった」

 夏樹はリサの手を取ると、地面を思い切り蹴った。瞬く間に景色は光溢れる方へと変わっていき、閃光に身体が包まれた。
 もう一度目を開けると蝉の声が遠くから聞こえてくる。陽光が窓から差して、部屋を茜色に染め上げていた。二人とも床に寝転がっていて、顔を見合わせれば思わず笑みが溢れた。

「おかえり」
「ただいま、リサさん」

 ありがとうございます。千代の声が聞こえた気がして、リサはほんの少しだけ口角を上げた。