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 蒸し暑い夕暮れ時の街中をふらりと歩く。
 酷い湿度の空気は吸い込むのすら億劫で、けれどもその億劫さは夏の暑さのせいだけではないことも、重々理解していた。

―時崩玉の力が起きる感覚、頻度が増えてる…

 腹の底が熱くなって、崩玉に呼ばれるような、自分の崩玉が暴れるような、そんな感覚に陥ることが何度もあった。

―思っているよりも、時間がないのかもしれない

 晴れ渡る空が少し恨めしくて、夏樹はビルの陰に入る。行き先のない足をどこに向けるべきか、決められずにいた。
 話す、と交わした約束を果たすべきなのだが、自分が平子達と同じ道を選べないことはもう分かってしまった。

ー一緒に考えるのが、正解なのかな。でも、平子くんにどんな顔して会えって言うの

「夏樹」
「うぎゃぁ!?」

 不意に至近距離で後ろから囁かれ、思わずとんでもない悲鳴が漏れる。

「ぎ、ギン!?」
「やっほ〜〜、会いに来たで」
「びっ、くりした…。そっちの方が見慣れてる感じするね」

 ゆったりとした白いTシャツにスキニーのデニム。シンプルな服装も元が良ければサマになると言ったところだと夏樹は少し恨めしく思う。よく知る現世の装いのギンに夏樹は少し笑った。死神姿の死覇装よりも、こちらの方が夏樹にとっては違和感がなかった。

「現世暑すぎて無理や…お腹すいたしどっか店入ろうや」
「いいけど…」

 尸魂界での事は夢だったんじゃないかと思う程の昔通りのギンのおかげで、夏樹は直面すべき課題から目を背けられて、少しだけ安堵していた。

「落ち着けるとこ。あとお腹空いてんけど。現世のなんやっけ、細いうどんみたいなやつ、ぱ…?」
「パスタ?」
「そそ。赤いのかかっとる香澄ちゃん、よー作ってくれはったやつ」
「ミートソースだね」

 母の得意料理を思い出して夏樹は緩く頬を綻ばせた。純粋に、母の事を話せる事を嬉しく思った。ギンは突然現れて、なんて事のない口調で話しかけて。夏樹は思ったよりも身構えずにギンと対峙できていた。

「…残っとらん?」
「?」

 何のことだと首を傾げたが、ギンの視線が自分の腹あたりに向かっていて、あぁと合点が行く。

「大丈夫だよ、もう暫くしたら痕もなくなるだろうって。痛かったけど」
「勝手に飛び出したん夏樹やん」
「そうだけど」
「でも良かったわ、痕なんか残ったら香澄ちゃんに殺される」

 片眉下げて笑うギンに夏樹はどう表情を返せば良いか分からず下を向いた。悪戯ばかりするギンを母はいつも叱り飛ばしていたし、ギンは何故か母に弱かった。このギンは自分のよく知るギンで、尸魂界でルキアを殺そうとしたのはあのギンは別人だったのではないか、そんな錯覚に陥りそうになる。
 店で目当ての品を目の前にして、ギンは懐かしそうに目を細めた。

「やっぱ味はちゃうね」
「そりゃそうでしょ」

 皿が空になったところでギンは真剣な眼差しを夏樹に向けた。纏う空気が変わって、夏樹は思わず身体が強張る。
 そんな夏樹にそないに気張らんで、とギンは笑う。

「聞いても楽しい話やないで。気分の悪なるような話しかないし、聞かん言う選択肢かてあるんやで」

 平子と話すのを拒絶した癖に、今ギンの話を聞こうとしているのは彼に対して随分と不義な行為だと背徳的な感情が夏樹を襲う。平子の話を先に聞くのが筋ではないかとそう思う一方で、やはり彼に会うのは怖くて仕方なかった。
 
「ううん、聞く」
「…ほんまに、お母さんに似てきたなぁ」

 ギンは一度瞠目すると、懐かしいわと呟いた。ギンの視線には郷愁が含まれているようで、尸魂界で見た時と随分違っていた。

「…どこから話そか」

 ギンはコーヒーをかき混ぜながら、ううんと唸る。

「斬魄刀と千代さんの話…100年くらい前の話から、しよか」
「……?」
「始まりから話した方がええやろ」
「うん」

 母の話から始まると思っていたが、話はどうもそれよりも随分昔に遡らないといけないらしかった。

「千代さん、平子サンの奥さんやった。大人しそうに見えて無茶しぃで、明るくて聡明で…世話焼きの優しい人やった」

 穏やかな表情がギンにとって千代へ抱く印象を語る。

「千代さんの斬魄刀”翠雨”は他人の霊力を吸収したり、自分の霊力を分け与えたり、そういう霊力の操作ができる鬼道系の斬魄刀なんやけど。ほんまはちゃうねん」

 ぽつぽつと話すギンの視線は窓の外へ向かっていた。

「あの人の斬魄刀は、魂魄にすら影響を与える」
「どういうこと…?」
「ボクもよう知らんけど、精神世界を無理やりつなげたり、治るはずのない怪我を治したり…そんなんが可能なんは霊力の操作やなくて魂魄の性質そのものを変化させはるから。それがあの斬魄刀の本質なんや。思いたる節、あるんちゃう?」

 その問いに夏樹は小さく頷いた。リサが自分の精神世界へ潜ってきてくれた時のことを思い出す。

「虚化の研究をしとった藍染サンは其処に目ぇ付けはって、浦原サンと一緒に崩玉の研究してはった千代さんを捕まえたん。表では虚に殺された事にして。それから、千代さんに無理やり斬魄刀使わせて、彼女自身の魂魄を基に創り出したんが君の中にある崩玉や」

 トン、とギンは夏樹の胸のあたりを指さした。思っていた以上の凄惨な内容に夏樹は身体が強張る。ギンの口から紡がれる事実を何度も頭で反芻して、それでも理解したくないと脳が拒絶した。

「まぁ、藍染サンの思い通りにさせへんって千代さんは崩玉に細工したらしいんや。せやから、崩玉としては形が出来ただけで殆ど機能せえへん未完成な物やってん」
「………うん」
「まぁ、ここまでは100年ちょい前の話。次は君が香澄ちゃんのお腹におる時まで進むんやけど」

 そこでギンは一度コーヒーのおかわりを注文する。2人はコーヒーが来るまで終始無言で行き交う人の流れを眺めていた。

「…香澄ちゃんが藍染さんと会うたんは、夏樹、君が…」

 そこでギンは突然言い淀む。今までスラスラと語った言葉が急に途切れて夏樹は訝しげに首を傾げた。

「ギン?」
「…君が香澄ちゃんのお腹の中で死にかけてた時や」

 これは物語の外れにある、小さな歪んだ物語だった。ギンは目を閉じると初めて小さな命と邂逅した日の事を想起する。どこから話せば良いか。どこから伝えれば、彼女は傷付かずに済むのだろうか、と思いながら。


 = = = = =


 16年前、夏の終わり。

「ギン、要。新しい仕事を頼むよ」

 そう言われ、わざわざ義骸に入ってまで連れて来られた現世のとある小さなアパートの一室に居たのは、赤ん坊を抱いて項垂れている1人の女性だった。

「おっそいわよ、バカ惣右介」
「そう簡単に此方にばかり来る事は出来ないと前も言ったろう」
「五月蝿い、そのくらいアンタなら何とでもできるでしょ。あたし、寝るから夏樹の面倒見てて。昨日から夜泣きで徹夜なのよ」
「はいはい、おやすみ」

 藍染は苦笑いを零しながら少し不慣れな手付きで赤ん坊を受け取る。一瞬ギンと東仙に視線をやると興味なさそうに部屋の奥へと行ってしまった。
 ギンはこの光景に目を見張った。藍染に対して殆ど暴言とも言える科白を吐き捨てた女性は何者なのかと藍染を見やる。

「この親子の面倒を君達にも見てもらいたい」
「はぁ!?」

 思わずギンは大きな声を出してしまう。すると藍染はしぃっと人差し指を立てた。

「この子が例の子だよ。崩玉との融合過程を観察する検体だ」
「…それは分かりましたが、彼女は一体…」

 東仙もギンと同様に困惑したままだった。崇拝する藍染に対して余りにも不躾な態度に斬りかからなかった事にギンは驚きすらも覚えていた。それ程までに2人は自然なやりとりだったのだ。

「彼女は母親の香澄。被験体としての協力を得る条件が父親になる事でね。まぁ結果としては彼女と夫婦になったんだ」
「ハァ!!?」

 ギンは余りにも予想外な発言に大きな声を上げてしまう。すると隣の部屋から煩い!と罵声が飛んできた上に、眠っていた赤ん坊は泣き出してしまった。

「あーあー…よしよし、怖かったね」
「藍染隊長、正気なん…?」
「お言葉ですが、私も承服し兼ねます…」
「僕は至極冷静だよ。子の命を助けると提案したら逆に条件を付けてくる豪胆さが気に入ってね。っとと、よしよし、いい子だ」

 ギンは話を聞きながら目の前の光景に目眩がした。あの憎くてたまらない筈の男が、普段から作った顔しか見せない男が、素で困った顔をして赤ん坊をあやしているなど。そんな光景が見られるなんて事、誰が想像できようか、と鈍器で殴られたような衝撃に言葉を失っていた。

「この子の名は夏樹。父親になるならば子育てに参加する事が最低条件だそうだ。ただ流石にそう何度も向こうを空ける訳にはいかないからね」

 漸く泣き方に落ち着きを見せ始めた夏樹と呼ばれた赤ん坊は指を吸いながら此方を見た。母親は霊力が強いようだが、この幼子からはあまり霊力を感じられない。
 夏樹と呼ばれた赤子は興味津々と言った顔で瞬きもせずにじっとギンを見つめている。

「要は家事を中心に、ギンは夏樹の面倒を中心に頼むよ。2人の霊圧の測定、経過観察も忘れずに」
「本気で言うてはります…?」
「勿論」
「藍染様の命とあれば、尽力させて頂きます」
「香澄はあぁ見えてかなり頭が切れる。気をつけるように」
「ハッ」

 東仙は低頭する様子から、従順に彼の僕として従う事にしたらしかった。
 ギンは未だ訝しげな表情で義理の親子となった二人を交互に見やる。彼の腕に抱かれる赤子は随分と異質で、不気味なものに見えた。