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 それから、不可思議な子育て生活が始まった。私室は足のつかない貴族の使う穿界門と同じものを簡易的に設け、彼女の家に頻繁に行けるように改造されてしまった。その上月に数度と言いながら、子育てに死にかけている香澄の元へ短い時間だけでもと何度も通う羽目になったのだった。
 藍染は藍染で、香澄の事をなかなか気に入っている様子で、尸魂界では聞く事のない歯に絹着せぬ言動や嫌味なんかも何度も耳にした。

「あら、今日はギン?」
「せやで。また大きなったんとちゃう?夏樹」
「そうかしら」

 ベビーベッドで楽しそうに足をバタつかせる夏樹はギンを見ると嬉しそうに笑った。小さな紅葉のような手に指を持っていくと、その小ささからは想像できない強い力で握り返す。生後9ヶ月で、随分と大きくなったものだとギンはしみじみ思った。
 じっと見つめれば楽しそうに夏樹は笑う。この世を知らない無垢な瞳は自分の醜悪さを曝け出すようで、それでもギンは目を合わせる事を止められなかった。
 最初は存在そのものに懐疑の念しか抱けなかった赤子だが、自分を求める瞳に知らず知らずのうちに絆されていた。母親曰く、子供に母親が無償の愛を与えるのではなく、子供が母親に無償の愛をくれるから母親になれるのだそうだ。その理屈を夏樹が自分を見て笑う姿から、確かに的を得ているとぼんやり理解した。

「なぁ香澄ちゃん」
「なに?」
「夏樹の父親って誰なん」
「さぁ?海外に逃亡中よ。あのクソ野郎、妊娠したって聞いたら尻尾巻いて逃げやがって…」

 こんな綺麗な瞳を宿した子はどうしたら生まれてくるのか。純粋に疑問になったギンはそんな事を口走っていた。が、答えは思っていたものと真逆だった。

「…その人とヨリ戻そうとか考えへんかったん」
「腰抜けに用はないわよ」

 ギンは自分の指を口に入れようとする夏樹の手を制しながら、呆気からんと答える香澄と自分の書籍で見た母親像との乖離具合に内心落胆していた。
 そして、自分の知らぬ間に現世の価値観も随分と変わったものだとも思った。

「けどそんな男の子供なんてよう産も思うたなぁ」
「んー…そうよねぇ。何でかしら、産みたいって思ったのよね」

 香澄は夏樹を抱き上げると愛おしそうに頬擦りした。

「こんなダメな女のところに来てくれた子を、あたしの勝手でなかった事になんて、できないわ」
「ふぅん」
「まぁでも惣右介が来なかったらこの子は生まれなかったし、生まれたとしても母親は出来なかったと思う。こんなに重労働だなんて思わなかったもの」

 困ったように笑う香澄はしっかりと母親の顔をしていた。始まりが何であれ、今は立派に母親であろうと努めている。

―あの人は、どこまで想定してはったんやろうか

「…香澄ちゃん、これ渡しとくわ」

 きっと彼女なら問題ないと確信したギンは懐から小さな巾着を取り出した。香澄は首を傾げながらそれを受け取る。

「なぁに?この石。綺麗ね」
「君が死んだあと、夏樹を守るもの」

香澄自身、寿命が残されていない事は了承していた。表には出さないものの、自分の死後に夏樹をどうするかはずっと考えている様子だった。あと数年の寿命かもしれないと覚悟の上で娘を育てている。
 香澄に差し出した石は生前千代から預かったもので、もし崩玉を別の人間が使うのならば助けになるだろうと渡されたもの。死神として藍染の野望を阻止するという千代の強い覚悟でもあった。
 香澄の手のひらに転がる白濁色の石には千代の魂魄が刻まれている。千代が死ぬ間際に遺した、彼女の形見。ギンは見せたことのない深刻な表情で静かに告げる。

「藍染サンには見せたあかん、知られたらあかん。君の死後、夏樹に肌身離さず持つように言うて」
「…分かったわ、ちゃんと考えておく」

 香澄はギンに夏樹を手渡すと、箪笥の引き出しの奥に巾着をしまい込んだ。夏樹はご機嫌にギンの髪を引っ張る。

「あたた…ほら、お母さんとこ行き」
「やー!」

夏樹は楽しそうにギンに笑顔を振りまく。目を輝かせてギンの頭をペシペシ叩いていた。

「ほんと夏樹はギンの髪の毛が好きねえ」
「口に入れるんは勘弁してほしいんやけど…」

ギンは苦笑いを浮かべながら夏樹を肩に乗せてやればさらにご機嫌な声が上がる。

「やぁ」
「あら、惣右介も来たの」
「1時間もしたら帰るよ」
「そ」

 藍染もここにいる間は幾分表情が柔らかい気がした。それは、死神で居ずにいられるからなのか、彼女達の存在がそう見せるのか、理由はギンには分からなかった。
 不意に夏樹が頭を叩きながら足をバタつかせた。

「ぎーー!」
「え?」
「……ボク…?」
「ぎ!」
「嘘でしょ!?まだあたしも呼ばれてないのに!!?」

 予想外の事にギンは思わず顔を綻ばせる。

「せやで、ギンやで」
「へえ、おめでとう」
「あっ」

 にこやかな笑みを称えているものの、明らかに機嫌の悪い藍染にギンは夏樹を香澄に押し付けると即座に尸魂界へと帰還する事とした。

―なんやのん、あの人。まるで、ほんまに父親みたいやんか

 私室に戻りごろりと寝そべって月夜を眺める。
 淡々と倫理観の欠片も無い実験を繰り返す姿、同胞を切り捨てる姿、隊長として穏やかに振る舞う仮面を被った姿。見慣れた筈の姿から酷く乖離した新たな像にギンは目眩がした。
 ちぐはぐとした整合性のない姿を思い返しては、何処からが真実で何処からが偽りなのか、分からなくなっていた。

―あんな顔もしはるなんて、知りたァなかったわ

 ただの極悪人を貫き通してくれればどれだけ楽な事だろうか。自分の最愛を奪った男を赦すつもりは今だって微塵もない。殺せる隙があれば、今すぐにだって刃を向ける覚悟はあった。
―――だと言うのに、


 = = = = =


「ギン?」

 手を握られて視線を上げると困惑した表情でこちらを見つめる夏樹がいた。

「へ?」
「ごめん、ずっと黙りっぱなしだったから…」
「あぁ、堪忍。君と初めて会うた時のこと、思い出してたんや」

―つい昨日のことやと思えるくらいやのに、人間は大きなるんが早いもんやわ

 不安げに揺れる瞳を見ながら、ギンは少しだけ口元を緩めた。大きくなったけれども彼女は変わらず綺麗な黒の、純真なままだった。

「君のお母さんは霊力がえらい強い人やって、その霊圧に当てられて夏樹はお腹の中で死にかけてたんや。ずっと探してたんよ、千代さんの崩玉を、崩玉の意思を強制的に覚醒させられるやろう被験体を」
「待って。じゃあ、お父さんとは血が繋がってない、ってこと…?」
「せやね」
「そっ、か…」

 明らかに肩を落とす夏樹に、あんな極悪人と君の血が繋がってる訳ないやろ、と慰めるべきか、それでもあの人は君の父親をしていたと伝えるべきか、ギンは咄嗟に言葉が出ないでいた。

「じゃあ、私の本当のお父さんは…?」
「事故で亡くなりはったって聞いてる」

 海外に逃亡した男や親族はその後藍染の手によって殺されている。実験の妨げになるものとして排除されていたことも薄々香澄は気付いていたかもしれないと、今になって思う。

「崩玉が…千代が、死にかけの子供を助ける為なら覚醒するって、そう思ってお母さんを選んだの?」
「その通りや。結果として藍染隊長の思惑通りに事が進んだ訳やな」
「じゃあ、お母さんが虚に殺されたのは?如何して?要らなく、なったから捨てたの?」

 手の震える夏樹が見えるが、ギンは出しかけた手を引いた。

「そういう契約やったんや」
「けい、やく…」
「いくら封印状態とはいえ崩玉なんかを生身の人間が取り込んで無事な訳あれへん。香澄ちゃんはそれこそ最初は3年くらいの寿命ちゃうか踏んでたんや。せやけど、9年も生き続けた…君の為に」

顔の青ざめた夏樹に温かいものを飲むようギンは促した。一口飲んで少しホッとした顔をしたのを確認してから、ギンは続きを紡ぐ。

「あの人との間にどんな契約があったんか詳しくは知らへん。けど、最期は虚に喰われて輪廻から外れる。それは決まっとった。証拠隠滅の兼ね合いやろね」

 思い出ごと消滅させるかのように燃え盛るアパートと香澄の最期。夏樹が見た母親の最期は子供が背負うには余りにも凄惨なもの。その後、様子を見に行ったときに記憶が残っていなかったことに心底安堵した事を今でも覚えている。

「思い出すんや。君はお母さんが藍染隊長に殺されるところを、見てる」
「!!」
「知っとるはずや。君に向けられていた冷たいあの人の目を」

 ギンはあの時の安堵とは正反対の感情を夏樹から引き出していく。徐々に顔が青ざめて今にも涙は溢れそうだ。

「雨の日、アパートの前で香澄ちゃんは腹を貫かれて、血塗れの手ェで夏樹に最期の言葉を残してた」
「…やめて」
「痛かったやろうなァ。それでも最期まで恨み言も言わんと」
「やめて!」
「夏樹のことを最期まで見てた。瞳がゆっくり濁ってって、虚が香澄ちゃんを頭から喰うた」
「やめて!!!」

 夏樹の大声に辺りの客が一斉にこちらを見た。ギンはさして気にも留めず、夏樹に鋭い視線を投げる。

「夏樹、死神から手を引くんや」
「………っ!」
「君の命は千代さんと香澄ちゃん、2人が命と誇りを掛けて紡いだもんや。こっちに来たらあかん」
「っ、でも!」
「あかん」

 ギンはきっぱりと跳ね除けるように殺意すら篭った視線で夏樹を制する。

「お父さんは、たくさんの人を傷つけるような事を、しようとしてるんでしょう…!?」
「あの人は君の父親とちゃう。君は只の実験動物や。想いを傾ける必要なんて微塵もあれへん」
「なんで…っ、なんでそんな事言うの!」
「夫婦や、言うて仲良うしてたんが偽りやってちゃんと言わなわからんほど頭悪いん?」

 夏樹の目には今にも涙が零れ落ちそうな程潤んでいた。

「あの人は100年以上も他人を欺き続けたんや。平子サン等を実験台にして、何百人じゃすまん程の命を奪って。そうやって他人の気持ちを踏み躙り続けた人に何を夢見た事言うてんの。君のことなんてこれっぽっちも愛情を持ってはれへんよ」

 藍染惣右介の愛情が例え本当にあったとしても、夏樹は此方側の人間になるべきではない。あの日々を偽物にしてしまった方がよほど単調な悲劇で済むのだから、とギンは夏樹を切り捨てるような科白を敢えて選んでいた。

「夏樹が危ない目に合うんは、千代さんも香澄ちゃんも望んどらん」

そう願う中に自分も含まれている。どうかこの子には健やかな人生を。そう願わずにはいられなかった。
 ギンは不意に強い霊圧が物凄い速度でこちらに近付いて来るのを感知し、苦笑いを零す。

「あぁ、こらあかん」

 席を立つと目に溜まった涙を指で掬ってやる。店を出るように促せば、夏樹も近付いてくる存在に気付いたのかハッとした顔をする。
 夏の日差しを仰ぎながら、溶けそうやから早よ帰りたいと漏らすと夏樹は慌ててギンのシャツの裾を掴んだ。

「行かないで!ギン、わたし、」
「…今日、深夜零時、桜橋の公園から向こうに帰ることになっとる。僕がキミを守れるんはここまでや。こっちを選んだら、もう現世には戻れんで」

―香澄ちゃんにほんまに良う似とる

「誰に別れを告げるかはキミに任せる。一人でおいで」

 きっと母親の面影を濃く残す少女は、善も悪も飲み込んで、それでもそうすべきだと信じた方へ進むのだろうと、ギンは少女の瞳を見つめる。止めるという行為が無駄なことくらい分かっていた。それでも、止められずには、願わずにはいられなかったのだ。

―キミは知らんのや。キミがくれたモンが、ボクに"人"を残してしもうたなんて、

「刃向けられる覚悟、しぃや」
「うん」
「藍染隊長にとちゃうで、周りの全部からやで」
「…うん。ねぇ、ギンはどうしてお父さんと」

 ギンは夏樹の言葉を遮るように頭を撫でると、頬にキスを落とした。何をされたのか理解した瞬間、夏樹はの耳までも赤く染まる。

「な、っに!」
「ええやん、1回も2回も変わらんやろ」
「私前のこと許してなんかないんだけど!」
「何やっとんねん!!!」

 グイと強く肩を押されて夏樹と距離ができる。2人の間に割って入った平子は汗だくで、息切れしながらもギンを憎しみの篭った目で睨み付けた。
 夏樹は驚きのあまり目をぱちくりとさせる。ギンのキスに気を取られて平子が近付いて来ていたのを忘れていた様子だった。
 ギンは平子の視線に対して意も介せず、けれども剣呑な雰囲気を纏ったままにこにこと口を開いた。

「…僕、やっぱ平子サンの事嫌いやわ」
「あァ!?」
「あんたじゃ何も守れんよ。千代さんも、夏樹も」
「ギン!」
「夏樹、さいなら」

 ギンは後ろ手に手を振りながらそれ以上何も言う事なく去って行った。夏樹にはそれが、来るなと言っているようにも聞こえた。
 平子は深追いよりも夏樹の確保を優先させ、ギンを追うことはなかった。

「……夏樹」

 いつもより数段低い声色に夏樹は身体を強張らせる。夏樹にとってこんなにも感情の読めない表情をした平子を見たのは初めてだった。
 平子は溜息をつくとハンカチで夏樹の頬を乱暴に擦り始めた。

「いたっ、痛い平子くん!」
「やかまし、消毒じゃ…ったく」
「…いたい」
「痛くしたんや」

 平子が眉を顰めたまま夏樹を睨むと、居たたまれなくなったらしく顔を背けた。

「…泣いたんか」

 目尻に手をやると夏樹はびくりと身体を揺らした。うっすらと残る赤みに平子はますます険しい顔になる。

「泣いてない」
「ふぅん、目ェ赤してよう言うわ。自分、気ィ抜きすぎやぞ」
「そんな事ない、もん」
「キスされとったくせに?」

 平子は目尻を撫でていた手を脇腹に移す。刺されたところを強めに押すと夏樹は顔を歪めた。

「刺されたん、忘れたんか」
「忘れてないよ」
「…今日は早よ家に帰れ」

 夏樹は無言で頷くと背中を向けて走り出した。その姿を眺めたまま、平子は乾いた嘲笑を漏らす。

「八つ当たりやんけ…アホか、オレは」

 夏樹の霊圧の揺れが妙になって、アジトを飛び出すと慌てて彼女の元へ向かった。そうしたら、何故か隣にいるのは現世に居るはずのない市丸ギンの姿。
 まさか連れ去りに来たのではと一瞬止めた足を再び前に進めた。その瞬間ギンはこちらと目を合わせると口元を嫌らしく歪めて見せた。見せつけるように、夏樹に顔を近づけて―――
 ギンと楽しげに話しながら顔を真っ赤に染め上げていた夏樹に、無性に腹が立った。

―あァもう、ままならん。ままならんわ