54

 夏樹は丁寧に自分の身の回りを整理整頓していた。流石に一晩で全てのものを整理しきることはできないから最低限、見られたくないものは捨てて。それから冷蔵庫の中身も確認して、祖母が暫くは楽できる程度のおかずがあることも確認する。
 一通りのことが終わり、夏樹は机で真っ白な便箋と向かい合っていた。何度かペン先で紙を叩いたあと、サラサラと文字が綴られ始める。

『お父さんが生きていました。しばらく、お父さんといようと思います。元気に過ごすので心配しないでください。そのうち帰ると思うので、待っててください』

 育ててくれてありがとう、そう書こうとして夏樹は筆を止めた。これではまるで死にに行くみたいじゃないかと思ったから。帰ると約束したのだから、それは書くべきではないとペンを筆立てに戻した。
 そう思いながら、内心もう二度と帰れない予感もしていた。もう一度夏樹はペンを取ると別の便箋を出す。カリカリと文字を綴る音だけが部屋に響いて、漸く完成した2通の封筒をそっと本棚の隙間に隠した。
 夏樹は目を閉じると精神世界に潜る。薄氷はやはり砕けたままだったが、幾つか浮かぶ氷塊の上に足を付けた。

「翠雨!」
「そないに叫ばんでも出てくるっちゅーに」

 至極面倒くさそうに頭を掻きながら彼は同じの氷塊の上に降り立った。

「お父さんの崩玉を壊すだけの力が欲しい」
「あ?そんなもんある訳ないやろ」
「私の崩玉が覚醒仕切ったら、可能性はあるでしょう?」
「確かにお前は崩玉を受け入れられた器や。せやけどそれは休眠状態で且つ千代が負担掛からんように調整してたからの話。これ以上出力上げたら死ぬぞ」

 夏樹の首元に翠雨は刀を突きつけた。凍てつく風がひゅうひゅうと耳を切る音を立てながら夏樹に吹き付ける。

「お父さんのいる虚の住処なら可能じゃないの?」

 カチャリと一瞬刀の揺れる音がした。動揺とは呼べないほどの小さな揺れだったが、それは肯定を意味するのに十分だった。

「お姉ちゃんが囚われていたのもそこでしょう?霊子濃度が尸魂界よりも濃いあそこなら、できない話じゃない」

 夏樹はあの時肌で感じた記憶の断片と尸魂界での戦いを思い出す。迷いのない瞳で夏樹は刀を握ると、血が出るのも構わず下ろさせた。白い世界を夏樹の血の赤が鮮やかに彩る。

「お母さんを殺されても、友達を殺されそうになっても、自分が斬られても…それでもお父さんも、ギンも、要も、大切だって思っちゃうの」

「平子くん達も、汐里も、ルキアちゃんも、みんなみんな、大事なの。理想論だって、馬鹿だって分かってる。でも、捨てたくない」

―崩玉が破壊できれば、お父さんの謀略は成功しない。態々あれ程回りくどい事をしてまで崩玉を手に入れようとしたんだもん

「崩玉を破壊する。力を貸して」

 翠雨はしばらく夏樹を見つめた後、態と盛大にため息をついた。

「…アホたれ、勝手にせえ。オレの主人はお前や、夏樹。お前の好きなようにしたらええ」
「ごめんね」
「こう言う時はありがとう言え」
「ん、ありがとう」

 笑う少女を見て斬魄刀はこう思う。だから守れと言ったのか、と。きっと彼女は分かっていたのだ。少女が最も困難で自己犠牲とエゴに塗れた道を選ぶことを。

「崩玉を破壊して、その後どないすんねん」
「んー…きっとみんながお父さんを止めてくれる。お父さんには罪を償ってほしい」
「ちゃうわ、夏樹はどうするんやって話や」
「え、っと…そうだね、汐里と平子くんに…謝ってくるよ」

 崩玉を壊したところで藍染惣右介が改心する訳でも謀略を止める訳でもないにも関わらず、夏樹は自分だけが傷つく道を選んだ。藍染本人を斬り殺す方が何十倍も早いと言うのに。

「絶対死なん覚悟でやれよ、どっかで諦めとるやろ。それやったら力は貸さんぞ」
「分かってる。リサさんとも帰るって約束したもん。死なない。死にたくない。…でも、あれは私にしか壊せないでしょ」

 夏樹は最後にぽつりと呟くようにそう言い残して現実へと戻った。


 = = = = =


 深夜11時を回った頃、夏樹はとある2階の窓をコンコンと叩いた。灯りのついた部屋のカーテンが開けられて、夏樹は努めて自然な笑顔を見せた。

「やっほ、汐里」
「夏樹!?」
「しばらく、現世を離れることにしたから。挨拶にきた」
「は!?」
「もー、大きい声出したらご近所迷惑だよ」

 窓の桟に頬杖ついて夏樹は苦笑いする。肩の力の抜けるような声に汐里もへなへなとした手で部屋の中を指差した。

「と、とりあえず中に入ったら…?」
「ううん、いいよ。すぐ行くし。ごめんね、色々と心配も、嫌な思いもさせちゃって」
「夏樹…?あんた何考えて、」

 汐里は夏樹を逃すまいと腕を掴む。いつもと雰囲気の違う夏樹の様子に汐里は夏樹を掴む手に力が入る。

「これ、平子くんに返してくれないかな。持っては行けないからさ」

 汐里の手をやんわりと解くと、髪留めを汐里の手に置いた。母の形見の代わりに平子からもらったものだった。

「いい、けど…」
「汐里、私きっと帰ってくるから。待ってて。おばあちゃんのこと、お願い」
「夏樹…?だめっ!ちゃんと話して!」
「ごめんね」

 へらりと笑う夏樹に言い返そうとした汐里は窓から身を乗り出そうとする。今までありがとう、と呟きながら夏樹は汐里の顔に手をかざす。霊圧を当てられた汐里はふっと意識が途絶え、ベッドに崩れ落ちた。

「…行ってきます」


 = = = = =


 目的地の桜橋の公園に行けば結界の張られた区画が見えた。その中にギンともう1人、虚の霊圧を感知できる。霊圧を抑えているものの、戦ったら確実に死ぬと悪寒が一瞬走るほどには実力を感じさせる虚だった。けれどその存在自体にどこか違和感を覚えて首を傾げる。
 ここまで明確に人の形をした、それもハッキリと言葉を紡ぐ虚を見るのは初めてで夏樹はギンに視線を送る。

「こいつが姫さんかい?」
「せやで。ほんなら頼むわ」
「はいよ」

 首元に下顎の仮面の欠片が付いた青年の姿をした虚は手を水平に翳して空を切った。

「人型の虚って初めて会うんだけど…」
「ん?破面を見るのは初めてか?」
「ざっくり言うと、藍染サンが崩玉で創った死神化した虚や」
「オレはスターク。コヨーテ・スタークだ。どうやらあんたの世話役らしい、よろしくな」

 まるで魔物の口が開くかのように、異界への扉がぱっくりと開いた。夏樹は震えを隠すように手を後ろに隠す。

「どないすんの」
「っ、今更引くわけないじゃん」
「ほな行こか」

 ギンは相変わらず読めない表情で夏樹を見つめていた。ほら、と差し出した手を、もう戻れないとしても前に進むと決めた夏樹はしっかりと握る。ゆっくりと瞠目して息を吐き出すと、おどろおどろしく闇が蠢く空間へ足を踏み出した。

―平子くん、ごめんね。リサさん、ありがとう。…行ってきます