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 ーーーー真っ白な空間に向日葵が無限に咲き誇っていた。向日葵畑の遥か先できらきらと何かが揺れる。私はそれを追いかけることなく、ただ遠ざかるのを見ているだけだった。
 光が揺れる度に胸が切なくて今すぐ泣き叫んで、輝きを掴みに行きたくなる。あの温かな光に抱かれて溶けるように眠りたいのに、私の足は微塵も動かなかった。
 これは私の意思ではなく、誰かのものだ。誰かの夢を私が見ているのだと気付いた時、急に景色がぼやけて目が覚めた。
 頬には自分の意思ではない一筋の涙が流れていた。

 冬が訪れる、静寂を引き連れて。あぁ、冬は苦手だ、と曇天の空を眺めて夏樹は思った。決まってこの日は、この誰かの夢を見て目を覚ます。重たい気持ちを跳ね飛ばそうと勢いよく布団から起きた。今日は大切な日なのだから。

「雨降っちゃったねぇ」
「そうだね」

 電車に揺られてタクシーに乗って、辿り着くのは県外の集団墓地。慣れた手つきで仏花とお饅頭を相模家と彫られた墓に供える。

「袋にお饅頭入れてきて正解だったね、おばあちゃん」
「ほれ、さっさと手を合わせな」
「はぁい」

 11月16日、この日は夏樹の両親の命日だった。7年前の、ちょうど今日みたいな気の早い冬がやってきた寒い雨の日、両親が強盗に殺害された。
 夏樹自身、事件当時のことはあまり記憶にない。気が付けば病院で祖母が涙を流していて、何が起きたのかはほとんど覚えていなかった。ショックによる記憶欠如だと知らされた。
 記憶が朧気なのは事件のことだけではなく、それまでの記憶全てだった。
覚えているのは、酷く雨が降っていて寒かったこと、その冷たい雨の中で横たわっていて死にかけていたことだけだ。警察によると何故か血まみれで庭先に倒れていた夏樹は、運よく強盗が放火した火事から逃れて生き延びたらしい。

「…お母さん、お父さん。私、高校生になったの。今は汐里って子と一緒にジャズ部でサックス吹いてるんだよ」
「ヘッタクソな音聴かされるこっちの身にもなってほしいね」
「ヒドッ!」
「さっさと綺麗な音を聴かせれるようになるこったね」
「はーい」
「…こっちはこの子がいるから毎日喧しくて仕方ないよ。じいさんにもちゃんと挨拶しな」

 夏樹の祖父は2年前に他界した。末期癌が見つかり、治療も間に合わないままぽっくりとなくなってしまったのだ。

「あっ、そうだった」
「忘れるんじゃないよ」
「えへへ」

 そういう祖母の目は優しい。口は悪いが、夏樹を愛情いっぱいに7年間育ててくれた人だ。両親がいない寂しさで泣いた夜もたくさんあった。けれど、それでもここまで夏樹が前を向けているのはこの人のおかげなのだと、墓前で両親や祖父に伝える。照れ臭いから心の中でそっと。
 行きと同じようにタクシーに乗り、電車に揺られて故郷となった鳴木市へと帰る。

「ね、ちょっと寄り道して帰るから先帰ってて?」
「ご飯の時間に遅れるんじゃないよ」
「分かってるって」

 駅で祖母と別れると、どこともなくふらふらと町を歩いた。まだ11月だというのに街中はもうクリスマス商戦が始まっていた。イルミネーションがちらつく中、夏樹はぼんやりと喧騒の少なそうな方向へと足を向けた。

 お母さんに朝起こしてもらうのが好きだった。仕事で忙しく滅多に会えないお父さんに頭を撫でてもらうのが好きだった。でもお母さんのピーマンの野菜炒めと寝起きのお父さんの顎は嫌いだったな、なんて流れては消えてしまいそうな記憶の欠片を拾い集める。
 朧気になってしまった中で、ほんの少しだけある両親の記憶。記憶の反復を縋るように何度も、何度も。

 気が付けば公園の藤棚のベンチに腰かけていた。雨の音だけが閑寂と響く。涙はもう出ない、あれは7年も昔のことだ。涙が流れないほどに昔のことで、忘れることができない程に今と近い。
 この日、毎年のように夏樹は事件当日のことを考える。何か大切なことを忘れている、そんな気がしてならない。
 犯人のことは許せない。一瞬で大切なものを奪っていったのだ。放火跡から男性2人、女性1人の遺体が見つかったため警察はそう事件を落ち着けたとのちに聞かされた。
 未だに犯人の身元も目的もはっきりとしていなかった。両親は何故殺されたのか、何も分かっていなかった。

「今年もダメか…何も思い出せない」

 医者によれば精神的な負荷が多すぎるため、無意識のうちに記憶を避けている可能性があるらしい。無理に思い出そうとしないことを勧められた。けれども夏樹は、どうしても忘却してしまった記憶の中に、大切なものがあるような気がしてならなかった。
 ふと公園の前を通る人影に目が行く。目立つ金髪が傘から見え隠れする。

「平子くん?」

 声を掛ければ、けだるそうな猫背がこちらを向いた。

「相模チャンやん」
「やっ、奇遇だね」
「何しとん」
「ちょっと休憩的な?」
「まぁ酷い雨やしなぁ」

 公園にできた大きな水たまりは絶えず波紋を作る。雷が遠くで鳴っていた。
 珍しく、平子とは打ち解けるまでに夏樹が要した期間が短かった。それは彼の言葉がうまいのか、距離の取り方が上手いのか。するりと懐に入り込むように、緊張をほぐしては夏樹の警戒心を徐々に薄めていった。

「それ、向日葵?時期じゃないのに珍しいね」

 平子の手にあるビニール袋から向日葵が見えていたのを指した。

「ええやろ、今の技術なら年がら年中手に入るんやと」
「へぇ、向日葵好きなの?」
「せやで」

 一呼吸置いて、オレも休憩してこと平子は一人分あけてベンチに腰掛けた。もう一つのビニール袋から小さなペットボトルを取り出すと夏樹に投げる。ほんのりとした温かさのホットレモンだった。

「それ、やるわ。冷えるやろ。ちょっとぬるなってしもたけど」
「えっ」
「家のヤツに土産用に買うたやつやから気にせんでええで、もっとあったかいの買うてこんとどやされるだけやし」
「…ありがとう」

 ほっとするような甘さが身体に染み渡る。

「…今日はえらく冷えるわ」
「冬もすぐだね、早いなぁ…」
「なんか、随分落ち込んどるように見えるけど」
「…んー、雨だからじゃない?」

 平子は特にそれ以上何かを聞いてくる気はないらしい。根掘り葉掘り聞かれず、夏樹は内心ホッとした。
ザーザーと雨の音だけが世界を包んでいるような錯覚に陥りそうになっていた。寒いのに、何故だか沈黙が心地よい。

「私さ、雨好きじゃないんだよねぇ…」
「そーか」

 向日葵みたいな明るい花をお墓に持って行けばよかったかもしれない。そうすれば少しは気分も華やいだかもしれないと、向日葵を視線を向けた。
 ふと、何かを思い出しそうな感覚に襲われ始めた。どこかで見たような懐かしい色、懐かしい響き。

「…あ」
「ん?」
「向日葵、平子くんと同じ色だね」

 不意に思ったことを口に出した。平子は少し驚いた顔をしたあと、酷く優しいどこか困ったような笑みを浮かべた。見たことのない表情にどきりと心臓が跳ねる。

「せやろ」
「う、うん」
「そないに気になるんなら、よーけ買うたから一本あげるわ」

 向日葵を凝視していたらそれを欲しいと思ったのか、平子は夏樹に渡そうと手を動かした。

「あっ、そうじゃなくて」

 夏樹は慌てて止めに入った。そんなつもりはなかったのに、と。

「ごめん、ぼーっとしてて。今日の夢で向日葵見たんだよね」

 夏樹はその先で何か言おうとして、はたと平子の顔を見る。不自然に固まった夏樹を不思議そうに見ている平子が夏樹の瞳に写った。

「どないしてん、急にそないに見つめてきて」

 霧が晴れたように、夏樹の中であの時夢の中で見た光景と平子が被り始めた。

「…平子くんさ、髪長かったこととか、ない?」
「は?」
「あ、あれ?私何言ってんだろ…?ごめん、気にしないで」

 違う、違う、と慌てて夏樹は頭の中を整理しようとする。あの夢に平子が出てきたような気がした。けれどそれは一瞬の出来事で、またモヤがかかったように実態が掴めなくなっていた。もう少しで掴めそうな気がしたのに。

「相模チャン?」
「へ?」
「今日のジブン、なんか変やで」
「…毎年この日になると、夢見るの」

 怪訝そうな顔をした平子が手のひらを目の前で振っている。浮遊感のような気持ち悪さが心臓のあたりにまとわりつく。今すぐ掻き出してしまいたいような吐露感が手に汗をかかせた。

「向日葵畑で、光を追いかける夢…私、思い出さなくちゃいけないことがあるはずなのに、それがいつも思い出せなくて…」

 手を止めた平子の困った顔が見えた。けれど、それよりも平子の金色が、琥珀色の瞳に惹き付けられてどうしようもない。揺れる金糸が向日葵畑と重なっていく。

「私、どこで…?」

 平子が欲しいと、思うままに手を伸ばす。さらりとした平子の横髪が夏樹の手に触れた。この感触に覚えがあるような、ないような。

「見つめてくれるんは嬉しいけど、ちょっと積極的すぎやで」
「へ?」

 パシリと腕を取られ、夏樹ははたと我に返った。掴まれた腕を見てようやく自分の状況を理解する。

「え、あ?」

 顔を真っ赤にさせてあたふたとする夏樹の姿に、平子はいつもの調子に戻ったことを確信すると手を放した。

「なんや、続きしてもええんやけどォ?」
「ななななな何を!!?」

 慌てふためく夏樹を見て平子は喉の奥で笑った。

「そろそろ帰らなばーちゃんに怒られるんと違うか?」

 そう言われて時計を見ると時刻はもう6時半を回っている。慌ただしく別れの挨拶をすると夏樹は駆け出して行った。
 残された平子はその場で動かずにじっと思案を繰り返していた。確かにあの瞬間、夏樹の霊圧が僅かにだが上昇した。霊感のないはずの彼女の、霊圧が。
 胸の中が酷くざわついて、思わずポーカーフェイスを崩して舌打ちをする。すると滑稽だとでも言うかのような嘲笑が平子の体内で響いた。

「…黙っとれや」

 この日が近付くと押さえつけたはずの虚ろな存在が騒ぎ出す。己に己を偽ることはできないのだと、歪んだ笑みを向けられているような気がした。