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 夏樹は短くなった毛先をつまんでは横目にその長さを確かめる。

―短いのも悪くない、かなぁ。にしても、誰かに整えてもらわないとか。ハリベルさんの従属官なら誰か一人くらい器用だったりしないかな…

 先程までの翠雨とのやりとりを思い出しながら、ベッドに体を投げる。何度も何度も髪の毛の先をつまんでみては、乱雑な切り口を確かめる。自分はこれで本当に現世と身も心も別離したような気がして、昼か夜かも分からない青空を見てため息をついた。
 目を瞑って、現世でのことを思い浮かべる。大切な、大切な思い出たち。守りたいもの。
 ふわりふわりと幾つもの思い出が、煩雑な時系列で浮かんでは消える。そのまま夏樹の意識はゆっくりと落ちていった。

―あ、夢だこれ

 目を開けると周りを取り囲むのは一面の金色。明晰夢の中で、夏樹はゆっくりとあたりを見回した。母の命日の朝に見る夢と同じ場所だった。

―この色、やっぱりすごく平子くんに似てる。あぁ、そっかこれお姉ちゃんの夢だから。だから向日葵畑だったんだ

 平子が向日葵を買っていた雨の日の記憶とともに思い出す向日葵の花言葉。

―あなただけを見つめる、だっけか

 じくりと胸の奥が痛んだ。目を瞑ると光を追いかけたいのに、追いかけることすらできないあの感覚が蘇る。あの痛みは、現世を去ったときの痛みと少しだけ似ている気がした。

―お姉ちゃんは、どれだけの間待ったんだろう。2人は切り裂かれて、どれだけ…痛かったんだろう

 想像してみてもそれは想像だけの話で、けれども身を裂かれるように辛いことだというくらいしか分からない。分からないけれど、胸の奥が痛くて夏樹は下唇を噛んだ。
 向日葵の花弁に指を這わせて、空を見上げる向日葵と同じ方向を見た。太陽が柔らかに日差しを送っている。

―あのお日様、平子くんみたい

 ふわりと吹いた風がゆっくりと一面の黄金を揺らす。日差しを遮るように手を翳して空を仰いでいると心がゆっくり凪いでいく。穏やかなひだまりの中で、夏樹は心地よさに目を瞑る。
 平子が真剣な顔をしたと思ったら、ふっと目元を緩める。空気がゆるりと暖かくなるような、その感覚が好きだった。まるで陽だまりの中にいるような安心感に夏樹は何度も救われた。
彼の手は「守る」と決めた人の固い手だった。刀を握り続けた自分の掌も少しだけ固くなりつつあるから分かる。どれだけ振るい続けたら、背負い続けたら、それは計り知ることはできない。

―あぁ、そっか。私、平子くんのこと好きなんだ

 きゅう、と胸の奥が締め付けられるような感覚に苦笑いを零す。
 自分は彼の内側に踏み込めやしないけれど。傷つけることしかできないけれど。例えその手が自分に差し出されたものでなかったとしても。

―話を聞く勇気なんて、きっといつまでも持てやしなかった

 ギンから過去の大筋は聞いて、自分と彼らの歪な関係性が浮き彫りになってしまった。自分はあの輪の中に入るべきではない。

―何も言わないで、こっちにきて良かったなぁ

 斬魄刀の柄に手を伸ばす。そっと指で美しい凹凸を撫でて、また揺れる向日葵を見て目を細める。
 今だけはこの穏やかな空間で、と夏樹はゆっくりと息を吸った。


 = = = = =


「ありえないんだけど!」

 女性の声が天宮にこだまする。

「あはは、すいません〜」
「あんたよくそんなダッサイ頭で生きてられるわね!?」

 ジョキジョキとリズミカルに髪が切り落とされる音がする。夏樹はボサボサに切られてしまった髪を整えにハリベルの宮を訪れていた。
 ハサミを手にするのはミラ・ローズ。文句を言いながらも丁寧に髪を整えていく。

「ミラ・ローズが器用でよかったなぁ、夏樹」
「全てを一任する貴女の方がありえないと思いますけど」
「アァ!?お前は丸刈りにしてやろうか!」
「まぁお下品」

 夏樹はおきまりのやり取りをしている3人を見ながら苦笑いを零す。同じ性のためか、彼女らは夏樹と友好的に過ごしていた。時折ハリベルも剣を取って、相手をしてくれる。

「にしてもまた思い切った切り方したなぁ」
「斬魄刀で切ったから」
「…バカなの?ほれ、これでヨシ」

 鏡を投げられて、姿を確認すると別人がいた。ここに来た時とは、服も、髪型も、違う。
 破面が着ている服装と同じ、死覇装とよく似た形の白い服。肩よりも短くなった髪。このまま現世に出ても誰も自分だと気付かないかもしれない。

「…変じゃない?」
「あたしの腕が信じらんないって言う訳?」
「ううん、ありがとう。ミラ・ローズさん」

 切り口を何度か触って、首を右に左に振ってみる。きっかけはどうであれ、生まれて初めてしたショートカットは思いの外悪くなかった。
 母の形見、もとい千代の魂魄が込められた石を袋にしまうと、落とさぬよう懐にしまった。

「夏樹、この後はどうするんだ」
「また手合わせをお願いしてもいいですか、ハリベルさん」
「おいこら。あたしから一本取れたら、だぞ。ハリベル様のお手を煩わせるんじゃない」
「えー、昨日は無理だったけど今日はもういけると思うよ。アパッチさん」

 夏樹は斬魄刀を引き抜いて、挑戦的な笑みを浮かべる。日に日に大きくなる霊圧を御するために、できる限り格上と戦闘を繰り返す日々。

「いーい度胸じゃねえかァ!」
「貴女たち、やるのはいいけど外でやりなさいよ。ハリベル様の宮が汚れるわ」
「はーい」
「そのくらいお前に言われなくてもわかってるつの!」

 アパッチも応えるように刀を引き抜く。宮の外で、刀がぶつかり合う金属音と鬼道が弾ける爆発音、それから瓦礫が吹き飛ぶ轟音が鳴り響いた。

 全力で殺し合いをした後、夏樹はへろりとした足取りで宮に戻る。空は相変わらず青いけれど、時刻はもう夕方でお腹が空いて堪らなかった。
 虚圏に来た翌日には東仙が取り計らってくれたのか、台所が併設された。食べ物はあの日手当をしてくれたロカという破面が届けてくれる。冷蔵庫によく似た箱を使っているが、これについては仕組みはよく分からなかった。

「夏樹〜何食べてるの?ってその髪どうしたの!?」
「あ、リリネットちゃん。ちょっと心機一転してみようかと」

 適当に作った炒飯をかきこみながら、くるくると夏樹の周りを歩き回るリリネットに笑いかける。むふ!とリリネットは鼻息を膨らませると、突然夏樹の手を取った。

「ね!それ藍染様に見せに行こ!」
「え、なんで!?」

 慌ててお茶を飲んで、喉に詰まりかけたご飯を奥に押し込んだ。ぐいぐいと手を引くリリネットの勢いに負け、夏樹は藍染のいる宮へと足を運ぶ。

―あの冷たい目をしたお父さん、少し怖いし。なるたけ行くのは避けたんだけどなぁ

「…お父さん、いる?」
「藍染サマー!夏樹連れて来た!じゃ、あたし先戻るね、夏樹!」
「えっ、あ、うん」

 恐る恐るといった調子で部屋を覗くと、椅子をくるりと反転させて夏樹の方を見た。リリネットは風のようにその場を駆けて行ってしまったのが少し恨めしい。

「髪、どうしたんだい」
「イメチェンかな?」
「…香澄によく似ているよ」

 夏樹は目を見開くと、ふわりと笑った。感情のない瞳しか見ていなかった父が、ほんの少し懐かしそうに目を細めたのを見たから。
 夏樹は手に力を込めると、藍染と正面から対峙する。今を逃すと尋ねる勇気はないように思えたから。

「お父さん、教えて。空座町を使って何をする気なのか」

 意を決して確信に迫ろうとする娘に、藍染は表情を変えることなく答える。聞いて君は後悔するだろうと。

「分かってる、でもお父さん。私、お父さんに酷いことして欲しくない。これ以上誰も傷つけて欲しくない」
「崩玉がなくなったところで私は歩みを止めやしないよ」
「分かってる。でも、私にできそうなのはこれくらいだから」
「これくらい、か」

 藍染は創作者ですら傷一つ付けられなかった崩玉を破壊すると言いのける愚直な少女を鼻で笑う。

「進んで地獄を歩むと言うのなら、止めはしないさ」

 そう言って藍染は微笑んだ。夏樹はぞくりと背筋が凍る感覚に膝を付きそうになるのを堪える。感情を宿さない瞳は、今すぐに逃げ出したくなるほどに冷酷だった。
 藍染は席に座るように促すと、見知らぬ破面に紅茶を注ぐよう指示した。こぽこぽと湯気を立てて注がれる紅茶は酷く平和で場違いに見えた。

「さて、君は何を知りたいのかな」

 夏樹は声の震えを抑えきれぬまま、口を開いた。おそるおそる、けれど瞳に宿した意志は強い光を持ったまま、教えを請う。

「お父さんの目的と、そのすべて」
「強欲な子だ」

 ふっと小さく笑うのに、目の奥はやはり笑ってなどいない、悴むような寒さを孕んでいる。

「この世界の成り立ちから、話してあげよう」

 世界の全てを見下したような、心底くだらないといった感情を声色に乗せて、藍染は語り始めた。それでも内容は端的にまとめられて分かりやすく、あぁやっぱり先生みたいだと夏樹は頭の片隅で思っていた。