59
夏樹はベッドに身体を沈め、深い深い溜息をつく。身体からゆるゆると力が抜けて、漸く張り詰めていた心を休めることができた。
藍染の口から語られたこの世界の成り立ちは、あまりにも壮大な話で、御伽噺のようで、現実だと言われたところで実感する術はなかった。
そうして彼の掲げる正義は、夏樹には子供の我が儘のように聞こえた。支配するものを拒むだけ。世界を変革する力があるから実行する。
―わっかんない…分かんないや…
ごろりと身体を横向けて、自分の掌をぼんやり眺める。
『神様にでも、なりたいの…?』
『君がそう思うものは、確かに神と呼ばれているものだろうね』
柔和に微笑む男は確かに人を信頼させる居心地の良さが滲み出るようで、それでいて本質は180度逆向きの限界まで悪辣を煮詰めたものだからタチが悪い。幾人もがこの微笑みに騙され、陥られてきたのだろうと容易に想像がついた。
夏樹の記憶に残る父は決してあんな人の良い笑みを浮かべていなかったから、あれが作り笑いであることはすぐに理解できた。
そんな作られた穏やかさの中で語られた話を何度も反芻しても、父の成そうとする事に賛同できない心情が浮き彫りとなるだけだった。
「霊王の欠片、かぁ…」
自分や母の中にあると言われた因子。それが何を意味するのかすら理解できない。ただ、その欠片のおかげで、自分は結果的に命を救われる事となった。霊王の欠片がなければ、崩玉を埋め込まれるのこともなかったのだろう。
ふと東仙が言っていた言葉を思い出す。
『正義とは掲げたその瞬間から誰かにとっての善であり、悪になるのだ』
―お父さんの正義は、要にとっての道標で、私にとっての悪だ
夏樹はそれでも自分の父に刃を向ける勇気がないことに力なく笑う。
『一番に聞きたかったことは聞いていかなくていいのかな』
話の最後にそう微笑む藍染を見た瞬間に、夏樹は席を立って自室へと帰った。記憶にある温もりと同じ顔で、ほんの一瞬昔に戻ったような錯覚に陥った。これ以上ここにいてはいけないと、頭に響く警鐘が夏樹を飛ぶようにその場から離れさせた。
自身の選んだ道が正解でないにしろ、間違いだったとも思わない。思いたくなかった。
ーお母さんのこと、私のこと、大事に想ってるのなんて、聞けない
もし否定されたら、自分のすべきことはきっと父親を殺すことが正しい選ぶべき道になってしまう。そんな風に考えてしまう時点で答えは出ていたのかもしれない。それでも、蓋を開けなければ答えは解らないままだから、解らないままでいてほしいと祈るしかなかった。
= = = = =
「姫さん、どこ行ったんだ…霊圧がでかいのはいいが、デカすぎて中心がイマイチ分からねえ…」
スタークは広い建物の中を歩いて夏樹を探す。方角は分かっているがどの部屋にいるかまでは分からない。
人間の世話役など随分煩わしい役を仰せつかったものだとスタークは最初は思ったものだ。しかし、彼女の来訪から2週間が経過した今では、リリネットも彼女を気に入った様子で表面上は睦まじく過ごしていた。
「ったく、参ったな…上か?」
「いい加減に生きすぎじゃないの」
「お前も見つけれてねークセに偉そうにすんじゃねーよ」
建物の中をくまなく歩き回って見つからない、となれば外にいる可能性があるのかと窓の外を見やる。
リリネットを抱えながら屋上へと登ると、ど真ん中に突っ立っている夏樹を見つける。スタークはやれやれとため息をつく。
気配に気づいているだろう彼女が微動だにしない。遠巻きに見てもどうにも様子がおかしい気がしてスタークは足早に夏樹に近付いた。
「姫さん」
「あ、スタークさんとリリネットちゃん。どうしたの?」
振り返って首を傾げる夏樹にさっき感じたような違和感はない。今にも消えてしまいそうなあの背中は見間違いだったのだろうか。
「東仙サンが飯届けてくれたぞ」
「じゃあすぐ戻りますね」
「姫さんこんなとこで何してたんだ?」
「んー…ちょっと考え事を」
ここっていつでも青空しかないから。そう言って夏樹は少しだけ詰まらなそうに笑った。
「…なんでこっちに来たんだ?」
「なんでって?」
スタークにとって藍染のやろうとしている事の詳細は知らないしさして興味もないが、人間や死神に仇をなす行為であることくらい理解していた。平凡な少女が何故、こんな鬱屈とした世界へ足を踏み入れたのか、スタークにはてんで理解が出来ていなかった。
「だってあんた、藍染サマのやる事に賛同してるって風でもなさそうじゃねーか。まぁオレも適当だし、人のことは言えんけど」
「うーん…半分は逃げで、半分は…生きてる意味を確かめる為、とか?」
「随分ふわっとした答えだな」
「でも、お父さんを止めたいから。誰も傷つけてほしくないから」
そう言って柔らかく笑う少女は何を背負うのか。何も教えてくれそうにはなかったが、憂いを帯びて伏せられた目はどこか遠くを想っているようだった。
「スタークさんこそ、どうして?」
「俺は別に…する事もなかったし。それに、あの人は強いだろ。俺らといても消滅しないからな」
「消滅…?」
「強すぎる虚は、存在するだけで周りの虚を削っちまうのさ。だから、俺はリリネットとしか一緒に居られねえんだ」
特に隠している事でもないから話したけれども、こんな事を他人に話したことは初めてだと気付く。単純に機会がなかっただけだが、この少女ならば笑わずに聞いてくれそうな気がしたから素直に答える事が出来たとも言えた。
夏樹は変わらず何処か遠くを見ながらぽつりと呟いた。
「それは…」
少女の紡ぐ言葉を待つ。憐れだと言うのか、傲慢だと言うのか。
「スタークさんも、リリネットちゃんも悪くないのに。なのに、居るだけで周りを傷付けてくなんて、悔しくて、寂しい」
夏樹は表情を殆ど変えないまま、声色にほんの少しだけ感情を乗せてそう呟いた。予想外の答えを上手く理解できなかったリリネットは首を傾げていた。
「それは…自分の話か?」
「…まさか」
へらりと笑ってそう答える彼女は静かに視線を落とした。
「私は…悪い子だから」
夏樹はスタークと目線を合わせる事なく横切る。すれ違い間際にぽつりと、寂しいだけなら我慢できるしね、と漏らした。
「やっぱり、自分の話じゃねーか」
父を止めたいと願う少女は何を想い、何を背負うのか。推し量ることすら難しい現状で、彼女の足取りは果てのない虚圏の砂漠を歩き続ける旅人のもののように見えた。
「姫さーん!知ってるだろ!虚圏は本当は青空じゃねーんだ、ずっと夜なんだ!!」
先行く夏樹に大声でスタークは声を掛けた。彼女の足が止まったの同時に、響転で彼女の腰を掴むと俵担ぎで持ち上げる。反対の腕でリリネットを持ち上げて。
「な、なに!?」
「折角だから一緒に見ていこうぜ。本当の虚圏」
そのまま彼女の反論も聞かずに天蓋の外に出る。姫さん、と声を掛ければ速度を出しすぎたのか息絶え絶えになっていた。
「も、うちょ、っと、ゆっくり…けほっ」
「あ、悪い」
「スターク!今のもっかいやって!!」
反対にリリネットは至極楽しそうに笑みを浮かべていた。
「ほら、お月さん出てるだろ。現世みたく星はねーし、薄暗いけど、嫌いにはなれねーんだ。欠けた存在にはお似合いだろ」
夏樹は呼吸を整えるとゆっくりと空を仰いだ。風が緩やかに吹いて短くなった夏樹の髪をなびかせる。
「こっちはずっと、明けない夜だ」
1人しかいない思わせる虚圏の空は好きじゃなかった。欠けた月がまるで自分の体に空いた穴のようで、欠陥品のようで寂しかった。けれど、どれだけ寂しいものだと思ったとしても、嫌いにはなれなかった。
嫌いになれたらどれほど楽なのだろうかと思う夜が幾たびもあった。この空が持つ孤独は虚としての性質そのものを表しているようだった。
「姫さん、アンタは人間だろ。ちゃんと明ける世界にいた方がいい」
夏樹は眉を顰めてひと睨みすると、背中を向けて砂漠を一歩一歩と進む。
「ここにいちゃ、いけない…?」
その声は細く震えていて、スタークはよかれと思って放った言葉を後悔する。
「夏樹っ!」
無言で立ち去ろうとした夏樹の腰にリリネットが凄まじいスピードで掴みかかる。勢い余って二人は前のめりに倒れた。
「いったぁ…」
「居ていいよ!!」
リリネットは夏樹の腰に顔を埋めたまま、力強くそう言った。勢いよく振り返ったリリネットは涙目で、鼻水を啜りながら自分を睨んだ。
「スターク馬鹿じゃないの!?自分が一番言われたくないこと!言ったんだよ!!」
「リリネットちゃん…」
「居てよ、ここに。居たらいいじゃん」
涙声でリリネットは訴える。夏樹はあやすようにリリネットの頭を撫でた。
スタークは彼女の立場を思い出した。人間だけでなく死神の友人が居て、藍染のすることは勿論のこと、尸魂界のすることにも是とも非とも言えず、ただ独りで全てを守りたいと虚圏に来たのだと。
「悪かったな、余計なこと言った。ひとつだけ、聞いてもいいか?」
「何?」
「あんたのその孤独の先に、何があるんだ?」
「先、に……大事なものが守れるって、信じたい」
虚には決して持てない、生きた瞳がそこにあった。虚圏の闇を飲み込んで、それでもなお輝く強い希望を宿した意志は初めて見る眩しさだった。
「人間って…いや、姫さんはすごいな」
「?」
「帰ろう、俺たちの宮に」
二人を起こすと、今度はゆっくりと歩いて帰った。穏やかな会話が続いて、孤独がほんの少し和らいでいく。この少女の未来が明るいものであるようにと、祈ることくらいはいいだろうと欠けた月に願いをかけた。