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 空座町で秋祭りが開かれる。一護の勧誘も結果的に成功し、修行に勤しむ中たまの息抜きと称して仮面の軍勢一行も参加することにしていた。鳴木市の夏祭りの開催規模が大きい分、空座町は秋祭りに力を入れているようで神社周辺も賑やかな催しで囲まれていた。
 一人早く着きすぎた平子は鈍色の浴衣に紅色の帯を締めて神社の境内を歩く。かき氷、からあげ、金魚すくい、と祭りを彩る屋台に目を細める。やはり祭りは賑やかでいいものだ、と。
 もし夏樹がいたら、彼女も連れ添って皆んなで楽しんだのだろうか。楽しそうに屋台のご飯に齧り付きながら、ほら早く行こ?と首を傾げる姿が思い浮かぶ。ふとそんな考えが頭を過ぎり、首を振る。

「みぞれ」
「味ある…?」
「あるある、ほら」
「ほんとだ、おいしい!」

 聞き覚えのある声に平子は勢いよく振り返る。人混みの先に見えるかき氷の屋台の前で、男が差し出したスプーンを口にする少女。

「夏樹…!?」

 平子が瞬きもうひとつした時には、人ごみにかき消されて二人の姿は見えなくなっていた。

―くそッ、どこや!?霊圧遮断しとるな…!?

 平子はリサに電話で連絡を取り夏樹を探すよう頼むと、あたり一帯を走り回る。

―どこや、どこや…!

 悪態を付きながら限界まで探知範囲を広げて機微を見逃さぬよう神経を張り巡らせる。

「あっち、か…!?」

 ほんの微かに違和感を感じる方へ足を向ける。
 確かにさっき見たのは、楽しそうに笑いながらギンと歩くのは、随分と髪の短くなった夏樹だった。二人の姿が脳裏に浮かんで、胸中は嫌な予感で満たされていく。神社の裏の林まで掻き入ると、上方に森の色に溶け込まない鮮やかな青が目に入った。

「夏樹!」

 思わず大声を出すと夏樹は酷く驚いた表情で固まった。そのまま小さな悲鳴を上げて枝からずり落ちるものだから、平子は瞬歩で夏樹を抱き止めようと走る。

「夏樹っ!!」

 然程高くない枝からの落下にどうにか間に合うと、平子はそっと夏樹を地面に下ろす。華奢な体を抱きとめて、漸く見ているものが現実であることを実感する。

「夏樹か?ほんまに夏樹やな?」
「ひらこ、くん」

 張り付いた自分の汗も気にならないくらい、目の前の少女にすべてが釘付けになる。頬に手を当てて、此処にいるのだと実感が欲しくて、確かめるように輪郭をなぞる。

「よかった……」

 何処か怪我している様子もない。それどころか綺麗に着飾っていて。ただ、少し痩せたように見えた。聞かなくてはいけないことは山のようだったが、兎にも角にも無事であることは間違いなかった。抱きしめると夏樹の体温がより生を実感させる。

―生きとる。ちゃんと、生きとる

 自分の落ち着かない心臓の音と、少し細くなった夏樹の温度と、蒸し返す残暑の匂い。平子は安堵で力が抜けそうになる。

「めちゃくちゃ心配したんやぞ…何も言わんでおらんようなって」
「ごめ、んね」
「アホ、ほんまにアホや」

 振り絞るように出した声は情けなくて笑えるほどなのに、そんなことも気にならない程に平子は夏樹が目の前にいることに心底喜んだ。
 腕を離すと困惑した表情の夏樹がいた。どうしてと訴えて来る表情だった。現世と決別したような短い髪に胸が痛む。

「すまんかった」
「え…?」

 平子の胸にずっと支えていたのは自分と千代の関係を夏樹が知ってしまったことだった。徒に苦しめたくないと思って伏せていたのは建前で、彼女が本当に千代の仇である可能性を知りたくなかった。そんな自分の弱さが原因であることくらい分かっていた。
 無意識に助けを求めた夏樹の手を掴めなかった後悔は今も平子の中で燻り続けている。

「オレのせいで、行くしかない状況作ったやろ。しんどかったやろ」
「ち、違う!」
「夏樹は夏樹やのにな」

 自嘲気味に笑うと夏樹の表情が曇る。謝ったからと言って、どうにかなる問題ではないことくらい理解できている。
 こんな表情をさせたかったわけではないのに。平子は話題を変えようと夏樹の髪に手を伸ばす。

「どないしてん、これ」
「へ?」

 誰に切られてしまったのか、切らざるを得ない状況だったのか。どちらにせよ、長い髪を切るのは彼女の決断の現れのようで心苦しかった。
平子は肩の力を抜いて、夏樹の話を聞こうとした。自分は一緒に考えると言った、選択した道を信じると言った。ならば、彼女の話をきちんと、聞くべきだと思ったのだ。

「えっと、…破面の人が、してくれたの。自分で切ったらぼさぼさになっちゃって。あ、今日のは化粧だけじゃなくて、着付けも、えっと、別の子が」

 やや的外れな返答にふうんと返すと、夏樹はやや居心地悪そうに目線を逸らした。

「えらい別嬪さんなっとって誰か分からんかったわ。ってそうやなくて、ほんまは誰に切られてん言う…夏樹?」
「へ、変じゃ、ない…?」

 恥ずかしそうにおずおずと聞いてくる様子に、誰かに無理やり切られた訳ではなさそうだと安堵する。大人びているとは思っていたが、こういう年相応の表情を久し振りに見た気がした。

「…短いのもかわええわ」

 最初に出会った1年前と比べて、随分と綺麗になったように思えた。化粧1つ、髪型1つでここまで垢抜けるものかと、少女の成長に正直な感想を告げた瞬間夏樹の体は面白いくらいに固まる。
 熱の籠った潤んだ視線が絡んだ瞬間、あぁそうか、と少女の心情を悟る。薄っすらと感じていたものが明確な意志として縁取り始める。場違いな気すらする少女の純な瞳に平子は拍子抜けしたようで、緊張が解れてしまった。

「似合うとる、ほんまに」

 ニシシと笑えば夏樹は拗ねたようにそっぽ向いてしまった。臍を曲げた子供みたいだった。

「なぁ、大事な話ある、言うたやろ」

 びくりと怯えたような表情をする夏樹の両手をゆるく取る。

「夏樹に聞く準備ができとるんやったら話す。今は…やめとこか。大まかな話はもう知っとるんやろ」

 確信めいた声で言うと、夏樹は控えめ頷いた。

「なんで、向こう行くって決めたん」

 平子は夏樹の両手を握る手を少し強める。責めるでもなく、言い訳を求めるでもなく、夏樹が何を考えているのか言えるように。

「……オレ、エスパーちゃうからな。夏樹が何考えて、何を選んで、そう決めたんかなんて分からへん。せやけど、分からへんまんま藍染とこにやるほど付き合い浅いと思うてへんで」

 平子はひとつ大きく息を吸う。

「何するつもりなんや」
「…言いたく、ない」
「…………ほな、藍染のする事に賛同したから行ったんか」
「ちがっ」

分かりきった事を聞いて否定させるものの、彼女が本当に何を願ったのかは分からない。

―オレは聖人君子やないから、ごめんな

「夏樹、帰って来ィ。千代やなくて、お前に言うとるんや。夏樹ンこと大事やから言うとるねん」
「………っ」

 こればかりは、夏樹の信じたものを肯定してやれなかった。夏樹は今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げている。その頑なな拒絶の色を示す表情に、平子は苛立ちを覚える。

「私は、平子くんの一番大切な人の、仇なんだよ?わかってる?」
「今そんな話してへんし、おまえが殺したんと違うやろ」
「違うくないよ」

 震える声でどうにか紡がれる言葉に、平子は思わず彼女を握る手に力が入る。
 夏樹が生きるために崩玉となった千代の魂魄を消費している。そのことを指しているのだろうが、それは夏樹ではなく千代が望んでしていることだ。
 夏樹を守りたいと願うのは、千代が守ると言ったからなのか、自分が大切にしたいと思ったからなのか、今となってはその差も漠然としている。そして、言いたくないと言った彼女の選択に平子は何か嫌な予感がした。

「夏樹、この戦い、死んでもかまへんって思ったりしてへんやろな」
「!!」
「藍染を止められるなら、死んだってええって」
「そんなの、死にたくないに決まってる」
「ふぅん、オレに嘘吐いてバレんと思うとんのか」

 彼女の死にたくないという希望から、嘘を見つけた時特有の嫌なむず痒さを覚える。本心のようで、本心でない。

「オレがオマエを鍛えたんは、死なせるためとちゃうぞ」

 夏樹は平子の怒気を孕んだ声に視線を下げた。手を小さく握り返すとおずおずと目を合わせると数度瞬きをする。

「平子くん」

 怯えを含んだ声で、何度か口を開けて閉じてを繰り返す。平子は夏樹の声が続くのを静かに待った。

「わたし、したい事があるの。だから、平子くんのところに戻るまで、死なないよ。ほんとに、死にたくなんかないよ」

 表情が、少しずつ強い決意と覚悟を示し始める。ボタンを掛け違えたかのような違和感、嘘ではないのに本当でもないような言葉に平子は眉根を寄せた。

「だから、ありがと…平子くん」
「夏樹…?」

 その瞬間、冷や汗がつ、とこめかみを伝った。彼女は多くを決して語ろうとしない。決定的に、何かを違えたことに気付く。

「ごめんね、心配かけて」
「っ、あかん」
「私、お父さんも大事なの。血が繋がってなかったとしても、愛情なんてなかったとしても、全部を嘘にしたくないの。だから、お父さんを止めたいの。ギンも要も、酷いことしてほしくない」
「あかん…!!」

 平子の呼びかけも虚しく、夏樹は手を解くと一歩離れた。嘘か本音かも分からぬ穏やかな口調で話す夏樹とは対照的に、手に嫌な汗をかきながら平子は夏樹と対峙する。

「私、自分で選んだんだよ。臆病だからさ、誰にも刀を向けたくなかった。怖かったの」

 夏樹の意思の籠った脈絡のない会話に平子は焦りばかりを募らせる。分かっていた、彼女が臆病なことも、誰も斬れないことも。幾ら力があっても平凡な人間の少女が背負える荷ではなかった。
 その癖して、重荷を放棄できないお人好し。

「後悔してない。大好きなもののためなら、惜しくないって思える。守りたいって思うの」
「夏樹!!行くな!」

 まるで自分に言い聞かせるように宣言すると、へらりと笑ってこちらを向く。すべてを悟り、赦し、護ると決めた表情はやはり今にも泣き出しそうで。

―やめてくれ、そんな、

 平子が思わず夏樹の手を掴もうとした瞬間、鋭い殺気に平子は身構える。とん、と夏樹の前に降り立ったのは銀髪の狐顔の男。

「遅いよ、ギン」
「堪忍。にしても、なんで湧いてくるんかなァ。しつこいわ」
「市丸…!」

 今も昔も変わらずへらへらと嫌味を含んだ笑みのままのギンを思い切り睨みつける。一触即発の状況で夏樹は仲裁するようにギンの手を取った。

「ギン、帰ろう?あんまり遅いと要に怒られちゃう」

 見計らったかのように空間が裂けて、中から破面が顔を出す。夏樹は迷うことなくその中に足を踏み入れた。夏樹がギン達を庇うように立つせいで下手に鬼道も撃てやしない。彼女自身そのことを理解して立っている様子だった。

「姫さんおかえり、楽しめたか?」
「うん」

 親しげに破面と話す夏樹を見て、平子は止めるしかないと斬魄刀に手を掛ける。

「行かす訳ないやろ!!」
「縛道の一、塞」

 夏樹からの縛道を避けると、距離を詰める。夏樹が両腕のバングルを外すのが目に入ったと思った瞬間、凄まじい霊圧が巻き起こす風が平子を襲う。隊長格では納まらないほどの異常な霊圧に平子は一瞬足止めを食らう。

「今まで、ありがとう」

 口が閉まる間際に見える夏樹の別離を覚悟し切った笑顔。平子が呼んだ彼女の名前は突風にかき消され、異界への門が閉じることで終息した。
 予想以上の夏樹の成長速度に平子は浦原の言葉が蘇る。

『いくら彼女が特別だとは言え、ただの人間であることに変わりはありません。無茶をすれば体が保たないのは自然の理でしょう。相模サンの力、引き出しすぎないようにしてくださいっス』

「くそっ…!!」

 平子は木に拳を思い切り殴りつけると、無念と後悔のあまり歯軋りする。

「シンジ!」
「…すまん、止めれんかったわ」
「死神がこっちに向かってる、急いで離れるぞ!」

 羅武は意気消沈する平子の背を叩くと、瞬歩でその場を離れる。神社の雑踏を抜け、公園に出ると仲間は全員集まっていた。

「さっきの霊圧、夏樹やな?」
「せや。あのアホ、自分の意思で戻りよったわ」

 抑揚のない声で答える平子をひよ里は思い切り殴りつけた。受け身すら取らなかった平子は地面に倒れこむ。

「なんで斬ってでも止めんかってん!!!」
「やめろ!ひよ里!!」
「せやな、斬ってでも止めればよかったわ」

 後悔と懺悔に満ちた瞳が一瞬交わって、ひよ里はそれ以上何も言えなくなる。平子はそのまま無言で、一人公園を去った。その背を追うことは誰もできなかった。