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―あともう少し、もう少しで最低限の準備が整う。お父さんは4ヶ月後って言ってたけど、崩玉はもう半分は起きてきてる。時間が、ない
夏樹は汗を拭うと斬魄刀に付着した血を振り飛ばす。あの秋祭りの日以来、夏樹はノイトラやグリムジョーといった戦闘狂のところを訪れていた。彼らは手加減なしに襲いかかってくる分、修行については効率が良かった。
虚圏に来た時よりも力も技術も随分と向上したおかげで、彼らと多少は斬り合えるようになっていた。もっとも、夏樹に必要なのは膨大な霊圧であって殺すための技術ではない。そうだとしても、この方法が一番手っ取り早かったのだ。
「アァ?なんだよ、もう終わりか?」
「ねえ、誰か来た。ノイトラくん、聞いてない?」
「は?どうでもいいだろ。やっと面白くなってきたのに急に止めるんじゃねえ!」
ここ数日はスタークが止めに入るまで戦闘を繰り返して、ボロボロになった夏樹を回収するのが常だったが、今日は違和感を感じて早めに切り上げることにした。
「ごめん、また明日ね!」
「あ!コラ!!」
―何?誰が来てるの?
微かに感じる虚ではない霊圧のする方向へ夏樹は急ぐ。
―まさか、この霊圧っ…!
夏樹はウルキオラの宮の一室の窓から飛び込む。柔らかい橙色の長い髪が視界に入り、夏樹は声を張り上げる。
「井上さんっ!!」
「えっ、せ、先輩!?」
織姫は大きな瞳をさらに開けて、突如窓から飛び込んで来た夏樹を見やる。
「どうしてここに…!」
「夏樹様、おさがりください。その女は藍染様から管理するよう承った物です」
部屋に入ってきたウルキオラは淡々と述べる。
「ウルキオラくん…!どういうこと?なんで井上さんが虚圏にいるの」
「藍染様の命です」
「直ぐに現世に帰して」
「承服致しかねます」
夏樹は織姫を守るように立つと、ウルキオラに向かって斬魄刀を引き抜く。その行動にウルキオラは微塵も表情を変えなかった。
「貴女の力では俺に勝てないことくらい、ご理解なさってる筈だ。例え霊圧が誰よりも莫大だとしても、殺意も覚悟もない刃は俺には届かない」
「井上さんに、酷いことしたら許さない」
「…ここから女を出されると俺は貴女を斬らなくてはならない」
ウルキオラはごゆっくり、と一礼してから部屋を出て行った。夏樹は扉が閉められてから漸く刀を鞘に戻す。
「どこも怪我してない!?」
「えと、はい。大丈夫です!先輩こそ怪我っ…!」
「ん?あぁこれちょっと戦ってただけだし大丈夫だよ。毎日こんなだし」
「毎日!?」
「強くなりたくて武者修行中だからねぇ」
それでも、と織姫は夏樹が怪我した腕や脚に治療を施していく。
「どうしてこっちに来ちゃったの」
「えっと、その…」
織姫は気まずそうに視線を逸らした。
「まぁお父さんのせいだよね、こっちになんて来たい筈ないもん。…きっと一護が助けに来るよ」
「それはダメっ!」
「井上さん、ごめんね。助けられなくて」
弱い破面を脅しさえすれば現世への道は開けられるかもしれない。けれども、夏樹にはそれよりも父の突然の行動に嫌な胸騒ぎがしていた。
―まるで、一護を誘き出す為の撒き餌みたいな
「井上さんが来たってことは、もう時間がないのかな」
「相模先輩…?」
「私、やらなきゃいけないことができたから、行くね。治療してくれてありがと。不安だろうけど少しの間だけ我慢してくれる?」
夏樹は織姫を抱きしめると、大丈夫だよと笑う。来た時と同じように窓から出て行くと、藍染のいる宮へまっすぐと飛んだ。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
藍染が冷酷な笑みで崩玉の前に立っていた。こんなにも温度のない声というものがあるのか、と驚きたくなる程の声色にも夏樹は怯む訳にはいかなかった。
「準備はできたのかい」
「もう、行くんでしょ?」
「そうだ。さあ、これが本当に最後のチャンスとなる訳だが」
「邪魔しないよね」
「あぁ。君が死なない限りね」
どういう意味だと首を傾げるがそれよりも本命に集中すべきだと崩玉を見下ろした。気味の悪さは相変わらずで、夏樹は身の毛のよだつ感覚を必死に抑える。
夏樹は瞠目しながら斬魄刀との会話を思い返す。
『夏樹の中にあるんは出来損ないとは言え崩玉に変わりはない。崩玉に干渉できるもんがあるとしたら、崩玉くらいや。これを壊せるかは夏樹がどれだけ崩玉の力を引き出せるかに掛かっとる』
斬魄刀をゆっくり引き抜いて、小さな小さな玉に全神経を集中させる。これが成功しても失敗しても、自分は死ぬことになるかもしれない。そう思うと本当は恐ろしくて仕方がなかった。
―自分が死ぬよりも、世界がなくなるよりも、お父さんが大切な人たちを傷付ける方がよっぽど怖い。どの道死神化した時点で私の寿命は縮まってた。覚醒させてる今なら分かる、こんなの人間が耐えれる代物じゃない
ーどうせ、どうせ早く死んじゃうなら、守りたいものを守りたい
ゆっくりと呼吸を続けることで、緊張や恐怖で騒いでいた心臓も徐々に静まりを見せる。
『斬魄刀は解号や真名によっても機能や形状を変える。よう覚えとけ、崩玉と殺るんやったら』
夏樹はゆっくりと目を開けると、崩玉を見据えた。
「豊穣よ恵み繋げ、翠雨…!」
夏樹は到底知る由もなかった。昔、斬魄刀の持ち主が健在だった頃、尸魂界で最も美しいと言われている斬魄刀がこの翠雨だったことを。正しい解号で解き放たれた力は、今まで以上の眩さわ放ちながら周囲を魅せる。
夏樹は静かに、迷うことなく、斬魄刀を崩玉に刺した。音もなく斬魄刀は呑み込まれ、漏れ溢れる霊圧で嵐のように辺りが荒れ狂う。時折壁がぴしりと音を立てた。
= = = = =
「思っていたよりも、随分静かだな」
「えらい霊圧ですやん」
「藍染様、万が一の場合は」
「問題ない」
藍染はどこか楽しそうに口元を歪めて東仙の問いに答えた。霊圧で時折小石が飛んで来るのも気にせず、藍染はゆったりと椅子に座って娘の行いを眺めていた。
半分ほど刀身が刺さった状態から、夏樹は微動だにしなくなった。霊圧は過剰に放出され、並大抵の死神であれば気絶どころか絶命していてもおかしくない程だった。
それから数時間経った頃、藍染はゆっくりと口を開く。潮時だ、と。
ちらりとギンと東仙に視線を送る。その視線はいつもより愉快そうな感情に染まっている。
「君たちはこの子が帰ってくると思うかい?」
「さあ」
「…難しいかと」
「帰って来させる術があるのに、それを無かったことにするのは契約違反に当たると言うんだろうね、彼女なら」
藍染はゆったりと席を立つと、暴風を物ともせず夏樹の正面に向かった。夏樹の生気のない瞳は崩玉を見つめたまま微動だにしない。
生と死の淵を彷徨うような状態の娘を藍染は感情のない表情で眺める。そっと崩玉に手を伸ばすと崩玉から出た触手が藍染と接続した。
接続と同時にバチバチと火花が飛び散り、乱流した霊圧が周囲の壁を壊し始めた。バチン!と一際大きな弾ける音と共に一瞬閃光に包まれギンは目を覆う。
その刹那、風が止み金属が床に転がる音がした。斬魄刀が夏樹の手から離れ、体がぐらりと傾くのを視認した瞬間、ギンは瞬歩で夏樹の身体を抱き止める。
「夏樹、君の試みは失敗に終わった訳だ。だが、悪くはなかった。可能性が無かった訳ではないが、君は賭けに負けたんだ。まぁ終わった話をするのはやめにしようか」
夏樹は死体と見紛うほどに生気を失った顔色で目を閉じたまま、意識がない様子だった。そんな娘に藍染は穏やかな微笑みを向ける。
「時期に目を醒ますさ、精神が生きているとは限らないだろうが」
藍染はそれだけ言い残すとその場を去って行った。