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 ギンは夏樹を抱き上げると彼女の自室へ運ぶ。ベッドで足をぶらつかせて夏樹の帰りを待っていたリリネットは、意識のない夏樹を見て大慌てで駆け寄った。

「夏樹っ!!」
「ちょっと気ぃ失っとるだけや」
「本当に…?」
「多分やけど」

 依然顔色は最悪で、呼吸も辛うじて視認できるレベルの浅さだった。そっとベッドにおろすと、ギンは眉間の皺を深くした。

―ほんま、アホな子や

 早よ起きな行ってまうで、と小さな声でギンは夏樹に伝えるとギンは部屋を出て行った。リリネットは夏樹の手を小さな両手で握り締める。

「どうしたんだよ…何が、何があったのさ…!」
「崩玉を壊そうとしたんだよ」
「スターク!」

 コツコツと靴音がしてリリネットは勢いよく振り返る。スタークはリリネットの横に椅子を置いて腰掛けた。

「意識が戻っても、精神までは元に戻らねえかもしれないって藍染サマは言ってた。崩玉と精神を繋いで破壊を試みたらしい」
「なんでそんなこと…!」
「さぁ、姫さんそんなこと一言も言わなかったからなぁ」

 スタークはそう言いながら、夏樹が1人空を見上げる姿を思い出していた。空ではなく何か別のものを見ているようで、その背中は人を寄せ付けない空気を醸し出していた。その背中を見て初めて、スタークは夏樹に興味を持ったのだった。
 独りになりたくなくて、自分を半分に分けた。相棒と共に着いて行くと決めたのは、新しい世界を創ると言った圧倒的な力を持つ男。そんな男が気まぐれのように連れてきたのは一捻りで死んでしまいそうな普通の人間の女だった。彼と似ても似つかない少女は、人間を定型化したような、非力で平凡な雰囲気をしていた。
 何故自分が態々こんな人間の娘を、と内心訝しんでいた。少女の世話役になり色々と話すがやはり最初の印象と変わらず、人の良さそうな笑みを浮かべてへらりと笑っていた。
 態々人間が虚圏に来るなど理由も思い付かず、内心不審がっていた。けれど、彼女の背負うものが誰にも賛同されない道だと悟った時、彼女自身にも興味が湧いた。

「人間も死神もどうでもいいけど、夏樹のことは好きだったんだよ」

 リリネットはきつく夏樹の手を握りしめてベッドに額を付ける。

「スタークも、そうでしょ?」

 小さな自分の分身は、自分の口からは到底出ないような素直な感情をぶつけてくる。潤んだ瞳は今にも涙が溢れそうで、そんな状況でも夏樹の目は重く閉じられたままだった。

「…………」

 夏樹は自分の立場を理解した上で、毎日修行だ、特訓だと精を出していた。
 大事なものがいっぱいあって、ありすぎて、上手く動けない。そう言って笑う夏樹は、困った顔をしているくせにその荷を受け入れているように見えた。

「姫さんの背負うものが何か、背負うものがない俺らには何も分からねえ」
「…スターク?」
「荷があれば孤独じゃなくなるのかと思った時期もあったんだが、そういうもんでもないらしいな」

眠る夏樹の顔に掛かった前髪を優しく払う。

「俺たちは文字通り2人で1つだ。そうでもしねえと生きていけなかった。同じだと思ったんだ、姫さんも。孤独に耐えかねてこっちに来たんだと」

 スタークはぽんぽんとリリネットの頭をあやす様に叩く。

「藍染サマにゃ義理があるから付いていっただけだ。でも姫さんは、誰とも違う。俺はこの人の行く末を見てみてえ。この人がもがく先に何かがあるのなら、見届けたい」

 祈り誓うように、スタークは意識のない彼女の手を握った。リリネットも同じように手を重ねる。他人の幸せなんてものを願ったのは初めてで、どうすればいいのかも分からなかった。それは相棒も同じようで、眉間に皺を寄せて難しい顔をしていたのだった。

 夏樹が意識を取り戻したのはそれから丸1日経った頃だった。リリネットとスタークは顔を見合わせて彼女の名を呼ぶが、反応がない。

「どうしちゃったの…?夏樹?夏樹っ!」
「心が目覚めるのに…もう少し時間が掛かるんだろ、きっと。姫さんは強い人だから、大丈夫だ」

 スタークは慰めるようにリリネットの頭に手を置く。大丈夫だと自分自身を励ますように。
 夏樹はぼんやりとした様子で声を何度かけても少し振り向くだけで、魂が抜けてしまったかのように反応はなかった。
 少女に何も出来ぬまま終わる不安を感じている中、虚圏の霊圧があちこちでさらに騒がしくなる感覚にスタークは顔を上げる。ウルキオラが拉致してきた人間を救いに来た死神代行一行が暴れている。霊圧の消失からアーロニーロを撃破したことが伝わる。それから、ゾマリやザエルアポロの霊圧も消えた。それでも命令は変わらず、手を出す必要もないと。

―あの人にとって、オレらはただの駒なんだから別に何処で減ろうと構わねえってことだろうなぁ。いや、それとも予定通りとでも言うべきか

「もう出発の時間だぞ」
「…夏樹はどうするの?」
「ボクが預かるわ」

 気配なく部屋に入ってきたギンに2人は警戒色を示す。

「…藍染サマの命令や」

 その一声に2人は渋々といった顔で夏樹の前から退く。

「おはようさん、夏樹。ほら、立って」

 ゆっくりと身体を起こして手を引けば夏樹は素直に立ち上がった。手を引かれるまま夏樹は鈍い足取りで振り返る事なく部屋を出て行った。

「市丸のやつッ!」
「わざわざ連れてくってことは何か考えがあるんだろ。ほら、リリネット。オレらもそろそろ行くぞ」

 バシッと背中を叩いてリリネットを黒腔の奥へと急かす。座標は事前に知らされていた。
 最後の決戦が始まるのに、あぁ面倒臭いなとスタークは溜息をついた。戦いの士気は高まるどころか下がっていく一方だ。

―できたらのんびり過ごすだけでいたかったけど。まぁ仕方ねえか

 久しぶりの黒腔の中を歩みながら、何人の仲間が死に、何人の敵が死ぬのかぼんやりと考える。きっと藍染が勝って終わるのだろう。その時自分と相棒は健在なのかということよりも、彼女の望みが叶えられないであろうことを思い、決戦の開幕をほんの少しだけ嘆いた。


 = = = = =


 平子はお気に入りのハッチング帽を指で回しながら、浦原からの連絡内容を頭の中で反芻する。空座町の外れの外れにあるアジトは空間転移の範囲には入っていない。勿論範囲指定をした浦原の手腕によるものだった。

―今日で、全部終わりや

 人間にとっては長すぎて、死神にとっても短いとは言い難い年月を現世で過ごした。いつか、この手で仇を取る日を何度も思い描き、苦汁を舐め続ける日々を送った。

「…喜助は言うてたな。“誤算は無かった。それが一番の誤算”。全てが予想通りに、最悪の展開になった」

―ハッピーエンドなんてない。この戦いが始まった時点でバッドエンドなんや。刺し違えたとしても、終わらせる。因縁の全部、全部を、や

「…ホンマ、世話ンなったもんやで、喜助には」

 それぞれ神妙な顔つきをした仲間にいつもの口調で声をかける。視線は誰も交わらない。

「…それから、藍染にものォ」

 仲間と言っても、この戦いにおいて人によって背負うものも違えば見据えるものも違う。ただ、この100年の因縁に蹴りを付けることだけは共通していて、最早それは自分たちを繋ぐ枷になっているような気がした。
 事の発端は自分が部下を野放しにしたことで、全責任は自分の所為だと言い切るほど傲慢でもないが、それでも自分が一番責任を負うべきだとは考えていた。そんなことを言えば間違いなく、自惚れるなと叱咤されることも解りきっていた平子は口にしたことはなかったが、いつだって頭の片隅にこの考えが居座っていた。

―夏樹は、無事やろうか

 井上織姫が拐われて、罠だと分かっていながら愚直にも救出に向かった青い少年の背中を思い出す。目が眩む程の純真さに平子は少しばかり羨望の情を持った。

―夏樹が自分から行ったんやなくて、例え拉致されたとしても、オレは動かんかったやろうな

「行くで」

 コツコツと革靴が地面を叩く音がだけが耳に届く。守りたかったもの、守るはずだったもの、雁字搦めになった自分の手は彼女を掴むことなど到底できそうにない。幾つもの心を取りこぼし、掬い損ね、歩んできたのだ。

「ってこれ、どっから入んねん」

 いざ目的地に着いて、さぁ決戦だと意気込んでいたはいいものの、その決戦への入り口が見当たらない。

「アァ!?オマエ喜助から聞いてへんのか!?」
「行けば分かる言われとってんから知るわけあれへんやろ!!!」
「役立たずか、ハゲ!!」

 結界があるのは分かるが、何処が境目なのかは全くわからない。緊張感のないいつもの怒鳴り合いが始まった。ぐるぐると何度も周囲を回る羽目になり、雀部が姿を漸く姿を見せる事で事態は集結した。

「ったく、出てくんのがおっそいねん、雀部サン」
「…………」
「ま、ええわ。行くで」

 平子は何も言わぬ雀部にそれ以上何かを言及する訳でもなく、結界の切れ間から偽物の空座町へと足を踏み入れた。
 ピリピリとした戦場の空気を久しぶりだと思うと同時に、こんな固い空気はかなわんわ、と肩の力を抜く。

「待てや」

 上をちらりと見上げると、藍染と似たような白い服装の夏樹が見える。その場にいる全員がこちらに注目しているにも関わらず、彼女1人が微動だにせず虚空を見つめていた。遠巻きでは表情までは見えないものの、意識自体がないようにも見えた。

「久し振りやなァ、藍染」

 不敵な笑みを浮かべて挑発するような表情を藍染に向ける。一度夏樹のことを頭から払拭すると、挨拶をしたい奴はいるかと仲間に問う。口々に返答をする中、自身の戦いのために総隊長の元へと歩み寄った。

―千代、全部終わらせてくるわ

 仮面の軍勢の因縁を清算をする戦いが、火蓋を切ろうとしていた。