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 祭りの夜に現世で見た金髪の男が現れてから、ほんの少しだけ戦況が変わった。女物の着物を羽織った派手な死神が相手だったのが、現世の虚化した死神擬きが相手になった。どちらもさして変わらない、取るに足らない相手だった。はず、だった。
 相棒が、半身が、自分が、消えた―――たったの一撃で。的確に突かれた自身の核を砕かれる感覚。
 至極冷静な顔つきで、相手が自身の能力をぺらぺらと喋る。一切の油断を許さない戦場で、余裕のなさを隠すように状況を把握しようと頭を回す。

―一人だ

 足元から自分の全てが崩れ落ち、また自分はあの孤独の渦中に沈むのかと理解した瞬間、全身が恐怖で震えた。
 交わる刃はどうにも疎かで、一人だという感覚が剣を振るうたびに自分の心を只管に蝕んだ。斬られる、刺される、血が流れる。なぜ、なぜ、自分はまた一人になってしまったのだろうか。

―弱くなりたい

 それはいつか願った叶わぬ祈り。信じもしない神に乞うた希望。

―それが無理ならせめて、俺と同じくらい強い仲間を―――

 男の刀が自分を深く斬り付ける。間違いなく、致命傷だった。
 相棒がいたら、こんなところで敗けてどうすんのさ!と叱りつけてくれたに違いない。けれどその力も、もうこの世界のどこにも存在しない。独りだった。

「悪ィな、藍染サマ。義理、返せねえみたいだ」

 もう殆ど身体が動かない。意識がゆっくりと遠退いていく。走馬灯が駆ける中、祭りの夜のことも思い出す。
―姫さん、こんなとこで眠ってていいのかい?大切だったんだろう?みんな、藍染サマに殺されちまうぞ

 振り向きもしない藍染と夏樹を霞む視界から睨みつける。

―なぁ、その孤独の先に希望があるって信じさせてくれよ

 スタークは最期の気力を振り絞り、思い切り腕を振った。青白い刀は夏樹の方へ真っ直ぐに飛んで行く。

―どこまででも行けるって、よ

 爆発音がして、2人の周囲が煙に包まれる。きっとあの煙が晴れるのを自分は見ることはないとスタークは目を瞑る。
 夏樹の真っ直ぐな意志を纏った霊圧が一瞬、起き上がる感覚が伝わる。

―十分だ。姫さん

 彼女ならきっとどこまでも行ける、とスタークは静かに暗転していく思考を手放した。


= = = = =

 頭を鈍器で殴られたような衝撃に目が醒める。意識は水面を浮上したり沈んだりを繰り返すように点滅する。

―起き、なきゃ…

 何かが、誰かが、消えていく感覚に夏樹は必死に手を伸ばす。

―起き、ろ

 早くしないと取り返しのつかない事になる、そんな恐怖が自身を駆り立てる。

―起きろ起きろ起きろ!!!!

 パチンと膜が弾ける感覚と共に視界は暗闇から青空へと変わる。がくんと体が急に落下しかけて誰かに掴まれた腕に全体重がかかる。

「…っ、はぁ、はぁ」
「思っていたより随分早い目覚めだな」

 声の方を見ると感情の篭っていない藍染と目が合う。足元がぶらりと空中に浮いている。藍染に腕を離されぬうちに足場をどうにか作る。立つのもままならず、覚束ない手つきで足場を固めるとへたへたと座り込んだ。
 目覚めの刺激が来た方角に意識を向けると、スタークの霊圧が消える瞬間を捉える。
 彼が死んだのだと悟ると夏樹はきつく目を瞑った。ゆっくりと呼吸を整えて、周囲を見渡す。平子とギンが刃を交えている。怪我をして弱まっている霊圧がいくつもある。

―地獄に、いるみたいだ

 ぐらぐらとふらつく身体は体調が最悪であることを告げている。頭は血が沸いたようにガンガンと痛むし、吐き気もすれば、指先は戦場の霊圧にあてられて震えていた。
 声を出すのもままならないくらいに力が入らない。自分の名が呼ばれた気がしたが、ギンと平子のどちらだったのかもよく区別が付いていなかった。

―う…気持ち、悪い

「もういいよ、ギン。終わりにしよう」

 その一言を皮切りに、ハリベルの霊圧が消えた。未だ霞む視界の中で、辛うじて捉えられたのは藍染が彼女を切ったと言うこと。

「なん、で…」

 藍染は至極つまらなさそうに、破面の不出来を責めた。夏樹はハリベルの元へ行こうとふらつく身体を無理やり起こす。
 彼女の落ちた地点へ夏樹は落下しながらも駆け降りた。藍染は気に止める様子もない。

「ハリベルさんっ…!」

 瓦礫の中に崩れ落ちた血塗れのハリベルに、視界の紅に、目眩がした。1番出血の酷い箇所をなんとか回道で止血する。霊圧は未だ不安定だとしても、目が覚めた時と比較してマシにはなったいた。

「夏樹、か…私はいい」
「何言ってるんですか!まだ全然っ…!」
「アレは、オマエの仲間、だろ…う?」

 ハリベルの視線の先に何が居るのかと振り返る。2つに分かれる赤色が目に入り、夏樹は身体の全ての感覚が一瞬止まる。

「行け」
「っ、ひよ里ちゃん!!!」

 背中を弱々しく押す手で我に返り促されるまま、夏樹は瞬歩でひよ里の元へと飛んだ。飛んだ先には体が上下に分かれてしまったひよ里が息絶え絶えに、一瞬だけ視線をこちらに向ける。
 上半身だけが平子の腕の中で、辛うじて息をしている。即死でなかったのが不思議なほどだった。

「…ハッチ、片手のとこスマンけどひよ里ンこと頼むわ。どうにかもたしてくれ」

 脳裏によぎるのは血塗れの母の姿。ゆっくりと閉じられた瞳に、あの雨の日がフラッシュバックする。

「や、だ…やだ、やだ……!」

 怯え狼狽える夏樹の肩にハッチは手を静かに置く。

「今から時間停止をひよ里サンに、掛けマス。絶対に死なせませんから、落ち着いテ」
「わ、わた、し!」

 ひとつ深呼吸をして霊力の譲渡なら自分ができると言おうとして自分の真っ白な服が目に入る。

―わたし、そうだ、裏切ったって、

 この戦いの場で不釣り合いなほどの白に呼吸すら上手くできず、体の震えは止まらない。

「…一護が戻るまで、頼むで。それから、夏樹、あとは任しとき」

 平子は一度も夏樹と視線を交わさない。夏樹の頭に手を置くと、ぽんぽんと軽く叩く。それは平子の精一杯の返事だった。いつもよりも乱暴な手つきの平子の手に夏樹はハッとする。誰も余裕なんてないのだと気づいて、震える手を押し殺す。

―私ができること、やらなきゃ

 夏樹はバチン!と思い切り頬を挟んみ叩く。平子に背を向けると、ハッチと目を合わせる。静かに斬魄刀を始解してひよ里に霊力の供給を始めた。中途半端に応急処置しかできない自分の回道ではひよ里の治療までは出来なかった。
 霊力供給のパスが安定すると、夏樹は立ち上がって対峙する二人を見た。

「ハッチさん。一護が来たら、どうなりますか」
「わかりまセン、デスガ…四番隊が見当たらないようなのデひよ里サンを治療できる者が来るデショウ。それから彼は…藍染を倒すための切り札デス」
「時間を、稼がなきゃってことですよね」

 ハッチは夏樹の背中を見てぞくりと背筋が泡立つ感覚に生唾を飲み込んだ。自分たちと修行していた頃は幼い年相応な少女だと思っていた。彼女は今この血生臭い戦場の状況を理解し、対応しようとしているのだと。少女の成長速度を末恐ろしく思った。

「ハッチさん、ちょっと行ってきます」
「アッ」
 
 ハッチが制止する間も無く、夏樹は上空へと消えた。

「……やっと抜きよったか。随分のんびりさんやなァ」
「君の相手の前に、先客がいるようだ」
「平子くん、ごめんっ!」

 平子の目の前に急に現れた夏樹は思い切り刀を振り下ろすと、地面に向かって平子を叩きつけた。平子は刀で受け止めるが、藍染との戦闘圏内から弾き出された。

「夏樹っ!」
「おっと、邪魔させんよ」
「市丸!」

 平子が飛び出ようとした瞬間、ギンが平子に斬りかかる。平子は大きく舌打ちをして、目の前のへらりと笑う狐に刃を向けた。

「なんの用かな」
「私、やっぱりお父さんのすること認められない。だから、親子喧嘩しにきた」

 夏樹は生真面目な顔で、藍染と目を逸らすことなく対峙する。藍染も穏やかな笑みでそんな娘の奇行を見つめる。

「なるほど」

―お父さんは、多分翠雨の能力を全て解析しきってる。破面とやっと渡り合えるようになった程度の私じゃ、勝ち目は万に一にもない

「随分生意気な口を叩くようになったものだ」

 夏樹は斬魄刀を引き抜くと藍染に正面から斬り掛かった。

「反抗期って知らない、のっ!?」

 その科白に藍染はどこか愉快そうに口元を歪めた。特に反撃するわけでもなく、夏樹の斬撃を受け続ける。鬼道や斬撃の音と被るように夏樹はぼそぼそと口を動かしながら、自分ができる最高難易度の鬼道の詠唱を続ける。

「縛道の七十九!九曜縛り!!」
「ほう、随分と高難易度な鬼道にも手を出したものだ」
「縛道の六十三、鎖状鎖縛っ!……けほっ」

 二重の縛道で藍染の動きを抑え込むと、夏樹は斬魄刀の刃に指を当てる。
 霊力消費の激しい鬼道を展開させている上にひよ里には今も霊力の供給を続けている。崩玉の破壊を試みた時から十分な休息も取れていない夏樹の生命はとうの昔に限界を超えていた。

「豊穣よ恵み繋げ、翠雨!!!」

 白いまばゆい光とともに、夏樹は藍染の首筋に向かって刀を向ける。切っ先がほんの僅かに肉が食い込んだ感触、刃はそこで止まる。

「彼女の経験値を利用したとしても短期間で修行した割にはなかなかの向上具合じゃないか。及第点をあげよう」

 気がつくと縛道は全て解かれており、藍染は悠々とした表情で刀身を指で掴んで自分の体の奥へと刀を突き立てた。

「な、なに…!?」
「君は人をまともに斬った事がないだろう」

 異様に耳の中にまで響くぶちぶちと筋繊維が千切れる感触が刀から伝わる。藍染の肩からは夥しい血が吹き出て、夏樹の顔へ血飛沫を飛ばす。

「縛道の四、這縄」
「やめ、て…!お父さん、やだ、やだ…!!」

 離そうとした夏樹の手は斬魄刀に固定される。顔が青ざめていく夏樹に柔らかく微笑むと、夏樹に刀を通して霊力を送り込む。それも一度に許容できない量を。

「縛道の精度が悪いね、ムラがあるから均一的に拘束ができない。もっと細部まで霊圧を丁寧に込めなさい」

 夏樹の斬魄刀を引き抜くと、膨大な霊力に意識が混濁している夏樹を左肩から腹にかけて切り裂いた。

「君ならばこの程度、死にはしないだろう。親に刃向かった罰だ」

 痛みと暴走する霊圧で意識が霞むまま、夏樹は落下する。

「あんたには守れん、言うたやろ」

 平子が夏樹を受け止めようとするよりも一歩早く、ギンは夏樹の体を抱き止めると誰とも戦闘にならない距離を取る。

「さて、仕切り直しといこうか。平子真子」

 血濡れた藍染は傷の痛みなど幻覚だとでも言うように、何事もなく平子の方へ振り返った。
 夏樹が稼げたのはほんの10分程度の時間。それは彼女が父親を止めるために命を燃やした10分間。平子はひとつ深呼吸すると、藍染の前に立った。

「ぎ、ん…」
「なんや、意識失っといた方が楽やろ」
「お父さん、止めて…もうだれも、傷つけないで。やだ、やだよぉ…」

 悔しげに唇を噛んで、痛みに耐えながらも意識を失うこともできず夏樹は空を睨んだ。

「少し、寝とき…もう少しで、終わるから」

 ギンは夏樹を抱きかかえたまま崩れたビルに座ると、夏樹の目に手を置いて涙を拭った。

「………要?」

 夏樹はギンの手を押し退けると、無理矢理体を起こす。東仙の霊圧が殆ど虚と同じものになっていた。ざわざわと身体の奥が反応する。
 東仙の霊圧は最早死神の東仙としての面影を残していないが、微かに名残は感じられた。夏樹は嫌な予感がして其方に向かおうとする。それを阻止するようにギンは夏樹の手を引いて自分の膝の上に座らせた。

「そんな傷で動けへんやろ」
「やだ、行かなきゃ…お願い、ギン」
「…力使わへんって約束しぃや」
「うん」

 ギンと夏樹は東仙たちの一歩手前にまで近付く。2人の死神はこちらにはまだ気付いていない。
 伏せた東仙を囲って穏やかに話をしている。彼の霊圧は最早消え逝く寸前で、治療を施しても助からないほどに弱っていた。

「…檜佐木、顔をよく見せてくれ…虚化の影響で今はまだ眼が見えるのだ…」

 夏樹は痛みを押さえてフラつく足取りで東仙に近付いた。彼の命の灯火はきっともう消えてしまう。足がもつれて上手く進まない。それでも夏樹は歩みを止めようとはしなかった。

―要、要…!お別れなんて、嫌だよ

―まだ、まだ間に合うかもしれない

「今のうちにお前の顔を見ておきたい…」

 夏樹があと数歩で東仙に届く、その瞬間に背筋から刺すような感覚が走る。

「ダメッッ!!」

 夏樹が叫んだのと同時に、東仙の身体は血飛沫をあげて消え去った。悲痛と憎悪の混じった叫びが藍染に飛ぶ。

「ぁ………うそ、だ…かなめ、」

 夏樹は手をつきながら蒼白な顔面のまま血溜まりへと進む。残されたのは東仙の右腕1本のみ。ぬるりと指に血が絡んで、抱き上げた腕は妙に重たい。

「どうして…?」

 乾いた掠れ声で藍染を見上げる。一瞬視線が交わって、けれど藍染は何かを述べようとはしなかった。その瞬間に空間が割れてまるで太陽を写したかのようなオレンジ色が視界に飛び込む。
 けれど、夏樹の頭はそれを上手く処理しきれない。もう一度視線を落とすが、東仙だったものしか残っていない。いつも困ったように笑みを浮かべながら美味しい手料理を振る舞ってくれた彼はいない。彼だった腕だけが残されている。まだ温かいのに。

「どう、して……?」

 夏樹は震える声で無意味にもう一度呟く。瞳は絶望の色で濃く澱んでいた。力なく腕がだらりと下がり、浸かった指先が触れた血溜まりは既に冷たくなりつつあった。
 視界が急に暗くなる。ギンがそっと目を覆ったのだと気が付いたのは、彼にまた抱えられてその場を離れた時だった。夏樹は無気力に空を眺めているが焦点はどこにも合っていなかった。