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 崩玉を破壊するために霊力を殆ど使い切った夏樹は、本来であれば藍染に斬られた時点で死んでいた。今、夏樹の体は藍染に与えられた霊力によって辛うじて生を保っている状態だった。
 ギンは夏樹を抱えたまま、藍染と共に尸魂界へと赴く。霊子で構成される尸魂界に来たおかげか、周囲の霊子を取り込んで夏樹の呼吸はゆっくりと安定していく。

「ここ、どこ…?」
「空座町」

 夏樹は瞼を擦って首を捻る。ぼんやりとした表情のまま、少しずつ理性を取り戻しているようだった。ようやく少しだけ生気の戻った瞳で現状を確かめ始めた。
 見てきた景色は先ほどとさして変わらないものの、呼吸をするだけで楽になるあたり尸魂界であることは辛うじて分かった。それと同時に体の奥が酷く熱を持っていて、うまく体が動かない。

―崩玉が、熱い

「夏樹!?」
「……し、おり?おばあちゃん…」

 汐里と夏樹の祖母だけでない、たつきや他の一護のクラスメートまでが藍染の前にいた。たつきは膝を折って、今にも倒れ込んでしまいそうだ。

「なんで…」
「…黒崎一護は必ずここへ現れるだろう、新たな力を携えて。私はその力を更に完璧へと近づけたい。君達の死がその助けになるだろう」
「っ、だめ!」

 夏樹はギンを突き飛ばすと、藍染とたつきの間に割って入った。一気に覚醒したらしい精神は、絶望の色を宿しながらも力強く光っている。

「夏樹、反抗期はもういいだろう。いい加減、不愉快だ」
「不愉快で、結構!私、ここをどかない。絶対お父さんに何もさせない…!!もう、要にしたみたいなこと、しないで…!」

 立つのですらやっとの状態で、夏樹は藍染を睨みつけた。

「逃げて」
「何言って!」
「邪魔だから早く行ってつってんの!!!死にたいの!?文句なら後で聞くから!」
「っ、おばあちゃん、君!行くよ!!」

 汐里は浅野と祖母の手を引いてその場を去った。夏樹はホッと息をつくと藍染と対峙する。

「誰も、殺させない」
「どうやって?君にその術はもうないだろうに」

 夏樹も息絶え絶えに、絶望に染まった色を見栄だけで隠す。先に逃げた4人の霊圧は離れたと言っても距離は近い。たつきがすぐ後ろにいる現状で、大きな鬼道も使えないしそもそも鬼道を展開できるほどの霊圧がない。

―どうしたら、どうしたら…!

 必死に頭を回転させる最中、突如藍染の顔面に剛球が飛んだ。ドォンと派手な爆発音を立てる。

「お困りのようだねガ〜〜〜〜〜ル。そう言う時はヒーローを呼ぶものだ」

―な、何!?

「お待たせしました視聴者の皆さん。あなたのドン・観音寺!わたしのドン・観音寺!みんなのドン・観音寺が帰ってきました!!帰って!!きーまーしーたーよーーーーー!!!」

 あまりにも場違いな登場に全員がぽかんとした顔をする。そんな空気にも一切靡かず藍染は何者だと尋ねた。

―なんだ、これ…

 立っているのが限界に近く、思わず膝をついてしまう。倒れ込まぬよう斬魄刀で体をどうにか支える。

―今のうちに皆んなを逃がしたいけど、根本的な解決にならない。お父さんは一護にショックを与えるためにみんなを殺すって言った。だから、逃すんじゃなくてお父さんをどうにかする方法を考えないと、いけない

―っ、そんなのあるわけない…!

 ドン・観音寺がステッキを武器に藍染に向かおうとするのを止めようにも、体は腕を上げることすら難しい。間に合わないと目を瞑った瞬間、別の霊圧が無謀な特攻を止めた。

「……………ほう」
「間に合ったわ…藍染……ギン……!」

 夏樹は死神の登場に一瞬気が緩んだせいで、へたりとその場に倒れ込んだ。藍染の崩玉が稼働し始めたのをきっかけに、夏樹の崩玉も共鳴するように熱を持ち始めていた。

「あつ、い…」

 尸魂界で見かけた気がする女性の死神は、ドン・観音寺に逃げるように怒鳴りつける。

「ガール!君も!!」
「私はいいから!!早く行って!」

 夏樹は声を振り絞って叫ぶ。熱に浮かされ、身体はやはり思うままに動かない。霊力が枯渇しているにも関わらず放出される霊圧は異常で、思考も膜を張ったようにぼんやりと霞んでいく。
 ギンが女性をどこかに連れて遠くへ去ったのが見える。

「夏樹、君の崩玉も私の崩玉と共鳴しているだろう。君の鼓動が私にも伝わっている」

 藍染は確かめるように手を頬に当てた。藍染の放つ霊圧に、夏樹は心地好さそうに目を細める。じんわりと霊力が供給されていく。冷えきった霊圧の奥底にあるほんの僅かな暖かさに手を伸ばす。

「やはり、君は触れても消滅しないらしい」
「おと、うさん……?」

 触れ合うのは霊力だけではない、もっと奥底の無意識、魂の鼓動。暗い暗い、光の届かない濃い暗闇の中にぽつりと立つ孤独感が夏樹を襲う。誰にも自分は理解されない、誰の手も取れない。孤独が理性を剥ぎ取って涙となって零れ落ちた。
夏樹はゆっくりと、伸ばしていた手で強く藍染を抱きしめた。この人が好きだと思った。大切な家族であることだけは確かで、ずっとこうしたかったのだと感じる。

「さみしい、ね」
「まさか」
「いかないで」
「僕が行くのを止められた事なんて、今までなかったろう?」

 縋る様に藍染の袖を掴む夏樹の手を外すと、藍染は夏樹をそのまま置いて静かに歩き始めた。黒崎一護を覚醒させるために、彼の友人を殺そうと。
 夏樹は待って、と言おうとしたがそれすらも叶わないくらいに熱に翻弄されていた。熱さがぼんやりと全ての思考を奪っていく。

―お父さん、おとうさん…私は、寂しいよ


 = = = = =


 汐里は夏樹の祖母の手を引いて街を掛ける。今日は偶々、祖母も失踪した夏樹のことで学校へと訪れていた。学校の帰り道、一緒に歩いているはずだったのに、目が覚めた時にはなぜか周りの人間全てが眠りこけていた。
 そんな異常事態に汐里はすぐさま浦原商店へと移動している最中、藍染と遭遇したのがつい10分前のことだった。

「これからどこに行くの!?」
「とりあえず学校に!あ、でも友達がいるから先にそっちと合流!!」

 浅野は少しペースを落として小島から連絡の来た場所へと向かう。祖母は年も年なだけに息がかなり上がっていた。

「何が、どういうことだって言うんだい…早く、戻らないと夏樹が…!」
「おばあちゃん、落ち着いて!」
「落ち着いてられる訳がないだろう!?私にはもうあの子しかいないんだ…!!あの化け物が香澄の選んだ男だ?夏樹の父親だ?信じられるか…!!」

 合流した路地裏に本庄を下ろすと、浅野は大きな声で祖母の肩を掴んだ。

「俺!迎えに行ってきます!ほら、若いしサクッと行って戻ってきますよ!!おばーちゃん、もう走るのもしんどいって感じじゃん。休んでてください」
「私も行く。私なら多分あいつに見つかりにくいから。おばあちゃん、夏樹連れて帰ってきたら大馬鹿野郎!ってひっぱたいてやろう?だから、待ってて」

 汐里がほらほらと座らせて、お茶のペットボトルを押し付ける。

「おばあちゃん、絶対、連れてくるから。もう絶対離さないからさ」

 その押しの強さに祖母は震える声で、頼んだよ、と告げた。
 汐里は空座町を走りながらさっきいた場所へと戻る。途中、二人を背負ったドン・観音寺と合流し、汐里は一人別行動を取ることにした。おそらく、虚避けを持っていればあの男にも勘付かれにくいだろうから大丈夫だと踏んで。

「夏樹!!」

 道の端で倒れこむ夏樹を見て汐里は駆け寄る。異常な圧を感じて近づくのもやっとの状態だった。それでも、汐里は夏樹に近づく足を止めなかった。

「大丈夫!?」
「し、おり…ごめ、だいじょぶだから。おばあちゃんは…?」
「みんなといる、とりあえず今は大丈夫」

 荒い呼吸のままゆっくりと夏樹は体を起こした。少し離れて欲しいと言われて、汐里は一歩下がる。彼女の霊圧は重く、汐里自身も意識が少し飛びかける。
白い服が赤を際立たせていて、汐里は怪我の酷さに顔を顰めた。

「ごめん、止められなくて」
「何がどうなってるの…?」
「今、お父さんが、空座町の人間を皆殺しにしようとしてる。止めたかったんだけど、全然うまく、いかなくて」
「だから、急に居なくなったの?」
「そうだけど、そうじゃない」
「夏樹、今度こそちゃんと話してよ。お願い。もう、除け者にしないで」

 その言葉に夏樹は気まずそうに、視線を逸らす。汐里は無理やり体勢を変えてでも夏樹と目を合わせる。何度か瞬いた後、諦めの色が夏樹に見えた。

「…現世にいたくなくて、逃げたの」
「『お姉ちゃん』が関係してる?」
「あー…もしかして、あの時いた?」
「ごめん、居た」
「お姉ちゃんは…平子くんの、奥さんだよ。お父さんに殺された人。ごめん、上手く説明できないや」

 夏樹はそっと刀を差し出した、これが彼女の魂だと。話の内容は分からないことだらけだが、夏樹が夏休みの頃から様子がおかしかった原因が少し見えた気がした。

「…あんた、やっぱ話すの下手ね」
「えへへ…」
「真子、奥さんなんて居たんだ」
「…うん。百年くらい前にお姉ちゃんは、お父さんに狙われて実験材料にされた…その実験で出来上がったものが私の中に今あるの。平子くんの…一番大切な人。私を生かすために、全部くれた人」

 夏樹は何処か遠くを見ながら、泣くのを堪えているように見えた。

「……ごめんね」

 夏樹は一度俯くと、汐里としっかり目線を合わせてそう続けた。目まぐるしく変わった夏樹の環境に、汐里は自分が入る余地のない状況だったのだと悟る。

「わたし……」

 振り絞る様な声だけれども、夏樹は自分に何かを伝えようとしている。けれど、その言葉の続きを夏樹が発する事はなかった。
 突如、夏樹が別の方向へ首を曲げる。

「ギン…?」

 突如、夏樹は急に立ち上がる。別の方角へ精神を研ぎ澄ませて、睨むように縋るようにそちらを見つめている。

「どうして、ギンまで、」

 顔からさらに血の気が引いて、夏樹はぐらついた身体を壁に預けた。

「夏樹、どうしたの!?」
「ギン、どうしよう、ギン…!」

 夏樹は宙を見つめたまま、ギン、と繰り返し名前を呼んでいた。
 あの嫌に威圧的な気配がどこか遠くへ去った感覚が伝わった。何も感じない程に透明なのに、どこか寂しい気配と共に、あの化け物の禍々しい霊圧は消えた。わ

「一護だ…行かなきゃ」
「あんたそんな傷で行く気!?」
「うん」

 不思議な気配を感じ取った夏樹は目の焦点が戻っていて、気丈にも笑って見せた。汐里は行かせまいと意識が遠のくのを無理に我慢して手を握った。親友はこんな目をする人だったろうか。
 生気がなく全てを拒絶しているのに、強い意志は決して消えそうにはない。

「多分、お迎えが来るはずだから」
「お二人さんとも、ご無事で何よりっス」
「浦原さん!!」

 いつもの羽織も何もかもがボロボロの姿の浦原が下駄を鳴らしながらこちらにきた。

「そろそろ来る頃かな〜って思ってました」
「おや、随分先見できるようになりましたね」
「まぁ、しないと生き残れないので。…連れてってもらえますか?」
「えぇ、もちろん。貴女には見届ける権利がある」

 夏樹は遠慮なく浦原の背に乗ろうとする。汐里はダメだと二人の前に立ち塞がった。現世を離れたあの夜がトラウマのようにフラッシュバックする。

「駄目!絶対駄目!!」
「汐里…」
「確かに私は蚊帳の外だけど!それでも!!アンタの親友よ!!!もう、危ないことなんてさせないんだから!おばあちゃんに連れて帰るって!約束したんだから!!」

零れ落ちた涙を拭うことすらせずに、汐里は強く夏樹の手を握った。

「汐里、大丈夫。多分、大丈夫だから。終わりを見てくるだけだよ」

そんな汐里にへらりと笑って、やんわり手を解いた。

「さ、行きましょうか。アタシが責任持って連れて帰るのでそんなに心配しないでも大丈夫っスよ」
「またあとでね。おばあちゃんに怒られる仕事が残ってるの、一緒に居てくれない?怖くて死にそう」

 そんな冗談を残して、二人は目の前から去ってしまった。