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「崩玉…壊せませんでした」
「壊そうとしたんスか」
「お父さんを止める方法が思い付かなくて」

 浦原の首に回した腕に力が入る。ぐらぐらと不規則に揺れる霊圧は夏樹の存在自体が危ういことを示す。

「どうりで。随分無茶をしましたねェ」
「えへへ…」
「まぁ叱る役は平子サンにお任せするとしますか」

 ひょいひょいと野山を駆けながら、浦原はため息をつく。 暫く走り続け、不意に不自然に山が切り取れているのが見えた。

「…ようやく発動したみたいっスね」

 浦原の背から降ろされて、夏樹は少し離れた崖にもたれ掛かる。ずっと、崩玉が暴れたままで呼吸も苦しい。背負う浦原にも相当の負担があったはずだ。夏樹はゆっくりと息を吸う。
 途中崩玉の霊圧が何度か変化したあたり、戦況が転々と変わっていることが伝わった。そうしてたどり着いた戦場には目の色も、髪型も、何もかもが変わってしまった異形の父の姿があった。
 今まで聞いたことのない声の荒げ方に夏樹は思わず目を逸らす。父親に抱く感情は、怒りでも、憐れみでもなかった。ただ―――寂しさだけが残った。
 ゆっくりと崩玉の力が凪いでいく。あの崩玉はもう藍染の意思を反映しない。

「さよなら、お父さん」

 そう呟くのと同時に、幾つもの十字の光が藍染を貫いた。最後に父が自分を見ることはなかった事に、夏樹はこれでよかったのだと空を見上げた。

―今までありがとう、お父さん。さようなら。貴女が、これ以上周りも…自分も、傷つけないで済むのなら…いいよね、お母さん

 ぼんやりと空を眺める一護に近づき、同じように空を見上げた。

「一護、お父さんを止めてくれてありがとう」
「いや、礼を言うことじゃ…」
「ありがと、一護。ありがとう」

 何度も礼ばかり言う夏樹に、一護は困ったように小さく笑うと、おう、と短く返事をした。
 夏樹の崩玉も藍染の崩玉に引っ張られるようにゆっくりゆっくりと力を収縮させていく。気をぬくと体ごと崩れ落ちてしまいそうな感覚に抗おうと腹に力を込める。

―でも、最後に一仕事、やらなくちゃ

「浦原さん、穿界門開けてもらえますか?」
「ひとつ貴女に言わなくてはいけないことが」
「私の命のこと、とかですか?」
「!」
「私のことです、なんとなく分かりますよ。それより早く」
「これ以上霊力を使うことしちゃダメっスよ。アナタの魂魄はもう形を保つので限界のはずだ」
「分かってるんで、早く早く」

 浦原を急かして穿界門を開けてもらうと、レプリカの空座町へと夏樹は急いだ。きっとこの機会を逃すと、もう二度と成功はしない。そんな予感がしていた。

「平子くんっ!」

 穿界門を出てすぐ、夏樹は治療を受ける平子たちの元へと迷わず駆ける。

「夏樹!?」
「ひよ里ちゃんは…」
「とりあえずは大丈夫や。お前が来たってことは」
「うん、お父さんにお別れ言ってきた。勝手に出てってごめんなさい。…みんな生きてて、良かった」

 満身創痍の面々を見て、夏樹は眉を下げて表情で笑った。きっとひよ里が起きていたら、反省してへんやろ!とどついたに違いない。
 夏樹は視線をゆっくりと平子に戻す。穏やかな風がひとつ吹いて、夏樹は僅かに残っていた怯えが消え去るのを感じる。

「ずっと、渡したかったものがあるの」

 平子の足の間に座り込むと、瞬きする平子の手を握る。平子の手に渡ったのは母の、千代の形見。崩玉が力を最大限に発揮している今、自分の命がある今、今しかなかった。

「これ…!」
「平子くんに」

 目を細めて平子を見つめる。自分の身が引き裂かれるような痛みが心臓に走る。それは心理的にも物理的にも、両方の痛みを伴っていた。それでも、夏樹は愛おしいと思った、痛みすらも。

「大切な、預かりもの」

 夏樹はゆっくりと斬魄刀を引き抜くと、平子の胸に鋒を向ける。

「…巡り繋がれ、翠雨」

 刀身が光り輝くと同時に、静かに平子の胸に刀は沈んでいく。柄だけが見える状態まで刺さると漸く夏樹は止まった。汗がぽたりとこめかみを伝って落ちた。
 意識を失った平子はゆっくりと地面に倒れこむ。夏樹は平子の横で、柄を手放すことなく静かに目を瞑った。

「夏樹あんた何を…!」

 驚くリサを見て、夏樹は弱々しく笑った。何も言葉を発せず、俯いて静かに霊圧を放出し続けた。翠雨と交わした約束が夏樹を強く動かしている。

『もし、叶うんなら…千代と真子をもう一度、会わせてやれんかな』

―やっと、やっと報いれる。待たせてごめんね、お姉ちゃん。翠雨。これで自分を少しだけ、赦しても、いいよね…?さようなら、みんなーーー


 = = = = =


「なんや、ここ…」

 目を開けると周囲が白一色に包まれた何もない空間に平子はぽつりと立っていた。胸を見るが夏樹に突き立てられた傷跡は見当たらない。

「死んだんか…?」
「何アホ言うてはんの」

 後ろから聞こえる声に平子の体は微動だにできなくなる。頭の中が真っ白になって、平子は口を一度開いてまた閉じた。

「真子さん」
「ち、よ…」
「なあに」

 平子はようやく振り返る。何度も何度も夢に見たはずの光景が目の前にあった。現実なのか夢でも見ているのか、それすらも分からなくて平子は呆然としたまま口を開いた。
 柔らかな光に照らされて、穏やかに笑う姿に瞬きを繰り返す。

「夢、ちゃうんか」
「夢みたいなもんやねぇ。夏樹ちゃんが、私の最後の魂魄を真子さんに繋げてくれたんよ」
「そ、か」
「何よ、感動の再会やのに!もっと言うことあるんとちゃいます?」
「…お前の顔見たら、全部吹っ飛んでしもたわ」

 震える手で千代の頬に手を当てる。そのままゆっくりと存在を確かめるように抱きしめた。

「千代」
「なあに」
「千代…!」
「もう、なあにってば」

 言葉の上手く出てこない平子をくすくすと千代は笑う。

「よう頑張りました」

 千代の声も微かに震えながら、ぽんぽんと頭を撫でた。平子は肩に埋めていた頭を上げて、視線を交わらせる。どちらかともなく、離れた時間を埋めるようにキスを交わす。何度も、何度も、求めるものは此処にあったのだと、深く心の赴くままに任せた。
 吐息を逃すことすら惜しいと、酸素が不足しても尚求めることを止めない。嬌声に似た声が漏れて、ぞわりと背筋が幸福で粟立つ。満たされて、それなのに切なくて、脳が白い幸せでぐずぐずに溶けていく。漸く顔を話した時には二人とも息が切れていた。

「っは、真子さん…ふふ、短いのも似合っとる」
「オレは何してもカッコええやろ」
「はいはい」

 二人はゆっくりと座り込む。千代は平子の胸にもたれ掛かって、腕に包まれると幸せそうに頬を緩めた。

「あんまし時間もないし、あの日から何があったのか、ちゃんと説明しときますね」
「時間ないて…」
「夢や、言うたでしょ」

 千代は平子の指を弄くり回しながら、105年前の死んだ日の事を話し始めた。実はあの日から数ヶ月ほど生き延びていたのだと。

「うちが崩玉になるまでの数ヶ月間、おったのは虚圏。あそこなら誰にも邪魔されんでしょう?あぁ、そないな顔せんでください。罠に掛かったうちが悪いんやから」

 平子の顔をぺしぺしと叩いて、指をゆっくりと絡める。

「浦原隊長と創った崩玉も、夏樹ちゃんに埋め込まれた崩玉もベースはうちの斬魄刀。どうしても、許せへんかったんよ。うちのせいで崩玉を悪用されるなんて」

「やから、逃げるんやなくて邪魔する方に全力になってしもて…えへ」
「えへ、ちゃうわ。全然かわいないわ!なんでそないな時まで猪突猛進やねん…」
「まぁでもおかげで百年も経たなあの人、大きく動けんかったでしょう?うちがうちの崩玉を抑え込んでたおかげ!ほら、褒めて褒めて」
「はいはい、よう頑張りましたァ」
「もっと真剣に!」

 平子の腹をギリギリと抓るものだから、平子は降参や!と声を上げる。しょっちゅう腹を抓られたことを思い出し、その痛みすら愛おしくて平子は千代の頭に顎を乗せた。
 それからぽつぽつと崩玉のことや夏樹の生い立ちを語る。その声色はとても優しく、千代の『夏樹を守りたい』という意思を感じたのは間違いではなかったことを悟る。夏樹の命は千代にも、母親にも大切に、大切に守りぬかれていた。

「あぁ、そうやわ。うちの蓄霊石、ちゃんと夏樹ちゃんの手に渡ったのギンくんのおかげなんよ?せやからうちは今までずっと夏樹ちゃんを守れた。あの子に託して良かったわぁ」
「……?どういうことやねん」
「崩玉の制御をここまで出来たのはあの石で内と外の両方から力を掛けてたからなん。ギンくんは…そうやね、うちの同盟相手ってとこかな。虚圏でもギンくとはそれなりに楽しくやってたんよ」
「なんでそんな事言うねん…」
「うちの人生を可哀想で終わらせて欲しくないから。うちは、真子さんと一緒に生きて幸せやった事だけを覚えてて欲しいから」

 くるりと平子と向き合うと、千代は懺悔するように平子の胸の額をつけた。

「ほんまは…一生崩玉の力を使えんように封印し続けるつもりやったん。せやけど、自分のために…うちは力を、罠やって分かってたのに、使ってしもうたん」

 軽蔑せんでくださいね、と小さな声で続ける。

「うち、死神でいたかったんです」
「…?」
「夏樹ちゃんは香澄ちゃんのお腹の中で、今にも死んでしまいそうで、せやけど生きたいって言うてたん。うちは無視できへんかった。藍染惣右介の手に落ちた時点で他人の命を奪うしかできたへん形になったうちが、助けられる命が目の前にあって、うちは…」

 震える手で平子に抱きついた。平子はあやすように彼女の背を叩いて、静かに言葉の続きを待つ。

「もし世界を壊す力をうちが制御できんくなったとしても、救ったら赦されるんやないかって。うちは、うちの価値を他人に塗りつぶされたくなかったんです。うちの生きた意味を、失くしたくなかった」

 千代は平子の手を離すと、もう一度短く口づけをした。

「あの子が優しい子で良かった。誰も傷付けたくないって言ってくれて、良かった。うちが、崩玉が、誰も傷付けんで済んで…ほんまに良かった」

 千代は平子の顔を見つめながら、穏やかに笑う。それはかつて、平子が一等好きだと言った表情だった。

「あの子はうちの誇り。うちが死神であれた楔。せやから、そろそろ消えへんと」
「千代…」
「最期にお願い、真子さんの腕の中で逝きたい。それだけが、望みです」
「そんな話まだ覚えとったんか…ほんま、アホやなァ」
「ふふ」

 平子は千代を抱きしめる力を強くする。ここに来た時からずっと少しずつ、彼女の霊圧が消えつつあるのを感じていた。残された時間は最初から殆どないことにも。
 夏樹が今こうやって奇跡を繋いでくれているのだと解っていた。

「アホで、最高の嫁や。愛しとる、ずっと、俺が死ぬまでや」
「うちも、ずっとずっとよ。真子さんの幸福と、平穏をお祈りします」
「そんなん…」

 オマエがおらんと意味ないやんけ、と紡ごうとした続きを遮るように平子の口に人差し指を当てて、穏やかな表情で笑う。

「堪忍。新しい真子さんの人生におれんのは寂しいけど、きっと大丈夫ですよ。貴方の幸せを祈って去れる幸福が、伝わるやろか。真子さんの隣にうちがいて、これからは…ふふ。きっと素敵な道を見つけられる」

 ゆっくりと温かな光と共に溶けゆく霊圧は最後に幸せを詰め込んだ音を残す。風で消えてしまいそうなほど小さな声で、愛しています、と声がした。

 終わった。終わったのだと喜べばいいのか悲しめばいいのかも分からない。
ただ、100年経って漸く、彼女の死を悼む事ができた。抑えていた嗚咽が憚られる事なく漏れ出す。
 千代が隣にいなくなってから105年も経った。漸く、彼女を想って泣くことができた。誰にも聞かれぬ場所で、平子は叫ぶように、寂寞のままに、涙を零した。


 = = = = =


「夏樹あんたいい加減にしィ!」

 揺れる霊圧を必死に抑えながら夏樹は平子に突きつけた斬魄刀を決して離そうとしなかった。汗は止まったが、代わりに赤いシミを平子のシャツにつけた。鼻血がぼたぼたと垂れるのも構わず、顔は赤黒く染まり、呼吸は非常に荒い。

「まだ、だめ…」
「ダメってあんたの方が死んでまうっ」
「邪魔しないで…!でないと、私は私を赦せなくなる」

 無理やり引き剥がそうとしたリサを霊圧で夏樹は威嚇する。いつもの強がりの笑みを見せる余裕すらない夏樹は頑なに斬魄刀から手を離さなかった。

「……っ、もう、ええ」

 平子が漸く瞼を開くと、自ら刺さった斬魄刀を引き抜いた。それと同時に夏樹は意識を失って平子の胸元へ倒れ込んむ。呼吸はしているのかも分からない程浅い。

「夏樹!?しっかりしィ!卯ノ花さん!!!早よ来て!!」
「あか、ん…夏樹、しっかり、せえや…」

 息切れた状態のまま平子は夏樹の肩を掴んで揺らすが返事がない。夏樹は土色の顔色のまま、それでも満足そうな表情で目を閉じていた。

「なんでここまで無茶すんねん、アホ…!」

 卯ノ花がどうかしましたか、と慌てた様子で駆け寄る。今にも消えてしまいそうな夏樹の霊圧を見て、目を見開く。

「助けたってくれ、卯ノ花サン…!死なせんで、こいつ死なせんでくれ…!!」
「救命措置に入ります。勇音、助手を願います」
「はいっ!」

 夏樹は応急処置を受けるとすぐさま尸魂界へと送られることとなった。致命傷を受けたひよ里を含め、仮面の軍勢全員が治療のため順次尸魂界へと赴く為に穿界門をくぐることとなる。
 別に傷が痛めど歩くことは可能だった。けれど、懐かしい卯ノ花の強烈な圧に負け、大人しく担架で運ばれる。

「さっきの、精神世界繋ぐ解号やないの」
「…おん。千代に、会うた」
「そう」

 リサはそこで会話を止めて、顔を逸らした。アホな子、と呟いた声は誰に聞こえるでもなく風に乗って溶ける。二人ともずっと眉根を寄せたまま、101年ぶりに懐かしい故郷へと足を踏み入れることとなった。
 長く複雑に絡み合った因縁によって始まった戦争は、1人の若き少年の手によって終結へと導かれた。それは、全ての感情を清算し切らないまま、変わらず抱え込ませたまま、ただ区切りを付けさせただけにすぎなかった。
 憎悪も激情も寂寞も惜別も、全ての感情をあの偽物の街に置き去りに、平子は故郷の空を見上げた。きっと、この言葉にし難い痛みを自分は一生忘れる事ができやしないのだろう。