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 例えるのならば、光も届かない深海のような絶望で、全てを溶かし尽くす溶岩のような怒りで、欠けた月しかない空を見つめ続ける空虚な寂寥感だった。そう感じるのは、自分が未熟だからだろうか。

―一人だ

 目覚めは最悪だった。意識がゆっくりと輪郭をなぞって、自分の存在を個として成立させる。指の先がほんの少し動いて、身体の異常な重さに眉を顰めた。

―どうして、わたし…生きて、あぁ、もう

 自分の中にあった温かな感覚は今はもう感じられない。指先がじわじわと冷え込んでいく。
 体の髄から襲う静かな絶望感に夏樹は再び目を閉じる。心の中心に大きな穴が空いてしまったかのような喪失感。

「意識が戻ったようですね」

 声の方へ顔を向けると、白い羽織の女性が立っている。その後ろは鉄格子で、窓は随分と高い位置に小さなものが慰め程度に付いているだけだった。

「私は卯ノ花烈。四番隊隊長で貴女の主治医です」

 声を出そうとしたが上手く出ず、ぅ、と小さな音が漏れただけだった。喉の奥が妙に乾いて、口の中がザラザラしていた。

「あの戦いから1ヶ月、貴女は生死の境をさ迷い続けていたのですよ」

 あの戦い、という単語で夏樹の脳裏に偽物の空座町であったこと、尸魂界であったことが洪水のように押し寄せた。フラッシュバックする記憶に目眩がしながらも、夏樹は必死に声を出そうとした。
 様子を見た卯ノ花が吸いのみで水を飲ませてくれる。潤いを取り戻したおかげで口が動く。

「あ、の…!」

 浮かすことすら難しい腕でどうにか卯ノ花の羽織を弱々しく掴む。

「おと、さん…どうなったん、ですか」
「…藍染惣右介は地下の無間という牢獄に収監されました。刑期は2万年、もう2度と地上へ上がることも…ないでしょう」
「他に、死んだ…人、とか、破面、とか」

 夏樹は震える声で続けるも、恐怖から卯ノ花の顔を見ることはできなかった。

「東仙要元隊長と市丸ギン元隊長のお2人は亡くなられました」

 それから、とスタークやバラガン、ノイトラといった十刃の死が淡々と告げられる。同時にハリベルは虚圏に戻ったと言われ、夏樹は掴んでいた手を離した。

―…やっぱり

 ショックよりも納得の方が大きい。彼らの死は、あの時戦場で感じたものは夢ではなかった。

―死んだ。死んじゃった…

 瞼が段々と重くなる。牢に入れられた自分はきっと処罰されて、殺されるのかもしれない。一生外に出られないのかもしれない。
 うまく感情が纏まらない。
 胸を締め付ける痛みを無視して、それでも夏樹の意識は鬱々と思考を繰り返す。

―防げなかった、守れなかった。それが、現実

―お姉ちゃん、どうして私がここにいるの

 自分の中にある異端とも言えるの力。生まれる前からずっと、ずっと自分を守ってくれたあの人に、何か返すことは出来たのか。何も返せていないから、彼女でなく自分が残ってしまった。自分の生がその無意味な問答の答えな気がした。

―死ぬ勇気もない癖に、生き残ったら後悔するなんて

 最早何に対して泣けばいいのか、誰に対して懺悔すればいいのかも分からない。この寂しさを誰かに零す事すら大罪のように思えて、漠然とした不安と寂しさで悼む気持ちを覆い隠した。
 視界に映る檻に与えられるのは安堵感。自分は、罪人なのだという事実。

「貴女は…今回の戦争について重要参考人として暫くこの部屋で過ごさなくてはなりません。ここは四番隊の隊舎牢。それまでは十二番隊にいたのですが、漸く霊圧が安定したのでこちらに移送されました」
「そう、ですか」

 人ごとのように夏樹は返事をした。

「今出来る限り早く貴女を外に出せるように総隊長が取り計らってくれています」
「そうですか」
「…相模夏樹さん。命を諦めては、いけませんよ」
「はい」

 そう答えるものの言葉に覇気はなく、夏樹はぼんやりとした表情のまま目を閉じた。

 それから1日経って、仰々しい黒装束に頭から身を包んだ人が数人やってきた。後ろには護衛も付けていて、位の高い役人であることは見て取れる。
 高圧的な態度で顔も見えない男達は咳払いをした。藍染から引き継いだものはないか、藍染を殺せないのか、破面の弱点は何か、そんな事ばかり聞いてくる。

「……いい加減何か答えぬか」
「……………」
「罪人の娘如きが。実験動物の癖して律儀に親を守ろうと言うのか」

 夏樹は黙秘を貫き通していて、そんな煽り文句にも夏樹は何も答えずちらりと視線を一瞬投げた後、あからさまに溜息をついた。

「っ、貴様!」
「彼女は私の患者です。手出しは許しませんよ」
「……下賤の民が口出しするでない」
「あら、総隊長から彼女を預かっているのは私であることをお忘れでしょうか。…今日はもうお引き取りください、彼女の体調に障りますから」

 卯ノ花が有無を言わさぬ圧をかけながら役人達に笑顔を向ける。役人達は渋々といった態度で悪態をつきながら牢屋を出て行った。

「…何故何も答えなかったのですか」
「答えたく、なかったからです」

 卯ノ花を無表情にちらりと見上げてそう答えた。あの男達を見ていると全てが馬鹿馬鹿しく思えてきて、感情が酷く冷え切っていく。

「貴女の答えが聞けるまで彼らは何度も来ますよ」
「…面倒ですね」
「ここから出たくはないのですか?」
「どうでしょう」

 夏樹は小窓に視線を向ける。今日の天気は晴れらしく、青空が雲間から覗いていた。
 後悔も惜別も寂寞も、全てを静かに畳んで箱の中にしまい込むよう意識する。箱を心の奥深くへしまい込むように。思い浮かべるのは虚圏の欠けた月。

「…斬魄刀を返して貰えませんか」
「貴女の嫌疑が公的に晴れぬ限りは難しいでしょうね…」
「そうですか。……少し、疲れました」

 布団に潜り込むと、そのまま卯ノ花に背を向けてしまう。おやすみなさい、と卯ノ花の声がして、その声色の温かさに懐かしさが僅かにこみ上げて夏樹は下唇を強く噛んだ。


 = = = = =


 黒い装束の男達は毎日やってくる。それこそ最初から苛々としている様子だったのが、黙秘を貫き通す夏樹に対してあからさまに侮辱的な言葉を投げ捨てながらの尋問へと変わっていく。
 流石に鬱陶しくなって霊圧を少し上げて見せれば過剰に怯えた反応をしたのは面白かった。
 体調はまだ全快には程遠く、起きていられる時間も多くはない。なのに、目が醒める度にあれらに付き纏われているのだからこの程度の悪戯くらいいいだろうと考えてしまう。
 殺気石というもので構成されるこの建物は周りの霊圧をほとんど遮断している。おかげで誰かが来るのも音でしか察知できない。ただ、静かなこの空間は嫌いではなかった。
 今日はいつもよりもドタドタとした足音で、来て早々最高潮に怒っている役人と対面することになるのかもしれない、と憂鬱な溜息をつく。

「入るで!」

 明らかにいつもと違う気配、声、ノックのない訪問。

「!!?」
「お、怪我は治ったみたいやな」

 開いたドアには死覇装を着た平子が立っている。包帯も見当たらず、怪我が治っているだろう事が見てとれた。ツカツカと無遠慮に近付いてくるものだから、夏樹は思わず霊圧を跳ね上げて平子を押しやろうとする。

「ちょ、何すんねん!」
「こ、来ないで…!」
「ハァ?」
「来ないでってば!!」

 平子は不機嫌そうに眉根を寄せて、無言で夏樹に近付く。立ち上がる体力もままならない夏樹はベッドの上で後退りするしかない。
 きっと、きっと平子は千代が目覚めたのだと思ってこの部屋に来たのだ。それを直感した夏樹は恐怖と焦りでただただ平子を拒絶した。

「うわっ」

 派手な音がして、夏樹はぶつけた衝撃で痛む額を押さえて蹲った。

「おーい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫…」

 体はぐらぐらと揺れて上手く立ち上がれない。身体を壁に預けるとゆるく息を吐く。

「夏樹」

 目を開くと平子が目の前でしゃがみこんでいる。自分の名が呼ばれたことに驚いて動けないでいると、手が伸びてきて思わず目を瞑る。

「あーあー、赤なってるやん」

 無造作に前髪をめくり上げて、ズキズキ痛む額を指でなぞった。擽ったい指の感触に夏樹は口をキュッと結ぶ。

「…久しぶりやな」
「………………」

 夏樹は何と答えて良いのか分からず視線を床に落とす。考えないようにしていた感情がどろどろと溢れ出しそうで、夏樹は呼吸すらも浅くなる。
 平子に触れられた場所が傷口みたいに熱を持って、押さえ込んだはずの感情が簡単に弾け飛んでしまいそうだった。

「…帰って」

 震える声でどうにか紡ぐ。心臓が速鳴って、身体がぐらぐらと熱くなる。思わず漏れてしまった拒絶の言葉。
 平子の顔を見るのが怖くて、ぎゅうと強く手を握った。

「まだ何も話せてへんやんか」

 思っていたよりも細い声で聞こえた返事に夏樹はびくりと身体が揺れる。

「…………」

 本当ならば真っ先に謝るべきなのにと、そう思うのに口は簡単な6文字を紡ごうとしない。

―どうしよう、こんなに、怖いなんて。もうお姉ちゃんがいない、なんて、言いたくない

「…夏樹?」

―責められるのが怖い、こわい、こわい…

 平子と一瞬目が合って、体調が緊張で限界を迎えて後ろに傾むく。平子は慌てて手を伸ばして倒れるのを防いだ。

「大丈夫か!?」
「ん、だい、じょぶ…だか、ら」
「ちょっと身体触るで」

 平子はぐい、と強く手を引くと夏樹を抱え上げてベッドに戻す。

「…ごめんな」

―どうして平子くんが謝るの、そんな顔するの

 熱に浮かされて視界が潤む。ぼんやりとした思考のまま平子に手を伸ばす。ほんの僅かに触れた指を緩く握った。

「まだおってええか」

 その問いに夏樹は弱く頷く。握り返された手が温かい。重い瞼を何度か持ち上げたあと、緩やかに重力に従った。
 おやすみ、と声がする。泣きたくないのに、泣いてはいけないのに、優しい声に誘われるように意識は静かに落ちていった。