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 夏樹が穏やかな呼吸で寝ているのを見てホッと息をつく。外傷は見当たらない。やはり、心的な傷の方がよっぽど強いようだった。
 頬も少し痩せこけていて、目の下にはクマができている。
 目が合った一瞬、どろりとした暗闇の中に混じる恐怖が夏樹の瞳の中にあった。

―オレん事も、怖い思うてるんやろうか

 拒絶は自分を守る為の術だ。人の顔色を良く見ている夏樹は平常時なら拒絶なんてあからさまな自己防衛手段はきっととらない
 知らぬ間に十二番隊からこの隔離病棟へ移送されていた夏樹は、件の重要参考人として捕縛されていた。反対も目に見えていたのだから、態と知らされてなかったのだろう。幸いにも体調が回復していないこともあって、主治医の卯ノ花が付いている限りはそう無茶を強いられることはない様子だった。
 聞いた話によると黙秘を続けているようで、聴取人が手荒な事をし兼ねない段階まで来ているらしい。

―何に怖がってるんか、思い当たる節が多すぎて分からへん…

 解せないのは彼女が自分の身の潔白を証明しようとしないところだった。

―自暴自棄になっとるんか…まるで、罰して欲しいみたいやんか

 平子はたったの16歳でこんな境遇に陥った彼女の心中を慮るが、堂々巡りのようでため息をつくしかなかった。
 これから暫くは自分が聴取を行えるよう、かなり無理を言ったが取り計らってもらえた。
 ここに来る直前にリサに言われた一言がずっと頭の中でリフレインしていた。

『あの子の気持ち分かってんねやったら、ちゃんと距離選びぃよ。同情なんかで向き合うたら承知せんから』

―距離、なぁ

 平子の中で夏樹の存在が何なのか。その答えは出ていない。あまり考えないようにしていたと言うのもある。
 戦いが清算され、死に別れた伴侶を見送ることができ、今までにない時間と心の余裕が出来てしまった。彼女の事を後回しにする理由はもう何処にもない。

―好きか嫌いか言われたらそら好きやけど、そういう好きやあれへん。かと言って、この状況を看過できるほど無神経ではおられへん

 平子は八方塞がりの状況に溜息をつく。

―千代に頼まれた義務感、ちゅーのもまた違うんよなァ。そん程度ならとっくに投げ出してる

―なぁ、千代。オレ、どないしたらええんやろうな

 しばらくして、平子が部屋を出て行こうかと考えていた頃、呻き声がベッドから聞こえた。苦悶に満ちた表情で、追われているような責められているような、そんな表情だった。

―そらあんな事がいっぺんに起きて、トラウマならん方がおかしいわ。ずっと寝てる聞いてたんにクマ出来てたんはこのせいか…

 霊圧が不安定に揺れて、こめかみから汗が伝う。手近にあったタオルで汗を拭っても表情は相変わらず苦しそうだった。卯ノ花からある程度話は聞いていたものの、実際に目にすると痛ましくて仕方がない。

―今日の報告書…は、適当に書いて埋めておくか…

 平子はサラサラと報告書を文字で埋めていく。最低限の報告書の形を成した紙切れを持って、溜息と共に平子は部屋を出た。


 = = = = =


 寝汗の不快感で目が醒める。寝ていたはずなのに疲労感は消えぬどころか蓄積されるばかり。窓に目をやると薄っすらと空が白んでいる。何度も繰り返し目が覚めて、漸く朝を迎えられそうだった。

―また、夢……

 ぐっしょりと濡れた服のまま起き上がって水を飲む。歩くのはまだままならないが、起き上がって少し動ける程度には回復していた。それでもご飯を食べると戻してしまう事も多く、中々に思うように治療は進まない。
 寝間着を替えると幾分気分は良くなったものの、手の震えは止まらないままだった。くしゃりと前髪を乱しながら顔を覆う。
 目を瞑ると脳裏に浮かぶのはあの戦争の日のこと。肉を斬る感覚、血溜まりがゆっくりと冷えていく温度、人の腕の重み、静かに消え逝く魄動。
 夏樹は身体を抱き込むように小さく丸くなる。自分の心臓に手を当てて鼓動に意識を向ける。

―お姉ちゃん、隣にいてよ…会いたい、よ。怖い夢ばっか見ちゃう

―…どうして私を残したの、私あの時、全部全部返すつもりだったのに

―私が、怖がったからなの…?死ぬのが怖いって、思ったから

―お姉ちゃんがいないなら、私が生き残る意味なんて、ないのに

 落ち着かない感情は思考回路を乱していく。孤独だった。あの戦争で自分の味方をしてくれたのは彼女だけ。彼女がいるからこそ、自分は1人でも戦える決意が出来たのにと、夏樹は手を強く握りしめる。
 泣くのをずっと我慢し続けて、どうやって、何に対して涙を流せばいいのかも分からなくなっていた。
 窓から見える明け方の空に僅かに欠けた月が見える。月の明かりが記憶の断片を照らして、虚圏での記憶が濁流のように押し寄せる。

―あの人たちを悼む気持ちなんて持っちゃいけない

―あぁでも。大事な人が死んで泣かないなんて、なんて薄情な話なんだろう

―スタークさん…明ける世界より、ずっと明けない世界の方がよかった。誰も傷つけず、静かに、生きていたかった

 うつらうつらと意識はまた夢の世界へと誘われる。繰り返し見る悪夢は自分も悪人なのだと断罪されているような気がして、誰にも言えそうになかった。

―誰か、私を罰してほしい

 あの日から自分の感情はずっと薄い靄がかかっていて不明瞭だ。漠然とした罪の意識だけが心の重りになっていて、毎日白昼夢を歩き続けているかのようだった。


 = = = = =


「おはようさん」
「………?ぅわ」
「出会い頭にその反応は傷つくわー」

 目が合った瞬間夏樹は布団に潜り込む。お盆に湯気立つ粥を持った平子はぽりぽりと頭を掻いた。

「おーい、お嬢さん。飯食わんと治るもんも治らんで」
「お腹空いてないから、いい」
「そう言って昨日の夕餉も抜かれましたね?」
「う、卯ノ花さん…」
「さぁ相模さん、そこに潜られては体に毒です。起きて朝餉を召し上がりなさい」

 穏やかな口調とは反対に地響きのしそうな霊圧に夏樹はおずおずと布団から顔を出した。

「召し上がりますか?」
「は、はい…」
「では、私は業務がありますので失礼しますね。平子さん。何かあれば伝令神機で」
「おー、任せてや」

 ぱたりと扉が閉まるのを確認してから平子は重い溜息をつく。

「こっわ…あの人100年前から何も変わってへんやんけ…」
「はは…」
「で、飯食うんやろ?」
「食べたくない」
「バッサリ切り捨てよったな…」
「ほんとに、食欲ないんだよね」

 困ったように笑いながら夏樹は頬を掻いた。こうして普通に会話するのも気丈に振る舞っているのが見て取れる。本当は自分が来ること自体、体調の悪化を助長させている気もしていた。

―分かっとって、それでも他人に任せたくないと思うんは傲慢やろうか

 会話は普通にできている。平子は感心を通り越して呆れてしまう。この少女はきっと母親が死んだ時も、この取り繕うような死んだ目をしていたのだろう。その時に身につけた生きる術なんだろうと。
 頑なに彼女の視線は自分とは交わらなかった。

「ちょっとでもいいから、食べ」
「…うん」

 夏樹の手は時々震える。隠しきれていない彼女の恐怖心を平子も見ないふりをした。暴かれることを恐れている様子だったから。
 ゆっくりと一口ずつ粥を食べる。凝視するのも食べにくいだろうと持ってきた報告書の束を読むことにした。食器の擦れる音と紙の捲れる音だけが部屋に響く。

「ごちそうさまでした」
「ん」

 まだ半分ほど残る器を平子は片付けてしまうと、夏樹と改めて向き合う。

「聴取する奴ら、来てへんやろ。あれ、オレが代わってもーたからやねん」
「そ、か」

 夏樹の手が強く握られ、体が強張る。

「でもまぁそんなんどうでもよくてな。オレはお前に話があるから来たんや」

 刹那、夏樹の瞳が静かに濁っていった。恐怖を隠すように布団の中に手を隠している。

「私も、あるよ。私じゃなくて、お姉ちゃんが本当は…残るはずだったの」
「は…?」

 夏樹の衝撃的な発言に平子は思わず反応してしまう。言わなくてはいけないことがたくさんあったはずなのに、夏樹は先手を切ってきた。

「お姉ちゃんがリサさん呼んでくれたことがあったでしょ」
「あ、あぁ…」
「私とお姉ちゃんは魂魄が入り混じって同じになってる。だったら、私じゃなくてお姉ちゃんが残ることだって、できたはずでしょ?」

 彼女が生き残ったかもしれないというのは衝撃的な仮説だが、それは恐らく夏樹自身の消滅を伴うことを示している。夏樹は俯いて懺悔するように言葉を吐き出していた。

「私じゃなくて、私なんかじゃなくてっ…!」
「ちゃう!!」

 それ以上言わせてはいけないと平子は思わず声を荒げる。

「すまん、お前がそないに思い詰めてるとは思わんかったんや…アイツ、そんなこと一言も言いよれへんかったから」
「何が!違うって!私、だって…!」
「ちょお落ち着けって」

 平子は夏樹の眉間に手刀を落とす。夏樹は顔面蒼白で布団から出た手は酷く震えていた。その手をゆっくりと握れば夏樹はびくりと肩を揺らした。

「千代は最初からそんなん考えてへんわ」
「嘘、だ」
「会わせてくれたんは夏樹やろ。千代は最初から最後まで、夏樹を守ることしか考えてへん。ましてや自分がオマエを犠牲にして生き返るなんて微塵も考えてへんわ…いや、考えたとしても、その選択をアイツは絶対選ばん」
「な、なんで」
「ちゃんと話すから。あぁでもちょっと待っとれ」

 平子は席を立つと湯飲みに茶を注ぐ。夏樹の手は酷く冷えていたから、少し温かいものを飲ませたほうがいい。

―随分、思い詰めさせてたんはオレんせいか

「ほれ、茶。甘いもんはないからこれで堪忍な」

 夏樹は湯呑みを無言で受け取る。ほんの少しぬるくした茶に口をつけると、夏樹は少しだけホッとした表情を作る。ゆっくりと飲むのを待って湯飲みを受け取る。やはり彼女の瞳には困惑と恐怖が混じり合っていた。

「オレはお前に礼を言わなあかんのや」
「な…」
「文句は後で全部聞くから。まぁ話聞きや。…あん時、精神世界で千代に粗方話は聞いてきた。分からんかもしれへんけど、千代はな…夏樹、オマエに救われてたんや、ずっと」

 夏樹の表情が困惑で揺れている。平子は夏樹を傷つけぬように、できる限り言葉を選んでは捨てを頭の中で繰り返しながら口を開いた。

「藍染に死神としても、人としても、矜持も何もかんもを奪われた千代が、唯一助けれたんが夏樹、オマエや言うとった。最期まで夏樹に生きて欲しい言うて、自分で選んで逝ったんや」

 なぁ、夏樹。と続けても夏樹はやはり感情を隠したいのか顔を上げてはくれない。

「もう、やめて」
「………なんで、」
「平子くんが分からない」

 平子は自分の意図が伝わらり切らないのか、言葉が何か間違えたのかと眉を下げた。焦りがチリチリと指先を焦がす。夏樹は請い願うように声を振り絞って、ゆっくりと顔を上げた。

「優しい言葉を、掛けないで。お願いだから」
「……っ、違う。違うんや」
「嘘つき」
「!!」

 夏樹は目に涙を溜めてこちらを睨んでいた。霊圧が徐々に上がり始めるにつれてピシピシと窓が揺れる音がする。

「あかん!夏樹、やめえ!」
「嘘つき!嘘つき…!」
「っ、夏樹!!!」

 平子は動きを止めようと思い切り夏樹を抱きしめた。身体の弱り切った彼女に霊圧を上げさせるなんて以ての外だ、死にかねない。
夏樹は一瞬身体が強張るも、すぐに両手で平子を殴り始める。

「は、離して!」
「あかん!!」
「嘘つく平子くんなんて嫌い!大嫌い!!もうどっか行ってよ!!」
「嘘なんかとちゃうわ!!」
「だって、私お姉ちゃんに、酷いこと言った!なんで!なんで私が残ったの!!お姉ちゃんがそんなこと言う訳ない!平子くんだって!!もう二度と顔も見たくないって言ってくれた方が!!よっぽどいいよ…!」

 振り下ろされた手は叩くのをやめると弱々しく平子を押し返した。それは彼女の精一杯の拒絶だった。平子は自分が何も夏樹に見せてこなかったことに気付く。

「私なんていらないってちゃんと言ってよ!お姉ちゃんを返せって言ってよ…!!」

 千代の言葉が嘘でないくらい冷静になれば、親しい仲だった夏樹は理解できるはずだ。それが届かないくらいに、自分の言葉が夏樹に届かない。

―なんも見せてけえへんかった。悪いんは、オレか。やとしても、

 夏樹が望むものは糾弾だ。藍染の娘として、千代の忘れ形見として、責め苦を受けなくてはならないと思っている。
 
「………絶対嫌や」
「…?」
「あんなぁ!!オレの感傷はオレだけのもんや!夏樹、お前の存在で千代ンこと思い出して傷ついたとして、それでも絶対にお前には何も教えたらんわ」
「なんっ」
「納得せえ!」

 平子は思い切り顔を顰めて語尾を強めた。夏樹は目を白黒させて混乱している。肩を掴む手が思わず力む。

「オレの痛みでなんでお前を傷付けなあかんねん、アホなこと言うんも大概にせえ!」
 
 平子は思い切り夏樹の頬を引っ張った。

「オレが預かって来た千代の言葉信じられへん言うアホな口はコレか!」
「い、いひゃい!!」
「なんで千代が命掛けて救った人間がンなメソメソすんねや、あかん腹立ってきた」
「ひゃ、なしてっ」
「だいたい勝手に虚圏なんか行きよってやな!千代もオレやなくてリサ呼びよるし!!あぁもうハラ立つ!!どんだけ心配したと思てんねや!ホンッマにアホやアホ!!!」
「痛いってば!!さっきからアホアホって!」

 夏樹は思い切り平子の手をはたき落した。平子の手からずっと逃げようともがき続けていたせいで息も上がっている。痛みで涙目になりながら平子を睨んだ。

「ったく、お前のせいちゃうもんまで勝手に背負いな」
「なんで…」
「なんでは禁止。あんなァ、死神の夫婦なんて死に目には会えへんもんや。遺体も形見も残らんことだって少なくない。そんな中であいつともっぺん会えて、言葉交わせて。十分すぎるもん貰てんねん」
「けど、」
「けどもなんでもへったくれもないわ。千代が言うてた。夏樹が崩玉の力で誰かを傷付けようとせんで良かったって。自分の力が誰も傷付けんくて良かったって。少なくとも、夏樹がしようとしたことは無駄やなかった。あいつの魂は十分救われてる」

 夏樹はまだ納得がいっていない様子で視線を逸らした。平子は夏樹の顔を両手で挟むと視線をがっちりと突き合わせる。

「嘘は言わん。けど傷つけるようなこと、言いたァないねん。情けないから誰にも知られたくもない。せやから、聞かんとって。謝らんとって」
「………っ、ずるい」
「大人はズルいもんなんや」

 両手を離せば夏樹は組んだ両手に頭を預ける。か細い声で、本当にお姉ちゃんは、と言葉を吐き出した。

「夏樹のこと大事にしてた。…信じられへんか?」
「…ううん」

誰よりもそれを知る夏樹は緩く首を横に振った。
 
「これで、良かったの、かな」
「少なくとも千代が納得して出した答えっちゅーことやろ」
「…うん」
「あぁ、せや。ずっと忘れとったわ。…夏樹、おかえり」

 驚いたように夏樹が顔を上げた。どんな顔をしたらいいのか分からないといった表情が可笑しくて平子は笑いが溢れる。

「返事はただいまやろ、アホ」
「アホじゃないもん…」

 ようやく千代の最期の想いが夏樹に渡ったようで平子は安堵の息をつく。夏樹の中に積もった心の枷はきっとまだ外れない。それでも、ひとつひとつ向き合って、前を少しずつ向けるようになればいいと心の底から願う。

「ほら、ちゃんと返事しいな」
「…ただいま」
「ん、ええ返事や」

 夏樹の頭をぐしゃぐしゃと撫でれば、涙を堪えたのか鼻を啜る音がした。陽だまりが差し込む病室で、そんな不器用な少女を愛おしいと感じるのだった。