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 牢を出ることになった。正直なところ戸惑いの方が大きくて、どんな顔をしていればいいのか分からず夏樹は途方に暮れていた。身勝手に藍染の元へ行ったのは裏切ったとも言える。何も成せぬままのうのうと生き長らえて、何を守れたというのだろうか。
 出来ることならば誰とも会わずに済む日が続きますようにと願わざるを得ない。

「まだ面会は辛いですか」
「…あ、その」
「心の傷は目には見えません。すぐには癒えないものです」

 ことり、と水を替えられた花瓶を窓際に置く音がする。卯ノ花は夏樹と目線を合わせると穏やかな表情で微笑んだ。

「そして、必ず治さなくてはいけない、というものでもありませんよ」
「治さなくても、いい…?」
「そう。本当の意味で治ることなんてないんでしょうね。私たちは傷を抱えて、折り合いをつけて生きていくしかないのですから」

 諭すような声色に誘われて夏樹は視線を落とすと、自分の手のひらを見つめた。豆で少しゴツゴツとしてきた、それでも頼りない手。

「焦らなくてもいいのです」

―それは、お父さんを未だに憎めなくてもですか?

 そんな言葉を飲み込んで、夏樹はまた目を閉じた。温かな記憶が父への憎悪の火を灯させてくれない。優しい手で頭を撫でられた感覚は今だに消えない。どうしても捨てられない、捨てたくない大切なものだった。

 牢を出るのに伴って、明日には誰でも見舞いに来ていい事になっている。まだ眠れぬ夜は続いているが、霊圧の回復に伴い睡眠導入剤の服薬も出来るようになるらしい。霊圧も随分安定してきた。
 体調的な面でも政治的な面でも年明け前には現世に戻れるかもしれないと、総隊長の代わりに訪問した浮竹と京楽が伝えに来たのは5日前ほどのこと。
 気持ちの整理はまだついていない。それでも、身内の死は2度目だからか人前で取り繕うのは随分と慣れてきた。心の内側についた傷はまだ癒えてはいない。それでも慌てる必要はないのだと卯ノ花に諭されて、少しだけゆとりができた。

「おやすみなさい、相模さん」
「おやすみなさい」

 今日は雲がない。澄んだ冬の夜空の向こうに月が見えた。ほんの少し目が冴えて、寝転んだまま月をぼんやりと眺めていた。
意識がほんの少し微睡み始めた頃、扉がノックされて体を起こす。

「調子はどうや」
「平子くん、それ…」

 病室に入ってきた平子はくるりと背を向けた。夏樹は言葉を失ってしばらくその背中を眺めていた。白が翻って刻まれた数字は五の文字。

「復隊すんねや。正式には年明けからやねんけど」
「そっか……」
「まぁほんまはまだ着たらあかんねんけどな。お披露目や!」

 それはいいのだろうか。そんな疑問と共に、夏樹は何と声を掛ければ良いのかわからず曖昧に笑うしかなかった。

「あっこはオレの場所やったから。ゴタゴタをほっぽりっぱも落ち着かんしな」

 どこか懐かしそうに言う平子に夏樹は短く返事をするくらいしかできない。おめでとうも頑張っても、何か違う気がした。

「っと、着てるんバレてヤイヤイ言われんのもかなんしな。ほな行こか」
「へ?」

 羽織を脱いで平子は夏樹に手を差し出す。

「何のために死覇装に着替えるよう言うといたと思てんねん。外出るためやろ」
「ま、待って!」
「待ってたら朝なってまうわ。安心せえ、喜助しか呼んどらんわ」

 まだ心の準備出来てへんやろ。そう言われて夏樹は言葉が詰まる。真夜中の隊舎は静まり返っていて、寒空の下、人知れず歩くのはまるで逃避行のようだった。

「ん?疲れたか?」
「ごめ…」

 夏樹は少し歩いただけで息が上がってしまう。1ヶ月半も寝たきりで、動けるようになったのも最近のこと。まだ体力の回復まではできていなかった。
 結局、平子におぶってもらって移動しているうちに、夏樹は眠ってしまっていた。

「夏樹、起き」
「ん…」
「着いたで、起きぃや」
「ごめん、わたし寝ちゃっ………ここ、は」
「虚圏や」

 目を開けると広がるのは白い砂漠の海。永遠と続く白に囲まれて、見上げると欠けた月だけが鎮座している。静寂に包まれた冷たくも優しい世界。

「来たかったんやろ」

 平子はゆっくりと夏樹を地面に下ろす。呆然とした表情で夏樹は月を見上げた。

「そんなこと、言った…?」
「どうやったかなァ」
「そ、か…」

 広大な世界で夏樹はゆっくりと、けれど見定めた方向へ歩き始めた。時折疲労で足がもつれて転けてしまう。その度に平子が無言で起こして、夏樹はまた歩み始める。

「………っ」

 また派手に転けた。けれど、のそりと起き上がったまま、平子が差し出した手を夏樹は掴まない。生気のない瞳で広大な砂漠を見つめていた。

―いない、いない。本当に、いないんだ
―ギンも要も、スタークさんも、リリネットちゃんも、みんな、本当にいないんだ

「はは………」

 探知範囲を限界まで広げたところで、見知った霊圧はひとつもない。遠くに崩れ欠けた虚夜宮が見える。心のどこかで、もしかしたら誰も死んでいないかもしれないと思っていた。そうすれば、泣かずに済むから。取り繕うにはそうするしかなかった。

―あ、だめ。溢れちゃう。だめ、

「泣いたらええ」

 平子の声に夏樹はびくりと肩を揺らして思わず顔を上げる。座り込んでしまった夏樹に平子はしゃがんでもう一度言う。泣いたらええ、と。夏樹はゆるく首を横に振った。

「だめ、だめ…」

 震える瞳には今にも涙が溢れてしまいそうで、夏樹はきつく唇を噛んだ。平子は夏樹の頬を掴むと無理やり視線を合わせた。

「夏樹。大事なモンが亡うなった時に悼むのは間違いやないねん。死んだんが例え反逆者でも、悪人でも、寂しい、悲しいて思うたらええねん」

 平子は酷く苦しそうな表情で夏樹に向かう。ぽろりと一筋の流れが頬伝う。乾ききった世界に落ちた雫は一瞬で砂に飲まれて消えてしまった。

「我慢せんでええ、その気持ちは間違いなんかやないから」

 一度溢れた涙は止まらない。嗚咽とともに死んだ大切な者の名前が溢れ出す。平子は夏樹をきつく抱きしめた。あやすように背を撫でる。

「誰も咎めたりせんよ」

 その優しい声と温もりが堰を壊し、夏樹は大声で泣き始めた。蓋をしてきたものが濁流のように押し寄せて、感情が台風のように全身を荒らしていく。

「なんでっ、死んじゃったのっ!バカ!ばか!!!なんでわたしを守ったの!勝手に!!うあぁあああん!」

 お姉ちゃん、ギン、要、スタークさん、リリネットちゃん。夏樹の怒りの矛先はくるくると変わる。寂しい、どうして、ごめんなさい。渦巻く感情は己を責め立てる。
 嗚咽が漸く収まってきても後悔は全く消えはしない。夏樹はぽつりぽつりと漏らすように本音を零した。

「わたしっ、間違えたんだ。だから、だから…!もっと、別のっ…、ごめんな、さい…っ、わたし、」
「せや、間違いやったんかもしれんわ」
「…………っ」
「でも、正解やったかもしれへん」

 平子の言葉に夏樹は眉根を寄せながら顔を上げる。平子は夏樹と視線を合わせながらもどこか遠くを見ているような表情をしていた。平子の不安定な何かが開いていくような空気に夏樹は砂を握る手が強くなる。

「何が正解で、何が間違いやったかなんて誰にも分からんわ。違う選択をして、違う未来がきて、それが正解かどうかも分からへん。…夏樹、今あるんは結果だけや」
「結果、だけ…」
「もし藍染の企みを阻止できてたら、千代を守れてたら。そうやって何遍も何遍も考えた。でも…なんぼ考えても何が正解やったんか、分からへん」

 まるで夏樹の中に答えを探すかのように、平子は細い声で分からへんのや、と続けた。白い砂漠の真ん中で欠けた月だけが二人を照らす。夏樹の涙も、平子の零した後悔も乾いた砂が無意味だとでも言うように音もなく吸い上げていった。

「千代が死んで、崩玉になって、夏樹を守った今がある。千代が生きてて夏樹のおらん世界が正解か?藍染を殺してオレが投獄されとった世界が正解か?仲間巻き込んで惨めに100年過ごした世界が正解か?」

 平子の瞳が後悔と懺悔で揺れている。夏樹は思わず平子を抱きしめた。そうでもしないと、平子がこの砂漠に攫われてしまうのではないかと思ったから。

「だれも、いなくなってほしくないだけなのにね」

 夏樹は今にも消えてしまいそうな声で、鼻を啜りながらそう漏らした。
 平子は逆転した立場に苦笑いを零しながら、夏樹の頭を優しく撫でる。夏樹、と声を掛ければゆるりと腕がほどかれて視線が絡む。

「…はは、夏樹。顔ぐっちゃぐちゃやで」
「ひらこくんも、ひどい顔だよ」

 目が合った二人は思わず笑いを零す。

「すまん、情けないこと言うたわ。…でも、お前が死なへんでほんまによかったって、それは確かやねん」

 泣き止んだはずの夏樹の目からじわりとまた涙が溢れる。

「あ、おま!何でまた泣くねん!!」
「だ、だぁってぇ…」

 止まらないのだから仕方ない。ぼろぼろと今まで我慢していた分の涙が際限なく落ちる。平子はしゃーないなと笑いながら夏樹の涙を死覇装の袖で拭った。
 その刹那、凄まじい殺気と共に斬撃が平子の後ろから飛んでくる。

「うおっ!?」
「夏樹!!」

 突如後ろからの斬撃を平子は夏樹を押し倒して躱す。夏樹も驚いて涙が止まってしまうが、数拍置いてその霊圧が見知ったものだと気付く。

「は、ハリベルさん!?」
「無事か。貴様…子供を泣かせて何を考えている」
「あぁ!?アンタ、確か十刃やな…ひよ里らと殺っとった」

 平子は斬魄刀に手をかけながら戦闘態勢に入る。夏樹は慌てて起き上がるとハリベルに思い切り抱きついた。

「よかったぁ…!無事だったんですね」
「息災だったようだな」
「はい、ハリベルさんも」
「夏樹!!!」
「ミラ・ローズさんく!アパッチさん!スンスンさん!!」

 遅れてハリベルの従属官の3人が姿を現す。
 平子は訳が分からないと言った顔で、夏樹の知り合いのようである破面を前に肩の力を抜いた。

「夏樹アンタ泣いてたの…?」
「この胡散臭い男が」
「アァ?んだ、こいつ」

 女性4人に睨まれて平子は煩わしそうに片眉を上げた。夏樹は慌てて4人の前で手を振って制止に入る。

「ちが、あのっ!そうじゃなくて、」
「夏樹」

 平子はため息をひとつつくと穏やかな表情をした。

「虚圏なんて滅多に来れるとこやない。気ぃ済むまで話しといで」
「でも…」
「ここ、アイツが最期におったとこやろ。少しオレも見て回りたいねん」
「!」

 平子は曖昧な表情で笑うと瞬歩でその場を去った。そこに混ぜられた複雑な感情に夏樹は胸が痛んだ。