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「夏樹、今の男は?」
「あ、えっと…私の…」

 平子が立ち去った方角を見ながら怪訝そうな顔をしてハリベルは尋ねるも、夏樹の言葉は一度止まる。何と答えれば良いのか、友達、仲間、当てはまるちょうどいい言葉が見つからない。

「私の、大事な人」

 ハリベルと同じように平子の去った方を見つめながら、それが一番しっくりくるかもしれないと思った。

「へぇ」
「あぁ、オトコかよ?」

 アパッチが親指を立ててニヤニヤとした顔をする。

「ちが、違うって!!」
「顔真っ赤だぞ」
「あら、片思いかもしれませんよ、野暮なことはおっしゃい」
「もう!!!」

 夏樹はさっきまで泣いていたことも忘れて3人にぷりぷりと怒った。

「なぜここに来た?」

 ハリベルにそう問われて夏樹は返答に詰まる。

「その…向こうだと気持ちの整理がつかなくて。我儘言っちゃいました」
「…そうか。ここだと野良虚が多い。私の宮に来なさい」
「はい」

 ハリベルの無愛想な表情は以前と変わらず、その変わらなさが夏樹は嬉しかった。覚束ない足取りの夏樹を見かねたミラ・ローズが夏樹をおぶって宮まで響音で連れて行く。目まぐるしく変わる景色の中に、見知った場所を幾つも通り過ぎて夏樹は目を細めて眺めていた。

「あれから向こうにいてアンタ大丈夫だったの?」
「うん。向こうで1ヶ月は意識が戻らなくて…最近やっと出歩けるようになったんです。怪我よりも魂魄の調子が酷くて」
「あぁ、そのモロモロとした感覚はそのせいだったのか」
「モロモロ?」
「崩れかけ、と言う事ですわ。生きていられるのが不思議なくらい」

 スンスンが顔を顰めながら口元を隠した。これは心配してくれているのを隠す素ぶりだ。

「いや、あたしが聞いてるのはそうじゃなくて。尸魂界側に敵として見なされてないかって話を聞いてんの」

 アパッチの問いに言葉が詰まる。夏樹は何度か左右に視線を泳がせる。

「…今のところは大丈夫、かな。貴族とかの人たちに説明するのに時間が掛かったみたいなんだけど、一応は。今日は多分…こっそり連れ出してくれたんだと思います」
「そうですの」

 夏樹は申し訳なさそうに視線を地面に落とした。ミラ・ローズの入れた紅茶が湯気を立てて柔らかい香りを漂わせる。

「にしても夏樹、あーいうのがタイプなのか」
「へ?」

 アパッチが林檎を齧りながらピッと夏樹を指差す。崩れた天井から欠けた月が覗いて、時折夜風がゆるりと頬を撫でる。唐突に始まる世間話は平和を象徴するかのように、穏やかな空気を醸し出していた。

「いやー、アイツ。私はありえないけど」
「あぁ、もっといい男を探したほうがいいと私も思いますわよ?」
「あたしもあんなナヨっとした男は無理だわ」
「み、みんな勝手に何を…!」
「いーじゃんかよ。話、聞かせろよ」
「終わったのよ、戦争は。ならいーじゃないの」

 ぎゅうぎゅうと挟みこむように夏樹の横にスンスンとミラ・ローズが座り、正面には逃しまいとアパッチがテーブルに腰掛ける。助けを求めるようにハリベルに視線を送ると、私にも聞かせてくれるか、とどこか愉快そうな表情だった。

「味方がいない…!」
「さ、ほら」

 結局勢いに負けて少しずつ吐かされていく。千代の話は他人に軽々しく話すべきではないと話題を避ければ、必然的に自分の話をせざるを得なく、夏樹は恥ずかしくて堪らなかった。

「もういいでしょ!?」
「えー、もっと聞きたいわ」
「そうそう、そういう俗物的な刺激に飢えてんの、あたし達」

 夏樹は顔を真っ赤にしてもう降参だと顔を覆った。

「こら、あんまうちのイジめんといてくれるか」
「ひ、ひらこくん!?」

―今までの話、まさか聞かれてた…!?

 ぽん、と頭に置かれた手に夏樹が上を見上げるといつものゆるい表情をした平子が後ろに立っていた。

「女性の会話に勝手に混ざるなんて無礼ですこと」
「ちゃあんとノックはしましたァ。聞いてへんアンタらが悪いんやろ。そこのねーちゃんは気付いとったで」
「ハリベル様になんて口を…!」
「オレ破面ちゃうもーん。ほら夏樹。体調良うないんやったらこれ飲んどき」

 錠剤と水筒を渡されて夏樹はそういえば、と薬を受け取った。霊力の増強剤と安定剤だった。

「話できたか?」
「うん」
「ほな夜明ける前に帰ろか。見つかったらややこしことなるわ」

 夏樹は立ち上がった瞬間、眩んで体が傾く。平子が腕を掴んでアパッチが身体を抱き止める。

「ご、ごめんなさ…」
「しゃーないしゃーない」
「あの!お世話になりました」

 夏樹はぺこりと頭を下げる。虚圏で彼女達の存在は間違いなく夏樹にとって心の助けになっていた。

「いつでも顔を出しに来なさい」

 珍しくハリベルの目元は柔らかい。口元は隠されているのに、瞳がとても優しいもので夏樹は心が擽ったくなる。

「ハリベル様が仰るんですもの、いつでもいらっしゃい」
「そうそう、そいつに嫌気がさした時でもいいぜ」
「男のシュミ、次来る時までに変えときなよ」
「アホォ、こんな男前惚れて当然やろ」
「!!?」

 平子の放った衝撃的な言葉に夏樹の脳内は停止する。呆然としたまま平子に手を取られて歩き出す。

「あ、あの…あの、」
「ん?」

 平子に背負われたところでようやく我に返り、夏樹は平子の首に回していた腕に力がこもってしまう。

「さっき、の、」
「あぁ、なんや。バレてへんと思うとったんか?」

 夏樹はぶわりと身体中の熱が吹き上がる感覚に目眩がした。

「あんな顔されて気付かん訳ないやろ」
「う……」

 一体いつ、どんな顔をしていたのか夏樹には皆目検討が付かない。羞恥心のあまり、穴があったら入りたいと願った。
 数秒空いて夏樹は血の気が引いていく。伝える気も何も、このまま誰にも言わないまま静かにこの恋心は終わらせるつもりだったのだ。好きになる資格なんてないのだから、と。

「好きにしたらええ」

 そんな夏樹を見透かしたような平子の言葉に夏樹は目をぱちくりさせる。

「好きでおれんわって止めるんでも、好きで居続けるんでも。他人を理由にして自分の気持ちに枷着けるんやなかったら、何でもええわ」

 随分前から全て見抜かれていたらしい。なんて事ないと言った調子で、平子の声色は穏やかだった。

「ま、オレのこと落とすくらいの気概見せてみぃ言う話やな」
「な、うぅ…」
「何呻いとんねん、惚れ直しでもしたかァ?」
「ばか言わないでよ…」

 夏樹は平子の肩に顔を埋める。悔し紛れに放った言葉に平子はくつくつと笑いを返す。

「ほんまはリサには、」

 平子はそこまで言って少し言い淀む。白い砂漠の中で規則的に砂を踏む音と風を切る音が耳に届く。

「ハッキリせえ言われとんやけど」
「うん」
「夏樹とどう向き合えばええんか、分からへんねん。せやけど、泣けへんの見てたらもうどうしようもないねん。ほっとけへん」
「それは…お姉ちゃんに頼まれたから?」

 思わず出てしまった言葉に、なんて可愛くない聞き方だろうかと後悔が襲う。こんな聞き方は彼女にも失礼だ、と。

「それはある。けどまぁ、オマエんことは割と気に入っとんや。正直なところ自分がこれからどないしたいんかもよお分からんしな。まだ整理ついとらんのや。堪忍な」
「あ…その、ごめんなさい」
「ガチトーンで謝んなや、深刻なるやんけ!」
「理不尽…!」
「ま、これからは白紙や白紙!せなあかんことは全部終わったばっかや!ちぃと寂しいけど、楽しみやなァ。自由に生きたらええねん、自分の思うように」
「自由に…」

 尸魂界に戻ってくると時刻は明け方。湿った朝の空気の中、鳥のさえずりすらもまだ聞こえない。薄っすらと白んできている空に自分の吐く白い息が溶けていく。

「うー…サッブ」
「平子くん」
「なんや?」
「私、自由に生きれるかな」

 ぽつりと零した声に平子は一拍置いて答える。

「夏樹がそう願うんなら」

 小鳥が一羽、東の空から飛んで来るのが見える。夏樹は平子の背に額を寄せると目をつぶって1つ深呼吸をした。

「平子くん………ありがとう」

―助けてくれて、導いてくれて、見捨てないでくれて。数え切れないくらいの、沢山のありがとうがあるの

―それから…貴方を好きでいさせてくれて、ありがとう