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 遂にこの時間が来てしまった。もうすぐ面会時間だ。
 夜中に抜け出していたことがバレて卯ノ花には大目玉を食らった。体裁の問題ではなく夏樹の体調を心配してのことが嬉しくて、夏樹は怒られているのに表情が緩んでしまう。平子がげっそりとした表情で、それでもおどけながら部屋を出て行くものだから申し訳ないと思いつつ少しだけ笑ってしまった。
 思い出に浸っていると突如、後ろの窓が開く音がする。

「夏樹」
「り、リサさん!?」
「あたしが一番乗りやね」

 約束の時間より少し早くに堂々と窓から入ってくる。まるでそこが入口であることが常識のような顔をして。

「あぁ、顔色が随分良ぉなってるやないの」
「なんでそれを…。て言うか窓から入ってきちゃダメだよ!?」
「あたしがほんまにいっぺんも隊舎牢行かんかったとでも思うてるん?あかん言われたら見に行きたなるんが人の性やろ」
「ドヤ顔で言う事じゃないと思うな…」

 あいも変わらず我が道を往くリサに夏樹は苦笑いを零す。この感覚が懐かしくて目を細めていると、リサは不服そうな顔で夏樹を睨んだ。

「あたし、言うたやんな。生きて帰っといでって」
「…うん」
「内心、諦めとったんとちゃうのん」
「そ、れは…否定できないような、したいような。でも帰りたいって、思ってたよ」
「もう勝手に死にに行きなや、ほんまに肝冷えたんやから」
「ごめんなさい」
「…分かればええよ」

 リサはため息をついた。次はないで、と続けて。厳しい口調で、けれども目元は柔らかい。そんなちぐはぐしたところがリサらしくて夏樹は顔を綻ばせた。

「何わろてんの」
「リサさんに会えたのが嬉しくて」
「……それ、真子に言うたら」
「イタタッ」

 リサは照れを隠すように顰め面で夏樹の眉間をぐりぐりと指で押した。
 2人がじゃれているとコンコンとノックの音がする。どうやら面会時間が来ていたらしく、夏樹はしゃきりと背を伸ばす。

「アホんだら!!!!」

 第一声は罵声だった。

「ひよ里ちゃ、ん」
「なんでうちを助けた奴が死にかけるんや!!!」
「ひぇ…」
「くぉら、病室やぞ。静かにせんかい」
「しかも面会先に出来たんがこンのハゲだけ言うんが余計気に食わんわ!!」
「オマエとは格が違うんですゥ〜」
「ンッのハゲェ!!!ちゅーかなんでリサが先に部屋におんねん!!」
「静かにしろつってんだろ!」
「ンに”ゃッ」

 後ろから来た羅武がひよ里に拳骨を落とす。

「元気そうだな」
「やぁ、お見舞いにどうぞ」
「わ…!かわいい、ありがとうございます!」

 ローズは淡い色合いの小さな花束を夏樹に手渡す。

「ひよ里、オメーはちゃんと言う事あんだろ」
「ひよ里ちゃん…?」
「………おおきに」

 ひよ里は頬を赤らめながら思い切りそっぽ向いて呟いた。唇を突き出した不服そうな顔をするのは彼女が照れた時の癖だった。

「えっ、と…?」
「うち助けて死なれたら寝覚め悪いやんけ。早よ元気なってや」
「…うん、ありがとう」

 夏樹はまだ顔の赤いひよ里を見てゆるゆると口元が緩んでしまうのだった。

―虚圏に行ってなかったら、きっとみんなの言葉も上手く受け止められなかった

 ふわふわとした空気の中、そんな事を考える。生き残ってしまった自分を心配してくれる人が沢山いることを正面から受け入れられた。それは心の整理が少しだけ進んだ事を意味する。
 夏樹は一息吸い込むとひよ里とゆっくり目を合わせる。

「あのね、ひよ里ちゃん。もうお姉ちゃん、千代はいないの。私を守って逝っちゃったの」
「ん」
「だから、その…私、お姉ちゃんが残してくれた分大事に生きようと思うの」
「………あんたが残ってゴメンナサイ謝るんやったらしばき倒したろ思うてた」
「!」
「ちゃんとあいつから貰ったもん、大事にしとるんやったらそれでええわ」

 ひよ里はワシワシと夏樹の頭を乱暴に撫で回した。

―傷付いたままでいい、治さなくていい、悲しんでいい、寂しく思ってもいい。…お姉ちゃん、私もう少しだけ頑張ってみる

 雑な手つきのひよ里の手を握ると、夏樹は照れ臭そうにはにかんだ。

―もう少しだけ、生きてみるよ

「夏樹ちん、そだそだ。おはぎ持ってきたよ!」
「ありがとう、白ちゃん」
「ゆっくり養生してくだサイネ」
「はい、ありがとうございます」

 ハッチは先日生まれたばかりだという子猫の写真を見せてくれた。ぶち色と黒色の猫が2匹、仲睦まじげに寝ている写真だった。
 ワイワイとした部屋の中で皆好き好きに騒ぐ。ほんの少し前は毎日見ていた光景で、懐かしさに胸がじんわりと温かくなる。
 安堵も相まって夏樹はうつらうつらと瞼が降り始めた。夜中に虚圏に行っていた所為もあって睡眠時間が足りていなかった。皆んなとまだまだ話していたいと思いつつも眠気には勝てない。幸せな空気に包まれながら、夏樹はゆっくりと意識を手放した。

「あれ、夏樹ちん寝ちゃった?」
「オマエらがぎゃーすか騒ぐから疲れたんやろ。ただでさえ睡眠時間足りとらんのに」

 平子はそう言いながら大きな欠伸をして眦を擦った。

「なんでアンタまで眠そうにしとんねん」
「んぁ?」

 平子も瞼が半分しか開いていない。椅子に座ったまま、頭を窓の鴨居に置いてうつらうつらとし始めていた。

「しゃーないやろ、虚圏から帰ってきたばっかなんやぞ…」
「虚圏になんてなんの用事があんだよ」
「夏樹がなんも言わんからやなァ…」
「は?」

 仲間内で気が抜けているのか平子はもう話すのも煩わしそうな雰囲気を醸し出す。暖かな日差しの差し込む中、平子の意識は浮いたり沈んだりを繰り返していた。

「家族死んでも…泣けへんアホほっとけ、るか…」

 その言葉を最後に眠ってしまったようで規則的な寝息が聞こえてきた。

「あー……」
「あたしらしか関わる人間おらんかったから忘れとったな…このアホの世話焼きお節介人誑しの三拍子」

 リサはジト目で平子を睨む。気持ちよさそうに眠る姿に蹴りを入れたくなるのは仕方ない衝動だと思う。羅武もやれやれといった様子で肩をすくめた。

「本人の自覚が甘いのが良くも悪くもなんだよな」
「うち、流石に夏樹に同情するわ」
「まあここから先は本人たちの問題だから、オレらは二人の選択を見守るだけだろ」

 羅武の答えにひよ里はため息をついて、しょーもなと呟いた。

「二人のこと、ひよ里は反対するのかと思っていたけれど、そうでもないんだね」
「…夏樹は人の心に土足で踏み荒らすような奴でも、受け取ったもんを疎かにする奴でもないやろ。せやったら後悔せん選択を選べばいいだけの話や。うちがどうこう言う筋合いはあれへん」
「お、随分大人な意見言うようになったじゃねえか」
「うちは元から大人や!ふざけとんか!!」

 羅武に食ってかかるひよ里にハッチはシィと人差し指を立てる。

「お二人ともお疲れのようデスカラ、お暇しまショウ」
「そうだね」

 まだ文句言いたげなひよ里の首根っこを羅武が掴むとそのまま一同は退室した。病室に残されたのは真冬の厳しさを和らげる穏やかな日差しだけだった。


 = = = = =


 翌日からも見舞いの足は絶えなかった。ルキアを始めとした尸魂界で出会った死神達や織姫たちがお見舞いの花や菓子を持って訪れる。
 中でも1番加減の利いてないのは浮竹で、籠に山盛りの菓子と果物を持ってきて卯ノ花から小言をもらっていた。流石に食べきれないので見舞いに来てくれた人に分けていくことになる。

「私を守った礼もロクにさせず、相談もせず、本当に許すまじき愚行だった。…だが、懸命だったのだろう。ちゃんと帰ってきたから…もう何も言わぬ。無事で本当に良かった」
「先輩の怪我本当に酷くて…私、私…!治って、本当によかったです」

 叱られ、涙を流され、安堵され、数々の感情がぶつけられて、夏樹は自分のした事が周りを随分と掻き乱していたことを実感する。

―それでも。私は虚圏に行ったことに後悔はしてない。何も知らないままお父さんと刃を交える事がなくて良かったって思ってる。自分の選択が間違いだったのか正しかったのかはわからないけど

 あくる日、ノックの音で夏樹は目を覚ます。面会にしては随分早い時間で首を傾げながら返事をする。

「や!」
「へ…?え、え…?」
「ちょっとぉ、何よ。その間抜けな返事は」
「え、えぇ!?」
「こンのバカ娘!!!」
「おばあちゃんも!!?」

 扉の向こうには何故か汐里が立っていて、その奥から祖母がずかずかと病室に入ってくる。突然の出来事に脳の処理が追いつかない。
 パンッと乾いた音が動揺している夏樹の耳から脳へ遅れて届く。

「…どれだけ、どれだけっ!心配したと思ってるんだい、大馬鹿者!!!」

 ジンジンと熱を持つ左頬をぼんやりと押さえて荒ぶる祖母に夏樹は瞬きを繰り返す。叩かれたと気付いたのは祖母が酷く震えていたのを見てからだった。

「おばあ、ちゃ…」

 ぼろりと涙が落ちる。ごめんなさいと涙声で嗚咽まじりに叫びながら祖母に抱きついた。
 もう二度と会えないことすら覚悟していたから、厳格な祖母が涙を流すほどに心配をかけていたのだと気付いて涙が止まらない。見ない間に痩せたように見えた。それがさらに罪悪感と自分を想ってくれた嬉しさと相まって涙腺を決壊させる。

「二度とこんな真似するんじゃないよ…」
「うん」
「馬鹿な孫のせいで寿命が10年は縮んだね」

 やれやれといった口調で祖母は夏樹の額を小突く。ようやく落ち着いた嗚咽に、思い切り夏樹は鼻をかんだ。

「私はテストの成績がガタ落ち〜」
「それは元からじゃない?」
「ばれた?」

 そんな軽口が飛び交う病室の空気は和やかだ。ショリショリとリンゴを剥く音が心地いい。

「あ、おばあちゃん、ウサギさんに切って!で、どうして二人がこっちに…」
「あぁ、それは…」
「毎日毎日ピーピー喚いてやかましいからこっち連れてきた方が早いやろ思うてな」
「平子くん!」
「ほんまはもうちょい早よ手続き進めれたら良かってんけど、ほんまお役所は面倒なことばっかやで」

 やる気のないいつもの表情で平子は夏樹たちに近づく。

「今後の方針が決まってな。年明けには退院や。ただ魂魄の状態は正直まだあんまり良うないらしい。しばらくは週一くらいでこっちに通ってもらわなあかんわ。現世に戻って実際体調がどうなるかも分からんから経過観察は続くんやけど」
「そっか…ありがとう」
「ほなオレはまだやることあるしゆっくりして行き。昼過ぎには帰るからそのつもりでな」

 平子は去り際に皿に盛られたリンゴを取ろうと手を伸ばす。

「これ、行儀悪いことするんじゃないよ」
「イダッ」

 祖母は平子の手を叩き落とすと爪楊枝を刺していく。

「ほら、こうして食べなさい」
「おー、ばあちゃん厳し」
「文句があるならいらないんだね?」
「うそうそ、ありがとうございますゥ!」

 そんな軽口を叩きながら平子は病室を去っていった。程なくして入れ替わるように卯ノ花が入ってきて、祖母に今後のことで説明があるからと声がかかる。
 病室に二人きりで残されて、しんと音が静まる。夏樹はひとつ息を大きく吸うと、汐里と目を合わせた。

「怪我とか、しなかった?」
「擦り傷擦り傷くらいはね。アンタに比べたら無傷みたいなモンよ」
「そっか、良かった…他の人たちも」
「無事よ無事。黒崎一護も含めてみーんな無事!ちゃんと学校にも来てる」
「よかったぁ…」
「あんたが1番重症よ、バカ」

 話には無事であることは聞いていたものの、本当に無事なのか実感が持てず仕舞いだった。夏樹は安堵すると同時に、ずっとずっと考えて決めたことが、ほんの少し前倒しになっただけなのだと手を強く握る。

「汐里、あのね」
「うん」

夏樹の纏う空気が変わったのを察して汐里も真剣な表情で夏樹と向き合う。

「私、平子くんのことが好きなの」
「…うん」
「一番に、汐里に言わなきゃって思って」
「うん」

 声が震えるのを必死に律する。汐里は真剣な表情で夏樹の言葉が続くのを静かに待っていた。

「これから自分が何をどうしていきたいのかも、分からないんだけど。でも、もう隠し事も嘘もつきたくないから。それに、約束、したでしょ?」

 夏樹はそこまで言って視線を下げた。ごめん、と小さく呟く。

「…夏樹って変なところで律儀だよね。私も話さなきゃいけないことも、話したいこともいっぱいあるよ」
「汐里…」

 困ったように汐里は眉を下げて笑う。

「あのね、真子に振られてきたの」
「……!?」
「初めて虚と真正面から襲われた時も、あんたのお父さんに会った時も。怖くて怖くて仕方なかった。私、あんな世界で一緒にはいれない。血塗れになった夏樹を見て、正直もう二度と死神とか霊なんて関わりたくないと思った」

 当然の事実に夏樹は言葉を失う。死にかけたのは自分だけではないのだと気づく。汐里も同じだった。

「だから、もう真子の後ろにくっついて子供みたいな恋愛するのはおしまいにしたの。元から私のこと見てないことくらい、知ってたし」

 馬鹿だよねえと汐里は笑う。夏樹は一度口を開いてまた閉じる。違う、それは違うのだと声を出そうとして迷ってしまう。

「思ったこと、ちゃんと言って?」
「…っ!子供みたいとか、そんなんじゃないよ…!汐里の気持ちは、大事なものでしょ…!?」
「……そうでもないよ」
「気持ちを蔑ろにしないで…!」
「なんで夏樹が怒るのさ。ふふ、変なの」
「だって!」
「いやあ、2ヶ月も経つと気持ちの整理もできるってもんさ。…まぁほんとはちょっとまだ辛いけど。でも、真子には感謝してる。こうして夏樹のお見舞いにも連れてきてくれたし」
「う〜…」
「そんな顔しないでよ。ライバル減ってよかったじゃない」
「そういう問題じゃないもん…」

 不貞腐れる夏樹に汐里は口元を緩める。

「ま、早く帰ってきてよ。あんた留年確定してんだしクラスメートなのあと3ヶ月もないのよ?」
「はぇ?」
「二学期丸ごと休んだらそりゃ留年確定よぉ。流石に補講でどうにかならないって。あ、浦原さんが失踪してた間のことも病欠ってことにしてくれてたから」
「待って、待って!?」
「学校のこと忘れてたの?部活は普通に顔出してよね」
「……うぇえ、行きたくない…」

 ガックリと項垂れる夏樹をけらけらと汐里は笑う。柔らかな日差しが病室に差し込む。空は穏やかに晴れていて、凍てつく冬の寒さから守るようだった。