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 漸く現世に戻る日が来た。見送りに、とやって来た平子も今日から正式に復隊し隊長羽織を羽織っている。

「どや、似合うやろ」
「うん…そうだね、似合ってる。髪はもう伸ばさないの?」
「………ひよ里に似合わんからやめろって言われた」

 苦虫を噛み潰したような表情で悔しげに小さく答えた。そんな平子を夏樹はくすりと笑ってしまう。

「相模!」

 穿界門の前で準備が整うのを待っていると聞き慣れた声がして振り返る。

「ルキアちゃん!」
「気を付けて戻るのだぞ。またこちらには来るのだろう?」
「うん、多分しばらくは」
「なら次は私の好きな甘味処に連れて行ってやろう。現世の“白玉くりーむぜんざい“にも“ふるーつたると”にも劣らぬぞ!」
「ほんと?それは楽しみかも」

 二人でわいわいと話しているところに、ぽつりぽつりと見送りの影が増える。浮竹や京楽、恋次の姿もあった。

「夏樹さん。これ、よかったら」
「イヅルさん!これは…干し柿?」
「うちの隊舎にある柿で毎年作っていたものなんだ。作ったばかりでいい具合のものが少なくてこれしか渡せないけど…」

 干し柿、毎年作られていたもの。それは夏樹の遠い昔の記憶にギンと一緒に食べたものと同じ拵え方のものだった。あの時の干し柿と同じ柿の木のものかもしれない。

「…いいんですか?もらっても」
「きっと君が食べてくれたら喜ばれるだろうから」
「ありがとうございます」

 誰が、とまでは口にしなかったがその気遣いに夏樹はゆるりと頬を綻ばせた。
 平子が夏樹の肩に手を置く、時間が来たと。

「お世話になりました!また週末、お伺いします」
「何か異変があれば週末を待たずこちらに来るようにしてくださいね」
「はい」

短かったようで長かった尸魂界での滞在。漸く現世に戻れるのだと喜びを噛み締めながら断界を歩く。
 夏樹たちが断界を出た先は現世のあの勉強部屋だった。出口には汐里と祖母が浦原とともに待っている。

「ただいま!」
「おかえり、夏樹!」

 祖母が顔を顰めながら門をにらんでいた。

「本当にあの子がいるのかい?何かうすらぼんやり霞んでいるけれど」
「うん、いるよー」
「さっさと見えるようになってくれんと落ち着かないね」

夏樹はそういうことか、と未だにこちらを睨む祖母に苦笑いを零す。

「さて、死神から人間に戻れますか?」
「はい………あれ?」

 長期間人間に戻っていなかったから、と言う訳なのかまでは分からないが体が元に戻らない。夏樹は困り果てて浦原に視線を送った。

「やはり無茶した影響が出てますねェ。こっちの変換器通りましょうか」
「はい」

 冷や汗をかいたものの一瞬でそれは解決されてしまう。このまま人間に戻れなかったらどうしようかという疑念は杞憂で済んだ。
 恐る恐るといった調子で変換器を通った瞬間、出てきた夏樹の体は大きく傾いた。

「!?」
「おっと」

 平子がすかさず抱きとめに入る。地面にぶつかるのは阻止できたものの、夏樹はくたりとしたまま指一本動かせずにいた。意識ははっきりしているのに脳のシグナルが何一つ体に届かない。

「う…ぇ…?」
「平子サン、相模サンに霊力の譲渡を」
「やっぱりなぁ」

 絡んだ手から温かい力が注がれて夏樹は気持ち良さげに目を閉じる。じんわりと体の感覚が少しずつ戻っていく感覚に心底安堵した。

「ど、うして…」
「あの戦争で無茶しすぎたツケやな。生きとるだけでも儲けモンってことやろ」

 身体が温まり夏樹はようやく上体を起こした。心配そうな汐里と祖母が視界に入る。

「斬魄刀は…」
「ちゃんとある。安心せえ。まあ、もう使うだけの霊力が使えんならあってもただの刀やけどな」
「相模サン、崩玉は今アナタ自身が制御する力が殆ど消失している。死神の力の行使も難しいでしょうし、極力霊圧の操作もしないでください」

 浦原は淡々と状況を語る。その後、軽い口調でこう続けた。

「ま、これからは普通の人間として生きていくんス。困ることもないでしょう」
「大丈夫なんだろうね」
「ええ。アタシが簡単には死なせませんので」
「……信用できるのかい、この男は」
「お、おばあちゃん!もう!」
「喜助が胡散臭いんはしゃーないやろ」
「いやあ、アタシ、ちょっと怪しい駄菓子屋のハンサムエロ店主で通してるんで」

 語尾を上げて楽しそうに笑う姿に祖母はますます眉間のシワを深くする。

「浦原さんも事態をややこしくしようとしないでください!!」
「はは。これは霊力増強剤です。毎食後にどうぞ」
「なんでオマエ薬瓶に毎度毎度ドクロマーク貼るんや…」
「趣味っス!身体のだるいときは無理して動かず寝て休んでください。週末、また尸魂界に行って調子を整えましょう。薬での回復には限界もあるんで」
「はい」
「ほなオレは戻るわ。なんかあったらラブらも現世におるから頼ったらええ。また週末な」
「平子くん、ありがとう!」
「おー」

 平子は後ろ手にひらひらと手を振りながら穿界門の奥へと消えていった。

「さて、上までテッサイに連れて行ってもらいましょっか」

 座り込んだままの夏樹をテッサイは軽々しく持ち上げた。反対の腕には祖母を乗せて。


= = = = =


 結局、少し休んでから自宅に戻った。家を出てから4ヶ月が経っていた。塵一つない自室を見て、一体どんな心境でこの部屋を長い期間綺麗にしてくれていたのかと思うと罪悪感で自分を殴りたくなった。
 そっと本棚に手を伸ばすと、あの時書いた手紙が出てくる。誰にも見つからなかったことにほっとしながら、二つをシュレッダーにかけてしまった。この手紙はもう必要がないから。もう二度とこんなものを書くこともないから。

―戻ってきたんだなぁ

 ぽすりとベッドに体を投げる。死神になれないか試してみたけれどやはりそんな挙動は微塵も起きない。霊感はまだあるし、霊圧の探知も意識をそちらに傾ければ問題ない。けれど自分の動かせる霊力は本当にわずかしか残っていない。
 覚醒した崩玉を制御しないことには身体が保たないにも関わらず、夏樹の身体は膨大な霊力を操作するだけの耐久力はない。薬や尸魂界での治療があったとして、根本的な解決方法を見つけないことには変わりない。

―私、いつまで生きていられるんだろう

 それは漠然とした不安と予想。自分の寿命が短いという確信はいまだ払拭されない。

―前はどうせ死ぬならって思ってたけど。今は死にたくはないなぁ…私を大切にしてくれている人がいるのなら、それに応えたい

 夏樹はゆっくりと目を閉じてぬいぐるみを不安と一緒に抱きしめる。平子の温かい霊圧の記憶をなぞって、目を閉じた。


 = = = = =


 幸いにも予定通り週末まで大きな体調の崩れはなかった。ただ、日常生活がやっとのところで学校にはまだ行けていない。身体が怠く重いので動かすのも億劫で、拍車を掛けるように眠気が襲うものだから仕方がない。
 浦原曰く、霊力の低下により体力が著しく落ちているとのことだった。要するに、しばらく現世に身体を馴染ませるのに時間が掛かるというだけの話で特に此れと言って深刻なことはないらしい。
 家の中を歩き回る程度にしか体力の回復ができていない夏樹を迎えに来たのは現世に残った羅武だった。

「おっす、体調はどうだ?」
「ぼちぼちですねぇ」
「じゃあ行くか。ばあさん、明日には返すからよろしく」
「あぁ、頼んだよ」
「行って来まーす」

 羅武は夏樹を背負うとひょいひょいと空を駆けていく。

「そういやその髪留めどうしたんだ?確か壊れたんじゃ」
「浦原さんに作り直してもらったんです」

 千代の魂魄が刻まれたあの石は千代と共に役目を終えたのだと、気が付けば消えてしまっていた。あの石は外部と内部の両方から崩玉に干渉することで力を制御していた。同じ機能のものはもう作れないが、同じ見た目のものを浦原が作ってくれたのだった。

「お姉ちゃんはもういないけど、やっぱり大事なものだったから。同じデザインでお願いしちゃいました」
「似合ってていいと思うぜ」
「ありがとうございます」

 この石でできることは周囲に霊圧が漏れないように調整して、虚との接触を減らすことだけ。崩玉に直接影響を与えるような機能はなかった。
 そうだとしても、夏樹にとって自分を守ってくれた母と千代の意志の象徴だった。例え見た目を真似ただけのものだとしても、強く生きようと自分を奮い立たせるのに十分だった。二人の祈りを受け止めて、繋いでいこうとそう思えるのだった。
目に見えぬ傷痕は傷痕のまま、膿む日もあれば、きっといつか痛みを感じない日が来ることもあるかもしれない。凍てつく寒さの中にある柔らかい日の温もりに目を細めた。いつか、この傷ごと自分を愛せるようになればいいと願いながら。