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「あれ、京楽サンこないなとこで何してんの」

 茶屋から出てきた京楽がしまったという顔で平子に笑いかけた。

「あちゃー、見つかっちゃったか」
「サボってたら七緒チャンに怒られんでぇ」
「いやぁ、忙しくってついねぇ。息抜きしたくなっちゃった。平子くんこそこんなところでサボりかい?」
「オレは打ち合わせの帰りですぅ。ま、歩いて帰ってるあたりサボりと大して変わらんのやけど」
「はは、確かに」

 七緒チャンも大変やなぁと漏らす平子に、そうだ!と紙袋を手渡した。

「これあげるよ。ボクは向こうに行ったって言っといて」
「なんやこれ」

 紙袋を開けるとどら焼きいくつか入っているのが見えた。

―どら焼きなぁ…夏樹、どら焼きも好きやろか。甘いモン好きやし好きそうやなぁ

 ちょうど明日は夏樹が来る日だと思い出して、ふむと平子は思案する。

「ふふ」
「ん?」
「いや、随分柔らかい表情するもんだなと思って。誰と食べるつもりだったのかな」

 見透かしたような表情で楽しげに笑う京楽に、平子はくしゃりと眉間にしわを寄せた。

「七緒チャン、もうそこまで来てんで」
「うぉっと、のんびりしてらんないねぇ。じゃあまた」

 瞬歩で京楽が消えたすぐ後に息を切らした副官が姿を現わす。

「平子隊長っ!うちの隊長見ませんでしたか!?」
「おー、さっき会うたで」
「どちらに!?」
「んー、答えてあげたいんは山々なんやけど、賄賂もろてしもうたんよなぁ」

 紙袋をぶらぶらと提げて見せると七緒は眉根を寄せる。

「まぁカッカしーなて。美人サンが台無しやで、ほれこれ食べえな」

 ぽん、とどら焼きを1つ七緒の手に乗せる。

「ええ天気やから隊長サン、どっかの屋根で昼寝でもしとんちゃう?陽当たりのええとこで」
「平子隊長も早くお戻り下さいね、雛森さんが探していましたよ!」
「…はーい」

 七緒が去った方にヒラヒラと手を振りながら小さな背中を見送った。


 = = = = =


 もう随分と週末に夏樹に会うことにも慣れてきた。崩玉の根本的な解決策は2ヶ月経った今でも見つからない。それでも体調は順調に回復していて、ようやく体育の授業にも参加できるようになったのだと嬉しそうな顔で報告されたのは耳に新しい。
 マユリはマユリで効率の良い霊力の増幅方法なんかを開発できたらしく非常に機嫌はいい。夏樹を実験台にされるのはたまったものではないが、本人に負担さえなければ文句もない。1泊していたのが夕方には帰れるようになったし、このペースだと2週間に1回でも良くなる日も遠くないそうだ。

「夏樹、夏樹!起き」

 平子は夏樹の体を強く揺する。浮竹の別邸で休んでいる中、少し席を外して戻ってくると夏樹が酷く魘されていた。
 薄っすらと目を開けて青白い顔のまま平子をぼんやりと見つめる。

「……大丈夫か?」

 夏樹は無言で身体を起こすとゆっくりと顔を手で覆った。現実から目を背けるような素振りで。呼吸が少しずつ落ち着いていく。行き場のない平子の手は夏樹の背の上で止まったままだった。

「…大丈夫」

 体は小刻みに震えているまま、夏樹は顔を上げると口角を無理やり上げていた。

「全然大丈夫な顔とちゃうやんけ」
「……手、借りてもいい?」
「ん」

 以前よりも自分に助けを乞うことに躊躇いがなくなったようで、平子は心中で喜びを感じつつ手を差し出した。冷えた両手が平子の右手を遠慮がちに掴む。縋るように膝の上で重なる手に頭を垂れさせる。
 生きてる、と溢れた小さな呟きに平子は思わず左手で夏樹の頭を撫でる。

「生きとるよ」
「うん」
「何の夢見てたんや」
「……わかんない。でも、血でたくさん、濡れてて…わたしの手も血塗れで、みんな、みんな死んじゃって、わたし、」

 震える手に籠る力が強まる。

「真っ赤な海で、溺れて、苦しくて、」

 支離滅裂なまま溢れていく単語を拾いながら、あの戦争の傷跡の深さを痛感させられていた。

「あの戦争の、要の腕の重さも、お父さんを斬る感触も、何もかも、消えない」

 ぽたりと手の甲に落ちた生温い涙に夏樹はハッとしたようで、袖で乱暴に涙を拭った。

「っあ、情けないこと言った…ごめん」
「…アホ、あの日のこと何ともないて言う方がおかしいやろ」
「でも、もう何ヶ月も前の話だよ」
「100年経っても忘れられへんことばっかりなオレに言うか?」

 揶揄うような口調で言ってみたが、夏樹は視線を左右に動かしただけだった。

「抱え込んだまま生きてくしかないねん。ただ、少しずつ少しずつ、感情も記憶も薄れてく。辛抱せえ言うのも変な話やけど。まぁ、気の遠くなるくらい時間のかかる話や。しんどい時はしんどい言うたらええねん」

 もう少し休み、と布団に入るよう促す。

「また魘されとったら起こしたる。せやから少し休み。起きてたらずっと思い出してまうやろ、身体に毒や」
「……うん」

 不安そうな表情の夏樹の手を取る。眠りに落ちやすいように繋いだ手に霊圧を込めれば、眉間のシワが少し緩まる。

「平子くんの、手…あったかい」
「ほーか」
「うん」

 夏樹の瞼はゆっくりと上下を繰り返す。額に手を置くと気持ちよさそうに目を閉じた。規則的な寝息になって平子はホッと息をつく。

―オレの手は睡眠導入剤かちゅー…まぁええねんけど。こうしてる間はゆっくり寝てくれるし

「おやすみ」

 柔らかな雨音をBGM代わりに平子は読みかけていた本を開いた。
 この静かな時間が嫌いではなかった。夏樹の霊圧は柔らかい。暖かい春の陽射しの下で日向ぼっこをしている時の空気に似ている気がした。
 体調も良好に回復しつつある今は一日の休暇中、付き添う必要はない。ただ、疲労感の中昼寝をするのも気持ちがいいし、そのあとの雑談も何となく居心地が良くて居座ってしまっていた。時折こうして魘されるのを見てしまうと堪らなく心配になってしまう。結局のところ夏樹の隣に留まらない理由がないし、留まる理由ならいくつもある。必要はないけれど、理由があるから、理由を作り上げては週末を共に過ごしていた。
 小一時間ほど眠った後、夏樹の顔色は随分良くなった。浮竹の差し入れの菓子を片手に話に花を咲かせる。

「でね、もうすぐ春休みなんだけど、卒業前ライブやろうって話になって。まぁ誰もうちの部から卒業はしないんだけど」
「誰も卒業せんのに卒業ライブてなんやねん」
「だよねえ」
「何演奏すんの」
「今回は割と有名どころセレクトだよ〜リスト今度持ってくるね。来れたりする…?」
「んー、行きたいんやけど休み取るん厳しいやろなぁ…やっと体制整ってきたけどまだゴッタゴタなんやわ」
「そっか」

 夏樹は少し残念そうに笑った。

「せや、体調も割とええ感じやし出歩いてかまへんでって許可もうてきた」
「えっ、いいの?」
「やって1日ここおるんも暇やろ」

 夏樹は少し首を傾げたあと、慌ててそうだね、と答えた。

「なんやのん、今の間」
「や、退屈とかじゃないよって…」

 そう続けてから台詞は尻すぼみに小さくなる。顔を真っ赤にさせて、手を振った。

「今のナシ!!」
「ナシってそしたらこの時間が退屈ちゅーことなるけど?」
「意地悪言わないでよ!」
「はいはい、悪うござんした」

 視線を泳がせたまま顔を赤らめる少女の反応は初心で擽ったい。

「ルキアチャンに甘味処に連れて行きたいて言われてなぁ。来週、楽しみにしとけやと」

 そう伝えれば夏樹は顔をぱあと輝かせて嬉しそうに頷いた。

「で、今日のおやつはどら焼きな。京楽さんにもーたやつ」
「なんだか貰ってばっかりだなぁ」
「ええねんて。オッサンは若い女の子甘やかすんが趣味なんやから」
「平子くんも?」
「アホ!どっからどう見てもオッサンとちゃうやろ!」
「100年以上生きててもオッサンじゃないの?」

 揶揄うような視線に平子はカチンときて夏樹の顎を人差し指でくい、と上げると視線をぶつけさせる。

「オレがオッサンなんやなくてオマエが子供なだけや」

 数秒見つめただけで夏樹の顔はすぐに赤らむ。夏樹はムッとした顔で平子の鼻を手のひらでベシンと叩いた。

「ッタァ!」
「平子くんのバカ!オッサン!」
「だァから誰がオッサンや!」
「邪魔すんでー、真子」

 障子が開くと同時に平子は思い切り前のめりに倒れた。背中に衝撃が走った後、尻にも追撃が決まる。

「何すんねん!オレのケツ割れてまうやろ!!リサ!」
「ケツは元から割れとるやろ、アホ」

 リサに思い切り蹴り上げられた尻をさすりながら、平子は起き上がる。転けた拍子に顎もずり剥いたのか赤く擦れている。

「どうしたの?」
「暇やからシンジで遊ぼう思ってな」
「オレをオモチャにすんなや!」
「ひよ里がおらんで刺激足らんやろ?」
「平和なオレの日常を邪魔せんでええわ、せーせーしとるし。早よ帰れや」
「私はリサが来てくれて嬉しいよ。ね、どら焼き半分こしよ」
「ん」

 夏樹はぱかりとどら焼きを割るとリサに渡した。

「なんや。いつの間に呼び捨てなっとんの」
「へへ〜リサだけじゃないよ。ひよ里と白もだよ」
「なんや真子、羨ましいんか」
「なんでやねん」
「うちらの中で名前で呼ばれてへんの真子だけやで。拳西もローズもハッチも名前やん」

 リサはニヤニヤとしながらどら焼きに口を付けた。平子は思い切り眉を顰めながら、別にローズとハッチはあだ名やろと付け足してリサを睨んでいた。

「付き合い一番長いアンタがいっちゃんよそよそしい呼び方やな。夏樹、名前で呼んであげやぁよ」
「え、っと…それは、その、ちょっと」
「ふっ、嫌われとんの」

 至極楽しそうな顔でリサはどら焼きを頬張る夏樹の顔をふにふにといじる。

「真子て呼んだりぃよ」
「うぇえ」
「ホイ、呼ぶまでボッシューウ」
「あっ」

 リサは夏樹の手からどら焼きを奪うと夏樹の頭に顎を乗せた。

「早よせな食べてまうで」

 そう言うリサの手にはもう夏樹のどら焼きしか残っていない。

「………真子」

 目をきつく瞑って赤らんだ顔をして夏樹は細い声を出す。弱いようで澄んだ声は平子の耳にしっかりと届いた。

「返してっ」
「あんたほんま揶揄い甲斐あんなぁ」
「私で遊ばないでよ!」

 平子は自分の中で何かがぐらりと傾く感覚に目眩がした。俯きがちにどら焼きを頬張る夏樹は気付いていないだろうが、リサは平子の顔を見て愉しげに口角を上げていた。

「あかんわ、アホ」

 不満げな表情のままリサを睨む。平子は顔に熱が集まりそうになる感覚を悟られぬよう取り繕う。

―リサに1本取られたわ、腹立つなァ