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 あの時の足の裏に地面が着いていないような違和感はもう薄れた。副隊長も復帰して、ドタバタと仕事に追われているものの隊として形になりつつある。冬の寒さが厳しい中、平子はフラフラと商店の多い区画を歩いていた。

―もうホワイトデーなんよなぁ

 100年も経てば店並びも変わる。以前より雑貨屋やアクセサリーの店が増えたのは女性の隊士が増えた影響だろうか。
 平子はいくつかのハンカチや簪を手に取るもすぐに棚に戻してしまった。

―自分がこないにビビりやったなんて、我ながらびっくりするわ

 重たい足取りで雑貨屋を離れると、茶屋の前で足を止める。並ぶ洋菓子が現世の文化が少しずつ入ってきていることを示していて、時代の移り変わりをまたしても感じていた。

「おっちゃん、このみかん大福とクッキーとほうじ茶で」

 出された和菓子に口をつけ、あぁこれなら夏樹も好きそうだと舌鼓を打つ。
 『モノは残るから錆になる』と、それはいつか言った言葉。千代が死んだことになってからの数年間、千代の物を見るだけで心が張り裂けそうで何度も死にたくなった。現世に落ち逃げた時も千代の形見の櫛を見てはむざむざと部下に伴侶を殺された怒りと絶望に苛まれ続けた。戦火で櫛が焼失してしまった時も、再び彼女を殺してしまったようで眠れぬ日々が続いた。
 いつしか、他人から物を貰うのも贈るのも酷く臆病になってしまって、元から形の残らないものしか渡せなくなっていた。

―錆になるから、あかんねん

 物に宿った記憶は消えぬ証として残り続ける。もう2度と戻らぬ残酷な軌跡として。
 平子は部下への差し入れにいくつか大福を買うと、腹の中に重たいものを抱えたまま店を後にした。


= = = = =


 引き継ぎをしているときっちりと整理された書類の端々から藍染の気配がする。効率のいい書き方で埋められた書類やその書類の様式から記憶が掘り起こされていく。

―この世界には藍染の影が多すぎる

 平子はため息をつきながら書類の山に視線を戻す。真面目のお手本のような性格の副官は隣で今日も鬼のような速度で書類を捌いていた。

「桃、ちょお休憩にしよか」
「はい。お茶入れてきますね!」
「あーあー、桃はそこのソファ座っとき。茶ァくらい入れたるから」
「いえっ、隊長に入れていただく訳には…!そもそも隊長、お茶っ葉がどこにあるかご存知ですか?」
「あ、知らんわ。ほな一緒に入れよか。教えてぇな」
「はい!」

 給湯室の戸棚を開ければ整頓された茶葉が並ぶのが見える。手際よく用意する雛森の隣で、平子は戸棚の奥の方にある缶を手に取った。その瞬間、雛森は動揺で霊圧がぐらりと揺れてしまう。

「藍染の飲んどったヤツやろ。昔もよう飲んでたわ、このクッサい茶」

 ちらりと視線を投げて、缶の蓋を開ければドクダミの独特な香りが漂って平子は顔を顰めた。

「やっぱクッサぁ、こんなんよう飲むよなぁ。オレは普通のがええわ」

 雛森は返答に困って苦笑いを返す。缶を元に戻す時に平子はぽつりと独りごちた。ほんまにこれは好きやってんな、と。
 その声色はほんの少し哀愁を帯びていて、怨恨の情は滲んでいなかった。嘘と真実が入り乱れた100年前、何が真実だったのか知る術は藍染の胸中にしかない。けれど残されたものが時折、嘘と真実を照らし出すような気がした。
 平子が棚に缶を戻すと雛森はあ、と小さく声をあげた。

「ん?」
「あ、いえ…捨てないんですか?」
「んー…ここは別にオレの管理ちゃうし。桃の好きなようにしといてえな」

 その言葉に雛森は少し目を見開くと、小さな声で返事をした。藍染の話題を不自然に避けず、在るが儘に受け入れて相手の選択を尊重する。隊長として平子の器を見せられたようで雛森は尊敬の念が湧いて、胸中が温かくなった。

「昨日大福買うてきてん、食べようや。福寿亭のやつ」
「わぁ、ありがとうございます!あそこは洋菓子も多くて人気店舗なんですけど平子隊長もご存知でしたか?」
「そうなん?そら知らんかったけどアタリの店ならオレのレーダーもなかなかのもんやな」

 冷える廊下を急ぎ足で歩き、執務室に戻る。

「はーーー…にしても、ほんまやらなあかんこと多すぎて嫌なるわァ」

 コキコキと首を鳴らしながら大福に口を付ける。伸びる柔らかい餅に包まれた控えめな甘さの餡が程よいバランスに疲労が少しマシになった気がした。

「ひとつひとつ、片付けていくしかないですね。来月には少し落ち着きそうですし頑張りましょう!」

 平子はソファの背もたれにぐだりと身体を預けた。

「せやわなぁ、ひとつひとつ…」

 向き合わねばならない事柄をいくつか頭に思い浮かべて溜息をついた。


 = = = = =


 後日、昼休みに再びあの商店が立ち並ぶ場所へ足を向ける。いくつかの店を流し見していく中で、ふと平子は足を止める。

―…これ、夏樹に似合いそうやなァ

 淡い蒲公英色で染められた髪紐が目に留まったのだった。日差しが反射するのは僅かに金糸が混じっているからだろう。桃色が差し色に入っていて、春の訪れを告げる組み合わせだと思った。柔らかく笑う彼女には春の色がよく似合う気がした。

―でも、こんなん贈られへんわ。そもそも答え出してないオレが渡してええもんとちゃうやろ

 平子はため息混じりに棚に紐を戻す。

―ほんまは現世行きたいとこやけど休みも取れんしなぁ。あの店で大福とクッキーと買おか

 平子は店主に贈呈用の包装を頼む。目に入ったのは淡い若草色の包み。草原を模した包装紙に背中を押されるように平子は口を開いた。

「……おっちゃん、包むんちょい待ってくれん?すぐ戻るから」

 平子は返事も聞かずに店から飛び出るとさっき棚に戻した髪紐を急いで購入する。きっと今このタイミングでを逃せば、自分は前に進めないことが分かってしまったから。

「これ、これで結んでくれん?」
「お、綺麗な髪紐ですねぇ!任しとくれよ、綺麗に飾るからよ!」
「なるたけ包装の一部に見えるようにして欲しいんやけど」

 店主は平子の変わった申し出にきょとんとした後、にかりと人当たりのいい笑みを浮かべた。

「隊長さん、照れ屋だね?さては。はっは、こりゃあ俺の腕の見せ所だな!」

 あーでもないこーでもないと言いつつも、店主は器用に花を作って箱に結びつけた。箱の隅に咲く花は草原にある蒲公英のようで、思った通り良く映えた。これならきっと、髪紐ではなくただの飾りに見えるだろう。

「これでどうですかい?」
「手先器用やなぁ。おおきに」

 平子は紙袋を受け取ると、空を見上げて息を吐いた。
 願わくば、この贈り物が気付かれませんように。自分が贈り物を買えた、その事実だけで今は十分だった。
 矛盾を抱えながらも平子は夏樹の髪に結ばれた姿を想像してみると、ゆるりと口元が緩む。ふわふわと揺れる彼女の髪によく似合うだろう。
 きっと、いや間違いなく自分は夏樹に惹かれ始めている。平子はそんな感覚に蓋をするように目を瞑った。

―千代の事は忘れられん。今やって、ずっとずっとあいつン事が好きで堪らん。会えるんやったらもういっぺん会いたい。せやのに、

 自分に言い聞かせるように、平子は丁寧に考えを頭の中でなぞっていった。

―もし、そうなったとして、この気持ちは何処にやればええんや。夏樹を…傷付けてまうんは嫌や。せやけど彼奴の事忘れるなんて、そんなもん、無理に決まっとる。千代の事だけやない、ほんまは死神なんかと縁遠い世界で平和に生きててほしいてほんまに思うてる

ーオレにはもう大事なモンがおって、死神で、いつ死ぬかも分からんくて、生きてる世界も違う。好きになんて、なったら絶対あかんやろ

 漸く自然に笑えるようになって心底安堵したし嬉しかったあの瞬間を思うと、情けないほどにこの感情を竦んでしまう。やり場のない感情に翻弄されたまま平子は舌打ちを零した。千代への想いが薄まってしまう可能性も、夏樹を傷つけてしまう可能性も酷く恐ろしかった。

ー傷つけるのが怖い、言うて虚圏行った夏樹のこともう何も責めれへんわ

 どうか、この感情がこれ以上大きくならぬようにと莫迦げたことを願うほかなかった。

ー酷い人間やな、オレは。なぁ、千代。オレの幸せって、なんなん