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 4月。汐里は3年に進級したものの、夏樹は予定通り2年生をやり直しだった。

「一護とね、織姫も一緒なんだよ、クラス」
「へえ」
「知ってる子もいるし、ジャズ部の後輩もいるの。なんだか賑やかになりそうだなーって。汐里と同じ学年も織姫と同じ学年もできてこれはお得なのかなって最近思いついちゃって」
「なんか汐里のアホポジティブうつってへんか?」
「ひどい!」

 夏樹は楽しそうに学校の様子を話していた。相変わらず2人の間に流れる空気は穏やかだ。春の日差しが空気中の塵を煌めかせ、床の間に飾られた桃の柔らかい香りが時折春を届ける。

「あ。私ばっかり話してごめんね」
「なんでや、別に話したらええやん」
「平子くん眠そうだから…さっき霊力もらって疲れてるよね。ごめ」
「ごめんは禁止や。別に疲れてるんでも詰まらん訳でもないんやけど…昨日遅うまで本読んでたからなぁ…くぁ」

 ごめんね、と何度も言いそうになる夏樹の鼻をぎゅうと摘んだ。平子は再び欠伸をするとごろりと畳に寝そべる。

「昼寝日和やのォ」
「まだ冷えるしこれ使う?」

 毛布を手渡すと、もう眠いのか生返事が返ってくる。くるまって直ぐに規則的な寝息が聞こえてきた。

―疲れてたのに私ばっかり喋っちゃって…うう、反省しないと

 しばらくうだうだと考えていたが、それにも飽きて夏樹も平子に倣うように布団の上に寝そべる。揶揄うような笑みも、不機嫌そうに尖らせる唇も、遠くを見ている瞳も、今は静かになりを潜めている。

―平子くん、意外とまつげ長いな…髪より少し茶色い、でも金色だ

 普段見ることのない平子の顔をまじまじと眺める。いつもは表情豊かに動く顔も、こうして眠っていると端正な顔立ちが目立つようだった。

―あ、顔の端っこにホクロ…?

 隣に居られる幸福感で心が満たされていく。それと同時に穏やかに過ぎる時間に胸の奥がぎゅうと切なくなる。
 自分は幸福なのだと理解しながらも欲は際限がなくて、もっと近くにありたいと願ってしまう。
 体を少し起こすと、いけないことだと思いつつ、恐る恐る顔に掛かった髪にそっと手を伸ばす。指の隙間からサラリと溢れる金色に目を細める。窓から差し込む光を柔らかく反射する。

―綺麗だなぁ

思っていたよりも柔らかいそれは自分の理想とする質で羨んでしまう。硬くて癖のある自分のものはあまり言うことを聞いてくれないものだから。

―私もこんな髪質だったらいいのに

 夏樹は満足するまでは髪を触っていた。するすると指を通る感触が気持ちいい。温かい空気に包まれて欠伸が出ると、夏樹も目を閉じてそのまま眠ってしまった。


 = = = = =


―…やっと寝よった

 平子は片目を開けて夏樹が寝ているのを確認するとゆっくりと上体を起こした。夏樹に自分の毛布をかけてやると、一瞬瞼が上がる。ぽやりとした表情で平子を眺めると、口元を緩ませながら毛布にくるまってまた眠ってしまった。

―うっわなんやこの可愛い生きモン…ってちゃうちゃう。勝手に人の髪いじりよって…

 夏樹が髪を弄りだした頃から平子の意識は薄っすらと浮上していた。薄眼の視界から見えた夏樹が、嬉しそうに自分の髪を触るものだから起きるに起きれなくなっていたのだ。
 参ったと思いながらも夏樹の指の感触に心地よさを感じてされるがままになっていた。髪には気を遣っているだけあって他人に無闇矢鱈に触られる事は嫌いなはずだった。

―久し振りに、人に髪触られて気持ちええなんて

 平子は溜息をつきながら夏樹の髪に指を通した。少し癖のある髪が指の間を通り抜けていく。毛先を摘んでみては、くるりと指にくくりつける動作を無意味に繰り返す。
自分が彼女に思っていたよりも心を許している事実に、驚き半分納得半分。

―髪伸びたなぁ

 あの戦争からもうすぐで半年が経つ。夏樹の髪の毛は以前ほどにはまだ届かないが鎖骨くらいまでは髪が伸びていた。

―まだ薬は服用しとるけど魘されることもない。もうあんな血生臭い夢も見てへんてことやろか

 平子はもう直返却される予定の彼女の相棒のことを思い浮かべる。夏樹が瀞霊廷にとって害をなす存在でないことが漸く認められ始めたのは、他の隊長格も働きかけてくれたおかげである。書類を山のように、何度も何度も根気強く提出し続けた甲斐があったものだ。
 拳西やローズは勿論のこと、治療に当たった卯ノ花や、彼女の見舞いに頻繁に訪れていた浮竹に京楽、それから実験の選択肢を増やしたいだけであろうマユリ。半数近くの隊長の承諾がなければこの話も通りはしなかっただろう。

―…斬魄刀を返すか否か。もう斬魄刀なんて必要ないし、霊力のことがなかったら尸魂界とすら関わらんでええはずなんや

 平和な日常を健やかに生きて欲しいと願うからこそ、斬魄刀を返すべきか改めて悩んでしまう。

―けど、その選択肢をオレが奪うんは筋が違うよな。斬魄刀と夏樹自身が決める事や

 顔にかかった髪をどけるように頬に手を滑らせる。触れた柔らかな温もりが心地よい。

「おはようさん」
「んん…おは、よう」

 まだ眠そうな顔で瞼を擦りながら上体を起こした。

「寝ちゃってたねぇ、えへへ」
「今3時やで」
「おやつの時間…!」
「いつもやったらそうやねんけど、今日は別んとこ付き合うてもらいたいねん」
「?」

 別邸を出て夏樹をおぶると五番隊の執務室へと移動する。

「桃〜おるかぁ」
「お疲れ様です、隊長」
「昨日言うてた子がこいつや」
「えと、相模夏樹です。初めまして」

 状況が飲み込めていないながらも夏樹は促されるままにぺこりとお辞儀した。

「雛森桃です。五番隊の副隊長しています。よろしくね」

 にこりといつもの人当たりのいい笑みを浮かべて雛森は会釈した。夏樹は少し緊張しているようだったが、歳の近い見た目のせいかそこまで畏まっていないように見えた。
 雛森も少しずつ立ち直りつつある今、雛森自身が夏樹に興味を持った。今の雛森ならば大丈夫だろうと思い、こうして会う機会を設けることにした。藍染に育てられた人間だと知らされている夏樹に会って、何か整理したい事があったのかもしれない、と。

「お茶入れてきますね」
「おー、ありがとう」

 出て行く雛森を見届けると夏樹はほっと息を吐き出した。やはり緊張していたらしい。

「副隊長さん、すごく可愛い人だね」
「せやろ、めっちゃ小言多いけどな」
「それは平子くんがサボるからじゃない?」
「サボりちゃいます〜休憩しとるだけや」
「あの、平子くん。なにか用事とかあるの?ここで」
「まぁとりあえず桃が茶ァくれるし座って待っとき」
「うん」

 落ち着かないようでキョロキョロと時折辺りを見回している夏樹が面白い。

「なんやキョロキョロしてもお菓子は出てけーへんで」
「ちがっ、私のこと食いしん坊キャラにしすぎ!…ここでお仕事してるの?」
「せやな」

 夏樹じいっと執務机を眺めていた。そこに誰を重ねているのか想像するのは無粋だと夏樹から視線を逸らす。
 ノックの音で二人の視線は扉へ戻った。

「お待たせしました」
「ん、ありがとうな」
「ありがとうございます」

 出された緑茶に口を付けながら、何の用事があるのだろうかと平子を伺う。

「昨日見た決算のやつ、一番隊に回したか?」
「はい。それから先月の合同任務の稟議書がようやくまとまった方針を打てそうだということで、六番隊に打診してきました」
「ほーん、したら拳西とこにも声掛けとこか。向こうも確か手ェ出したい言うてたしな。あと総務にもうちょい予算振ったってくれ」
 スラスラと二人の間で飛び交う仕事の話に、夏樹は平子が隊長として仕事をこなしている姿を初めて目の当たりにした。
「何その驚いた顔」
「いや…その、何て言うか」

 じとりと横目に見れば、夏樹はしどろもどろになっていた。

「夏樹は知らんもんなァ。ちゃーんと仕事はしとるんやで」
「びっくりした」
「こら、正直に言うんやない。オレが現世でニートしてたみたいやんか」
「ひよ里が『真子なんて隊長やっとっても仕事は全部副官に丸投げやろ』ってボロクソに言ってた。あと汐里の店にいた時ゆるっゆるだったから」
「あンのアホ、適当ぬかしよって…現世ん時はあの店が繁盛してへんのが悪いんやろ!って桃!今もあんま働いてませんみたいな顔しーなや!!」
「平子隊長はきちんと業務をこなされてますよ。ただ脱走される癖をなくしてくれればと思いますけど」

 夏樹は思わず吹き出してくすくすと笑う。こら、と軽く夏樹の頭を叩くと平子は伸びをしながら立ち上がった。

「ほな仕事もひと段落ついてるみたいやし行こか」
「どこに?」
「休みにや!このワーカーホリックを休ませに行くんや!!」
「私は普通に仕事してるだけです、隊長!」
「そないなこと言うて先週から休んでへんの知っとるんやで!ほら、この前見つけた言う店連れてってもらおか!」

 肩を回しながら平子はウキウキと立ち上がる。

「お客さん来とるんに休まん訳にはいかんよなぁ?時間休の申請もしといたったで」
「なっ…勝手に何されてるんですか!」
「桃の有給消化率、全然部下の示しになっとらんわ!で、なんの店やっけ、大福?」
「あぁもう、分かりました!休みますって!!みたらし団子と果物のお店ですよ。今日は平子隊長の奢りですからね!」
「はは、ええ元気やな」
「平子隊長、ご馳走さまでーす」

 冗談まじりに夏樹もそんなことを言ってみる。平子はなぜかしかめ面で夏樹を見た。

「夏樹に隊長て呼ばれると変な感じするから嫌や」
「えー」
「ほら行くでー、桃早よ机片付けてまい」

 平子に急かされて雛森はバタバタと机の上を片付ける。
 連れられてきた店には、香ばしい醤油の匂いが店内に漂っていま。食欲をそそる匂いに導かれるまま、注文を済ませる。

「相模さん、体調は辛くない?」
「お昼寝してきたので大丈夫です。今日は割と好調かと」
「なら良かった。ここね、お団子だけじゃなくてフルーツポンチも美味しいの」

 そんな事を話してるうちに団子が机の上に並ぶ。雛森の柔らかい雰囲気のおかげか、夏樹も比較的スムーズに会話しているように見えた。甘いものの話は楽しそうだ。焼きたての団子の香ばしい匂いに頬が綻ぶ。

「お、こら美味いな!」
「ほんとだ、美味しい…!」
「ふふ、最近のお気に入りなんです」
「お店に来ないとこれダメですね!すっごい美味しいです」
「せやな、店でないと食えん味や」

 2人の感想に雛森は嬉しそうに笑う。最近ではこの店舗でも洋菓子の取り扱いも増えて、雛森自身も休みの日に洋菓子を作ったりするのだと話が盛り上がる。

「えっ、クッキーの生地の中にお茶っぱ入れちゃうの!?」
「紅茶味は結構メジャーですよ」
「わぁ…現世はやっぱり進んでるなぁ」
「どっちかちゅーたら尸魂界の方が遅れすぎとるだけやけどな」
「やっぱりそうなんですねぇ」

 和やかな時間が過ぎて、夏樹はいつものように穿界門を潜り現世に戻った。浦原商店の勉強部屋で平子は穿界門から戻る直前、くるりと夏樹の方を振り返って向き合う。

「…今日は急に会わせてすまんかったな」
「どうして?」

 平子は気まずそうに視線を逸らした。確かに人と会うのは緊張するが、何がいけなかったのかまで夏樹には分からなかったらしい。

「桃はな、5年くらい前に副隊長になったんや。ほんで、五番隊でずっと頑張っとったんも、隊長に憧れてたから。オレの復隊時期まではずっと四番隊で塞ぎ込んでたんや」
「!」
「ごめんな、試すようなことして」

 夏樹は何と答えるべきか返答に迷ったようで、何度か瞬いた。不安げな表情で顔を上げると、きゅっと手を胸の前で握りしめた。
 雛森が夏樹を通して何を得たのか。藍染という存在を確かめたかったのかもしれないし、何かを遺したのだと感じたかったのかもしれない。何をどう感じたのかは雛森にしか分からないことで、その柔らかい部分を暴くことはとても憚られた。

「私、大丈夫だった…?」
「何も分からんかった、やと。やからよかったって」
「よかったの…?」
「おん」
「どうして、言ってくれたの?」
「ほんまは…もう一人、会いたい言うてる奴がおんねん。夏樹を通して、何かを見たいってどないしても思ってまうんやろな」

 平子は夏樹を直視できないまま、ペイントされた空を見上げた。悩みの種である男を思い浮かべて平子はため息をついた。

「あんまし会わせたァないねんけど、アイツの気持ちもよう分かる」
「誰って聞いてもいいのかな」
「……会うってなったら言わせてくれん?」
「うん」
「これからも、きっとそういう目で見る奴はおる。やけどな、夏樹は夏樹のままでええ。夏樹がどう生きるかは夏樹だけが決めてええねん。せやから会わせたない。千代のためにあーすべきやこーすべきやって思ってほしないねん」

 千代もきっとそう望んでいるだろうから。自由に生きる、というのは何とも難しいことばかりだ。

「…ごめんね」
「謝ることちゃうわ」
「わっ」

 平子は誤魔化す様にぐしぐしと夏樹の頭を撫で回す。夏樹はボサボサになったと怒りながら髪を解いた。どうにも、ままならない。やはり会わせる決心はつかないままだった。