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「しゃーーーからっ!あかん!言うてる!やろ!アホ!!」
「何でなんですか!!僕だけいつまで我慢せんなあかんの!副隊長はもう会わはったんやろ!?」
「桃とオマエじゃ話がちゃうやろ!何でオマエは『待て』できへんねん!!」
「待て言われてもう春なっとるんですけどぉ!現世行って暦読めんくなったんですかァ!?」
「ほんっま!可愛くないやっちゃのォ!ちんまい時は可愛かったくせに!!」
「今も僕の愛らしさは変わってませんけど!?」
昼休みの執務室はやけに賑やかだった。大の男2人が大きな声で張り合うこの最早見慣れた光景に雛森はため息をついた。
―私も会ったって話をしちゃってから、加速してるなぁ…仕方ない、よね。一人だけ禁止されてるんだもん
相模夏樹という少女は、藍染惣右介の娘として育てられ崩玉を宿した人間であることは隊長格であれば知っている。
隊長格ではない目の前の少年も、事情を把握している死神のうちの一人だった。
―会ってみたいって気持ちはすごく分かる。今までの時間に、何か本物があったんじゃないかってそんなことを考えてしまったから。だけど、本物も偽物も、何も分からなかった
―何が本物で、偽物なのかは私の中にだけあればいい。私が決めればいいんだって、平子隊長が言ってくださったから
「ええ加減に会わせてくださいよ!」
「イヤじゃ!」
「兄さん!!」
平子は頬杖をついたまま長い溜息を吐いた。自分のことを”兄さん”なんて呼ぶ男は1人しかいない。兄様なんてふざけた呼び方はするなと強要したのは昔の自分だった。
糸目に柔らかな栗色の短髪を揺らす男は、五番隊で五席を任されている。特徴的な関西弁は同じでも軽薄さは姉とは似ても似つかない。それでも見た目は彼女の面影があった。
常盤千里。それがこの男の名で、千代の弟で、つまりは自分の義弟だった。
「会わせへんなんて言うてへんやろ、もうちょい時間くれ言うてんの。気持ちの整理を一個一個進めて、ようやっと笑えるようになったとこなんや」
「う…」
「繊細な子ォやねん。泣かせたいんか?ちゃうやろ?」
「そうやけど…」
「今はまだあかん」
そこまで言えば千里は悔しそうに下唇を噛んだ。
「別に、姉様の件で責めようなんて思って無いです」
「分かっとるわ。オマエがそんな捻た奴やない事くらい良うわかってる」
平子は溜息をつきながら尸魂界に戻って来た頃のこと思い出した。
= = = = =
早朝の誰もいない五番隊で執務室に入る。懐かしい木の香りと古臭い匂いに包まれて、今日から此処での生活が始まるのだと感傷に浸っていた。
綺麗に清掃され塵ひとつない部屋に整頓された副官の本棚。窓際に飾られた梅の花。そして、何も物が残されていない新品の自分用に当てがわれた机。
―帰ってきてしもたなぁ
酷く滑稽な、上部だけを取り繕った関係性を築いていた隊長時代。隅に追いやっていた記憶がぽつぽつと蘇る。確かにそこに彼奴がいて、日常の隙間から覗く狂気が時折自分の喉元に刃を突きつけられる様な、そんな危機感を孕んでいたのだ。アンバランスな日常の中で、いつか覆るであろうことを予感しながらこの日常があと少し、もう少し続けばいいと馬鹿なことを願ったものだった。
「失礼しまぁす!!!」
感傷は突如響いた元気のいい声によって分断され、同時に後頭部に鈍痛が走る。
「イッダァ!!?いきなりなん、」
「兄さん!」
後頭部を押さえながら涙目に振り返ると自分よりも背の大きな男が突如抱きついてきた。
「うわっ、何すんねん!離せアホ!」
「ほんまモンや!ほんまの兄さんや!!髪なくなっとる!」
「人をハゲみたいに言うなや!ちゅーかこんなでかい弟なんて知らんぞ!!!」
無理やり引っぺがせた頃には平子は肩で息をしていた。こんな大男、そもそも弟なんていないはずだ。首を傾げて見下ろす糸目の少年は、悄げた顔で平子と向き合う。
「兄さん、僕のこと忘れてしもうたん?」
「待て…オマエまさか……千里か!!?」
「そう!手紙来たから探しに来てしもうた!」
「アホか!?なんで先来んねん!オレ行く言うたやろ!?」
「サプライズでーす」
「なんでそないしょーもないとこばっか千代に似とんねん!!」
千代の弟である常盤千里はイェーイと呑気に両手でピースを作る。平子は額に手を当てて天井を仰いだ。100年経って大きく育ったのは背丈だけで、中身はよく知る悪戯好きで行動派の子供のままだった。
「おかえり、兄さん」
嬉しそうに笑う千里に平子は目眩を隠せずにいた。
自分が隊長としてこの世界に残ると決めた時、浮竹に頼んで千代の実家のことについて情報を貰っていた。家族は皆元気に過ごしているらしく、安堵したことを覚えている。
すったもんだはあったものの、流魂街の出でありながら結婚を許してくれた彼女の家族とはそれなりに仲睦まじく過ごしたのだ。戻るのに挨拶も経緯も何も説明しない訳にはいかない。そう思って話をしたいと手紙を出した。
「………ったく、いきなし人のことどつくなんて昔となんも変わっとらんやんけ」
人懐っこい笑みを浮かべる彼に胸が痛む。今までに何があったのか話せばもう彼は自分を兄だなんて呼ばなくなるだろう。この少年はまだ知らないのだ、何故姉が殺されて、自分が現世へと逃亡して、そして何が遺されたのか。
「その前によう頑張ったって褒めて欲しいんやけど。姉様みたいに」
「はーー…図体だけデカなってほんまに昔のまんまかいな」
「ええでしょ」
千代と同じ薄い翡翠色の瞳で千里は笑う。小さい頃はおんぶをしたり、鬼ごとをしたり、よく遊んだものだった。千代にも自分にもよく懐く素直で人懐っこい子供だった。100年前は10歳にも満たないような、小さな子供だったのに。
「よう頑張ったわ。ほんで、よう生きてたな。ええ子や」
「うん」
昔と同じ様に両手でボサボサになるまで頭を撫で回す。この横に千代がいたら、きっと笑っていたのだろう。そんなことを思うと胸が少し苦しい。
「…ととさんとかかさんには悪いけど緘口令が敷かれてる以上全部は話せん。勿論オマエにもな…口外せえへんって約束、できるな?」
突如真剣な空気に切り替わり、千里は生唾を飲みながら真剣な顔で頷いた。
「今日からオレは正式に隊長や。話は家でしよな」
それから翌日父母の元へ挨拶に行き、夏樹という人間の少女が千代の斬魄刀を引き継いだことと、千代が命をかけて守り抜いたのだということのみを簡単に説明した。千代が藍染に殺されたことも、崩玉のことも伏せて話した。これが法令の中でギリギリ話して良いとされた範囲だ。
= = = = =
まだ、千里には過去の詳細を話してはいない。千代に似た少年は妙に勘の良い少年は、嘘の見当たらぬ様話したこれまでの100年間の話に生じた僅かな綻びに異議を唱えた。義父母は情勢を理解してか口を閉ざしたが、若い彼はそうもいかなかった。
下手に勘ぐられて自力で真相を暴こうとする方がよっぽど危険極まりないと、平子は自身の判断でいつか真実を伝えるべきだと思っていた。
とは言え復隊仕立ての頃は、隊の内部が混沌としていることに加え、彼を抜いて隊を回すのは厳しいのが現状だった。移隊を招く事態は避けざるを得なかった。
―そろそろ、頃合いなんかもしれへんな
「千里、話がある言うたん、覚えとるな?」
「えっ…うん、覚えてます」
「桃、週末空いとるか?」
「へ、私ですか?空いてますが…」
「ほんなら飲み会すんで!場所はせやな…オレんちがいっちゃんマシやな…」
尸魂界のどこもかしこも、油断ならない。自分の家で結界を張るのが一番都合がいい様に思えた。
時折監視の様な視線を感じることがあった。それは自分だけでなく尸魂界に戻った他の仮面の軍勢もだった。
「千里、トメさんてまだお元気か?うちに飯届けてほしいねん。酒は用意しとくから飯頼むわ」
「ええっ、なんで兄さんの家なんです?前行ったらあげてくれんかった癖に…」
「ちょこまかモノ触られそうで嫌やったんですゥ!ほなこの話はしまいや!2人とも飯行くで!腹減って死にそうや」
平子は執務室を勢いよく開けると二人を早くついてこいと急かす。千里は不思議そうに首を傾げながら、今日は奢りですか?と後をついてくる。
そんな弟を軽くしばいて空を仰ぐ。桜はもう散ってしまったが今日はいい天気で、外で食べるのも悪くないかもしれない。目下懸念事項である事柄に目を背けるように、足を懸命に動かした。