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「隊長〜〜!もう紫陽花が咲いてたんですよ!ほら!」
「ん、綺麗やな」
「素っ気ない!もっとよく見て!青と紫とピンクの色んなの持ってきたんですよ!!」
「平子隊長!僕のんも見てください!向日葵もう咲いてた!!」
「へーへー。ンなもん持ってんと早よ仕事しーや」

 ドタバタと廊下を走る少女が紫陽花を腕いっぱいに抱えていた。何故か張り合う様に千里も一緒にやってくる。子供のような顔でキラキラと瞳を輝かせて、周りの隊士は日常になりつつあるそんな2人を穏やかな笑みで眺めていた。

―この空気は良うない、良うないぞ…

「てか千里おまえ、オレにばっかくっついて来てんと可愛い女の子のとこ行けや」
「えー、邪険にせんとってぇや」
「そっちの趣味やて思われるぞ」
「平子隊長とならええですよ」

 態とらしく上げられた語尾に平子は思わず自身を抱き竦めた。

「……今ぞっとしてサブイボ立ったわ。ほれ見てみぃ!ブッツブツやないか!!そんな気一切ないのに冗談も休み休み言え!」
「いやー、僕が虫避けになるんが一番早いなーって思って」
「助かるっちゃ助かるけど死ぬほど複雑な気分や」

 ご機嫌な様子だった千里は急に声を潜めるものだから、嫌な予感に平子は顔を顰めた。

「兄さんええ人おるとか、ないのん?」
「なっ、にを急に」
「あれ、思ったより動揺してる」

 急な質問に思わず声が裏返り、千里は首を傾げた。千里の声色は少しばかり低い。

「ま、兄さんの人生やし。そういうこともあるんかな」
「その千代そっくりの拗ね方やめんかい…」
「別に拗ねてなんかないですゥ。死神なんやから次の人なんて普通やん」

 その言葉とは裏腹に、また一悶着ありそうな雰囲気を内包していた。一瞬、本当に一瞬のことだったが、夏樹のことが脳裏を過ぎったのは気のせいだと思いたかった。
 げっそりとした顔で執務室に戻ると平子は机に突っ伏した。そろそろ隊長羽織が暑くて鬱陶しくなる季節が近づいてきている。羽織なんて脱いでしまいたいのに、総隊長はそれを許してはくれないだろう。

「平子隊長、今日中に捌かなきゃいけない書類がまだこんなにあるんですからサボらないでくださいよ」

 ドサリと容赦なく積まれた山を横目に平子は長い溜息をつく。数えるのも嫌になる量だった。

「なあ桃、どないかしてえな」
「ダメです!ちゃんと隊長決裁のものは隊長が確認してください!」
「ちゃうちゃう。そうやなくてやな…」

 平子は面倒臭そうな表情で顔を上げると山から一枚書類を取った。上級貴族の当主引継のお知らせなんてどうでもいいものまで混じっていた。

「千里もやけど…あの子ォや、二十席にこの前昇進した女の子…」
「彼女がどうかしたんですか?」
「…あしらってもあしらっても、アタックしてくんねん……」
「それはまた楽しそうなお悩みですね」
「ちょ、そない冷たい声出さんといて!もっと可愛い声で慰めて!!」

 そんな平子の要望に”面倒臭いです”と顔に貼り付けた表情で冷めた目線を返す。

「あぁ…副官がやさしゅうしてくれへん…」
「いいから手を動かしてください、手を」

 雛森は呆れたため息をつきながら、再び視線を書類に戻す。

「常盤五席、平子隊長に本気なんじゃないかって噂になってましたよ」
「それは流石にないわ…僕が虫除けになるとか言うてたしな」
「あぁ…」
「割と助かってるねんけど、二十席ちゃんは中々かなんなぁ…」

 二十席に昇進したあの少女は元気溌剌で猪突猛進。平子にしつこくしつこく、ご飯だの甘味処だのを誘ってくる。裏のありそうな女ならまだしも屈託のない純粋そうな瞳で押しかけられると、適当に躱すのもネタが尽きて限界になる。
 いい加減脈がないのだと諦めてくれたらいいものを、と思いながら遂に飲みの約束を取り付けられてしまった。

―千代にアタックしてる時こんな心中やったらちょっとショックやなぁ…

 そんなことを考えながら重いため息をついているうちに、夜になってしまう。
 二十席の少女はいわゆる良くできいるがどこか抜けているところもあって、人に愛されるような人柄だった。話はそこそこ合うし気が利いて、人望もそれなりにある。そうだとしても、

―今は夏樹ン事で頭いっぱいいっぱいやちゅーに。これ以上はもう無理や

「隊長〜〜!お疲れ様です!」

 さりげなくいつもより濃いめの化粧と丁寧に飾られた髪型に、あぁ今夜はデートなんやなと思い知らされてしまう。

―もうええ加減ちゃんと切らんとまずいわな…いっそ告白でもしてくれたら楽なんやけど。けど嫁さんおるから無理、なんて千代をええように使うだけの断り方したぁないわ

 千代を都合のいいように使うのは気分が悪くて、けれどもそれ以外に確実に暗喩させる台詞も思い浮かばず。

―あー、ほんま面倒くさァ

 連れられた居酒屋は落ち着いた雰囲気の小料理屋で、割と好みの雰囲気の店だった。出汁の香りが鼻腔を擽り空腹を加速させる。

「あのですねっ!ここのご飯とっても美味しんです!それで隊長と来たかったなぁって思って」
「確かに美味いなあ」

 表面上適当に取り繕いながら、平子は頭の片隅で千代との記憶をなぞっていた。こういう味付けが好きだったとか、この盛り付け方が似ているとか、そんな些細な記憶が掘り起こされていく。

―別に最近こないに思い出すことなかったんに

 じわりじわりと押し寄せる言葉にし難い不安が平子を襲う。

「この器、ええ色しとんなぁ」
「隊長どんな色がお好きですか?」
「ん、…薄い翡翠色」

 昔から好きな色は彼女の瞳の色。こんな些細な質問にですら何故か嫌悪感がじわりと染み出してくる。

―あぁ、なんか気持ち悪いわ。オレが、千代が、侵食されてくみたいで……最悪や

 新しい出会いと記憶との環境の差異が、彼女との記憶を確実に過去へと押し込めていく。自分にとって、千代のことは過去ではないのに。
 時間の流れの速さに心がまだ追いついていなかった事を突き付けられてしまった。
 嫌悪感から逃れるように、ふと窓の外に視線を移すと満月が見えた。

「今日満月か…」
「あ、本当ですね!」
「お月さん綺麗やなあ」

 昔は縁側でよく月見しながら酒を飲んだものだと思い出す。千代は満月の時の晩酌は決まって黄身餡の饅頭を食べていた。お月様食べてるみたいでしょ、と笑っていた。

「……あかんなぁ」

―こないに千代のことばっか思い出して、忘れたァないて

 平子は目の前の少女のことも忘れて物思いに耽っていた。郷愁が手のひらから恋い焦がれさせるような焦燥感を呼ぶ。

ー昔のことなんて、思い出して、比べて。そんなんせんようにしなあかんって思ってたちゅーのに…あかん、気持ち悪い

 滲む嫌悪感が表情に出そうになって平子はほんの少し強く手を握る。自分が、新しい時代を生きているのだと、実感させられてしまう。

―…なんでや、夏樹に会いたいわ。会って、あの力抜けた、へらって笑ってるとこに居りたぁてしゃーない

「平子隊長…?」
「ん?あぁ、すまんすまん」

 ボーッとしていたのか、声を掛けられて漸く前を向く。何やらソワソワとした様子を醸し出すので平子は微妙に嫌な予感がする。

「あのっ、今月お誕生日って聞いたので、良かったらこれ…!」
「誕生日…?あ、5月か」

 拍子抜けするのもつかの間、出そうになったため息をどうにか飲み込む。綺麗に包まれた箱をほんのり頬を染めて、大切な想いの込められたであろう贈り物を差し出されている。誕生日と言われ、忙しさのあまり自分の誕生日を忘れていたことを思い出す。
 ここが明確な引き際だろうと平子は静かに線を引いた。

「…すまんけど、それは受け取れんわ」
「え…っ、あの、どうしてですか」
「オレ、大事にしたい奴おんねん。せやから、大事なもんは受け取れん」
「…それは、奥様のことを想っての事ですか?」

 静かに手を戻すと俯きがちに震える声でそう尋ねられた。罪悪感が生まれるが、かと言って彼女に心が靡く事はない。
 100年前から在籍している死神も少なくはない。自分達新隊長の過去の事など面白い話のタネとしてあちこちで上がっているのだろう。
 千里が義弟であることを知る隊員もいるのだから。

「……知っとったんか。せやな、彼奴のこと大事やしそれは生涯変わらん。彼奴のことを忘れる日ィなんてないわ。…せやけど、」

 千代のことを想わなかった日なんてない。相手として目の前の彼女が決定的に何か合わない訳でもない。ただ、自分はもう自分に無理を通す事すら阿呆らしく感じつつある程には夏樹のことを意識し始めていた。

「今ずっと、オレの頭ん中占めてる奴がおんねん。人のこと傷付けんようにて、ビクビクばっかしとる優しすぎるアホがおんねん。そいつとちゃんと向き合わなあかんから。せやから、ごめんな」
「…その方をお慕いしているん、ですか」
「そこまでの答えをやる義理はないわ」

 平子は中途半端な優しさは不要だと、ピシャリと答えた。小さくため息をつくと、堪忍な、とだけ残して個室を出る。
 支払いを全て済ませると大きく伸びをする。闇夜を照らす光が自分の目の前に淡い影を作って、そのまま影の奥深くへ手招きしているような気がした。
 夏樹に会いたいと衝動が平子の背中を強く押す。
 平子の足は穿界門へと弾けるように動き出していた。今すぐに、自分と居ると幸せだと示してくれるあの笑顔に会いたくなったから。走り出した足は止まらない。


 = = = = =


 勢いに任せて現世まで来て、夏樹の家の近辺まで近づくと急に頭が冷えてくる。

―夏樹に会いたなって現世来るとかアホちゃうか…職権濫用もええとこや。まぁ職権濫用はいつもの事やけど

 平子は減速しつつも足を進めることをやめられなかった。夏樹の家が見えてきたところで漸く足が止まった。きっと、あの温かい家で、死とは遠い世界で、穏やかに過ごしているのだろう。それだけで平子の胸中は安堵に満たされる。

―帰るか

 長いため息をつきながら、空を見上げた。尸魂界と同じ満月が夜空に浮かんでいる。

「ひらこくーん」

 振り向くと二階のベランダから手を振る夏樹が見えた。帰ろうとしていた感情はその声に一瞬で掻き消された。頬が自然と緩むのを悟られぬ距離で良かったと思いつつ、瞬歩で一気に距離を詰める。

「わっ」
「こんばんはァ」
「こんばんは。どしたの?現世になんて」
「ちょい用事あってなぁ。帰るとこやねんけどついでに顔見てこか思うて」

 予想通り驚いた後へらりと気の抜ける笑みを浮かべる夏樹に、平子は安堵を覚える。

「体調はどないや?」
「割と良好だよ〜」
「そら良かったわ。…話変わるねんけど、オレ誕生日やねん」
「え、そうなの!?おめでとう」
「ま、5月10日やってんけど」
「過ぎてるね…?」
「やって仕事忙しゅーて忘れとってんもん。お祝いしてえな」

 夏樹がこんな時でも表立って感情を荒ぶらせない時、大概は内心で慌てている事に平子は気付いていた。そんな様子が面白くてさらにまくし立てる。

「今がいいねんけど」
「い、今?」
「誕生日やもーん」

 そう言えば流石の夏樹も表情を崩した。困ったなぁと呟きながらもどこか楽しそうだった。

「ん、そうだ」

 部屋に戻るとガチャガチャと音が聞こえてくる。カーテンの隙間から顔を出すと、部屋汚いから覗いちゃダメだよ、と釘を刺された。

「平子くん、結界張れる?ハッチさんが教えてくれた防音のアレ」
「防音のん?いけるけど」
「よかった。早く早く」

 急かされるままにベランダに結界を張った。程なくして夏樹もベランダに出てくる。部屋の灯りを仄かに反射する金色の楽器に平子は目を細めた。

「なんか吹いてくれんのん」
「ご名答〜」

 夏樹はニシシと笑うとサックスに口を付ける。この前の演奏会で吹いたという曲でも吹いてくれるのか、と思いながら夏樹がサックスを首にかけて準備しているのを眺める。
 サックス特有の通る音が平子の耳に届く。始まったのはジャズの曲調にアレンジされたバースデーソング。軽快なリズムを夏樹は真剣な顔をして奏でていく。

ーあ、そうか。ここが、夏樹の隣が居心地ええのんは、

 穏やかな時間が心地良い。風が耳の後ろから通り抜けて、音が風で舞って溶けていく。曲が終わり、平子は賞賛の拍手を送った。

ー許される、気がするから

「誕生日おめでとう、平子くん」
「随分上手なったなぁ。アレンジとかできたん」
「まさか!まだまだ初心者だもん。部員が誕生日の時みんなで演奏するの」

 元気に楽しそうに生きている。現世で、高校生らしく、戦いも血もない世界で。それが何よりも嬉しくて、日常がようやく戻った事を実感させる。

「平子くん、一体いくつになったの?」
「オレ流魂街の生まれやから分からんねん。ま、200か300は生きたような気がするけど。数えんのめんどなったからな〜〜」
「300年?って…江戸時代じゃん」
「はは、ほんまやな」

 平子はまた月を見上げてみる。柔らかい光が2人を包む空間は他者を廃絶したような感覚に陥らせる。

「長いこと生きてしもたわ」
「あ、満月」
「尸魂界も今日は満月やったで」
「へえ。向こうと同じなんだね。…ん?夜にこっち来たの?」

 夏樹がこてりと首を傾げる。うっかり失言だったと思いつつ、平子は悪戯心の赴くままに言葉を発した。

「…夏樹に逢いたなって来た、言うたらどうする?」

 夏樹は目を大きく見開いてぷいと目を逸らした。手の甲を口元に当てながら不満げに眉をひそめる。暗がりでよく見えないけれど、夏樹の顔はきっと赤くなっているのだろう。

「そ、そういう冗談よくない…」
「ふはっ。なあ夏樹、もっぺん吹いてや、同じ曲」
「いいけど…」
「吹いて?」

 夏樹は唇を尖らせたまま一瞬こちらを見ると、大きく息を吸い込んでサックスに口を付けた。

―あぁ、ええ音や

 自分の為に奏でられる音の心地良さに酔いしれる。自分は今幸せなのだと思った。確かに幸せで、けれど生きていく世界は交わってはいけないものだと強く思う。

「ありがとう、ええ音やった」
「えーっと、お粗末様です、でいいのかな?」
「そら料理作ったあとやろ」
「あはは、そっか」
「ほなぼちぼち戻るわ」
「うん」

 夏樹は少し寂しそうな顔をしていた。何かを言おうと考え込むような表情に平子は込み上がる想いを抑え込む。

―………怖いなァ

 未来へ進む恐怖、過去が薄れゆく不安。過去と未来と、考えれば考えるほど自分の足元は雁字搦めに動けなくなっていく。

「ねえ」
「ん?」
「さっきの…ほんとに、冗談?」

 隊長羽織の裾を掴んで、恐る恐る、それでも勇気を振り絞ったのだろうと瞬時に見て取れた。
 会いたかった、と喉まで出かかって、平子はどうにか真意を飲み込んだ。

「冗談や」
「わっ」

 上手く笑えていただろうか。わからなくなった平子は夏樹の頭に手を置いて視線を自分から逸らさせた。情けない顔をしている、見ないでほしいと思いながら。

「おやすみ、夏樹。また週末な」

 平子は背を向けると夏樹の返事を聞く前に空へと戻った。