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 平子は千里と雛森と隊首室で飲み会をするために念入りに準備をしていく。浦原に頼んで作らせた外部へのカモフラージュ用の装置を設置した。仕組みはよく分からないが、中で普通に飲んでいるようにしか思えないよう記録されるものらしい。
 ここまで入念に準備しているのには理由があった。今回は飲み会だと言いながらも、中身は100年前の真実をすべてあの二人に知らせるための会。本人たちも何かを察していることだろう。箝口令がある以上、このことを外に漏らすわけにはいかない。
 現世に3人で行くには足取りが怪しまれるため、これがギリギリの措置だろうと考えていた。総隊長にのみ話はしているものの、彼の権力は瀞霊廷全てには及ばない。貴族からの監視の目があるのもそのことを肯定していた。

―桃は信頼できるやつや。半年見てきて、良う分かった。藍染がどうやって手駒にしたんかも…良う、分かった。あの子は藍染が思っとるより強い子や。今はもうちゃんと過去と向き合うて生きてけてる

―五番隊もようやっと落ち着いてきた。今やったら千里が抜けても他の人員で補える。本人も我慢の限界がきてるんや。……頃合いやろ

「こんばんはー!」

 威勢の良い声が扉の外から聞こえる。霊圧は二人、片方は千里でもう片方は雛森ではなかった。

「お久しぶりでございます、旦那様」
「わ、トメさんわざわざ来てくれはったん!」
「この前はお会いできませんでしたから」

 千里は両手にお重らしき風呂敷包みを抱えていて、背の小さな老婆が隣に立っていた。100年前、千代とともに生活していた頃、女中として働いてくれていた千代の乳母だった。
 100年前に比べて背が一回り縮んだ様に見えたが、元気に生きている様で平子はホッとした。

「もうオレ旦那様ちゃうし、そない堅い呼び方せんとってや」
「では真子様とお呼びいたしましょうか」
「様イヤやねんけど…さんとかじゃあかんの?」
「千代様との約束ですから、それは致しかねますねぇ」
「えー…」
「真子さん、とお呼びするのは千代様だけの特権だそうですよ。今だからお教えしますけど」

 トメは皺くちゃの顔でにこやかに笑って見せた。その言葉とともに掘り起こされた記憶は、浦原に自分のことを名字で呼び続ける様に強要していた姿だった。

―なんや、そないな理由やったんかいな

 平子はそんな千代のどうでもいいようで、どうでもよくない拘りに擽ったくなって口をへの字に曲げる。

「では私は真子様のお顔も見れた事ですし、戻りますね」
「トメさん、来てくれはっておおきにな」
「いえいえ、いつでも申し付けてくださいな。折角戻られたんですから」
「うん、トメさんの飯好きやからまた食いに行かせてください」

 深々とお辞儀をしてトメは帰っていった。千里はにこにこと平子を見下ろしながら口を開いた。

「僕も真子さんって言おうとしたら姉様にダメって言われたことありますよ」
「そうやったん?」
「うん。せやから兄さんってずっと呼んでる」
「ふーん」
「あ、照れはった?」
「やかましいわ!ほれ早よ行くで、桃来てまうやろ」
「はーい」

 現世にいる時は買うのを躊躇っていたレコードの類も、こちらに住居を構えてしまえば心置きなく買える。汐里の店で仕入れた蓄音器の針を落とせばゆったりとしたジャズが流れ出した。CDもネット音楽も便利だが、このレコード独特の少しザラついた音が心地良くて好きだった。
 約束した時間のちょうど5分前にごめんくださいと玄関の方から声が響く。きっちりした性格の副官らしい訪問だった。

「お疲れ様です、平子隊長。これよかったら。今日飲もうかと思って」
「お、日本酒やん。どこのん?」
「乱菊さんオススメの酒蔵の大吟醸です!隊長、お好きでしたよね」
「おお、流石やな!できる副官はちゃうわぁ、ありがとうな」

 一升瓶を受け取ると、中では既に千里が料理や取り皿を並べているところだった。色とりどりで旬の野菜をふんだんに使われた料理は鮮やかだった。

「トメさんの飯久しぶりやなぁ」
「今日は気合入れて作ったって言ってましたよ」
「そら最高や。ほな腹減ったしさっさと食おか。桃も足崩して楽にしーや」
「はい」

 まずは、と雛森の持参した日本酒を開ける。

「ほな、乾杯!」

 スゥと鼻に抜ける香りが心地よい。冬瓜と海老の煮物に手をつけながら、あぁと平子は美味そうにため息を漏らした。

「美味いなぁ、この日本酒。スルスル飲めて怖いくらいや。トメさんの炊いたやつも美味い、最高や」
「ふふ、よかったです」
「僕はだし巻きもらいまーす」
「あ、オレにもくれ」

 和やかな雰囲気で暫く料理に舌鼓を打った後、ほどほどに酒が回ってきた頃合いで平子は2人の様子を見やった。

「桃は知っとるよな、こいつオレの義弟やって」
「はい、軽くお話は」
「この部屋に鬼道の類張ってんのんは気付いたか?」
「えっ!?」
「や、気付いてへんなら成功やわ。さすが喜助やな。…今から話すんは緘口令敷かれとる最高特記秘匿事項や。副隊長にすら規制かけられとる。外に出て何話したんや、言われたら次の昇級の話や言うとけ。ええな」

 平子の圧に2人は生唾を飲まながら返事をする。

「…それから千里。今のこのゴタゴタした五番隊でオマエが抜けたらうちの隊回らんからて言い訳つけて今の今まで引き伸ばして悪かった。オレほんまはもうオマエに兄さんなんて呼んでもらう資格ないねん。移隊の話もすぐ通すようにするから」
「待って、何の話なん…!僕は移隊やなんて!」

 カタンと空になったお猪口が千里の横で倒れる。千里の口元が震えているのが横目に見えた。

「藍染が何をしてたんか、2人には知る権利があると思うてるからオレから見た過去を話す。無理に聞けとは言わん。主観で話すから、真実やとも思わんでもいい」
「…いえ、平子隊長。聞かせてください。あの人が、何をして、何を思ったのか…知りたい、です」
「僕もととさま達にしただけの説明やったら納得できへん。何があったんかちゃんと知りたいです」

 覚悟の決まった瞳で2人は平子を見詰める。平子は俯きがちにお猪口の縁に人差し指を走らせると、一気に残った酒をあおった。

「………桃、オレな嫁さんおったんや。お転婆で箱入り娘で優しゅうて頭ええの。ほんまに…綺麗な子やったわ。今も忘れられへん。千里と同じ、キレーな薄い翡翠色の目ぇしててん」

「106年前、十二番隊で五席務めとった。部下からの信頼も厚くて、マユリが珍しく言うこと聞く相手で、ひよ里の親友やってん。あいつは、虚討伐任務で藍染に殺されて……崩玉の材料にされた」

 雛森は言葉を失ったまま、平子が重々しく口を開くのを見詰めるしかできなかった。

「今は四十六室が管理してる夏樹の斬魄刀、元々は千代の斬魄刀やってん。名前は翠雨。ルキアチャンの斬魄刀の前に、尸魂界で最も美しい斬魄刀や、て言われとった。能力が特殊でな、喜助と一緒に十二番隊で崩玉を創る基礎になっとったらしい。この辺はオレも良う知らんのやけど」

「その能力のせいで藍染に虚圏に拐われて、数ヶ月かけて魂魄を崩玉に創り変えられたんや」

 平子は藍染が崩玉を創り出すためにしたであろうことを話す。三席が殺されたこと、数は定かでないが他の人間もずいぶんな数が殺されていたこと、自分が虚化したこと、現世に逃げ落ちることになった本当の理由。

「それが、千代がほんまに死んだ理由。オレが部下を呑気に泳がせとったせいで、死んでしもうたんや。1番大事な人、やったのに」

 平子はそこで言葉を切って大きく息を吸って吐き出した。肩が僅かに震えてしまう。
 雛森がボロボロと泣いているのを見ると平子は苦笑いしながらタオルを差し出した。そういえば雛森は涙脆い質だったことを思い出す。

「泣き上戸かいな」
「ずみば、せんっ」

 雛森を見て冷静さを取り戻した平子の涙は引っ込んだ。部下の前で情けない姿を晒さなくて良かったと安堵する。

「兄さん、そしたら夏樹って子はなんなん…?」
「ちゃんと話するから待たんかい。桃話聞ける状態やないやんか」

 平子は千里の器に焼酎を注ぐ。平子は獅子唐の煮浸しに箸を伸ばしながら、日本酒を千里に注いでもらう。
 雛森の涙が落ち着いたところで、雛森には緑茶を渡した。同情の涙か、何に対して泣いたのかまでは追求しないことにした。

「夏樹の中にはな、崩玉があるねん。千代の魂魄で創られた崩玉が。精神世界で二人は繋がってた。せやから、夏樹は千代のことお姉ちゃんって、そう呼んで慕ってたんや」

 今から話すことは雛森も知らない、隊長にのみ話されている事だった。崩玉の保持は知っていても、その原料までは話されていなかった。
 母胎で死にかけていた夏樹は崩玉を取り込む事で命を繋がれる。そこから始まる喜劇と悲劇。藍染惣右介に育てられ、東仙要と市丸ギンを兄と慕い、母親からの愛情を目一杯注がれて、そうして母親の殺害によって幕を閉じた歪な過去。
 何度思い返しても気分の良いものではない。雛森の目からはまた涙が溢れた。
 死神の力が開花して、千代の霊力に呑まれそうになりながらも必死に足掻いたあの夏の日。千代の面影を残した霊圧が自分を蝕んだ薄氷上の日々。

「…夏樹にとって今も藍染は大事な家族で、父親のまんまなんや」
「…………は?」

 千里は平子の言葉に固まる。すぐ様身を乗り出して平子に掴みかかる勢いで口を開いた。

「何、言うてんの?その子、姉様の仇を、」
「せや」
「なんで!!?母親殺されて、何をっ」

 千里の目には怒りが浮かんでいる。落ち着けと平子は千里の肩に手を置いて座るように促した。
 夏樹が戦いの中で取った選択は、千代が偽りの家族であることを否定しなかったのだろうことを示す。きっと、全ての真実を知った上で千代は沈黙を選んだのだ。千代らしい選択だと思った。

「あの戦争で、夏樹は虚圏に…藍染の側におった。自分で、父親止めに行く言うて行ったんや。刀もロクに持った事ない平和な現世で暮らしてたただの女の子が。自分の命かけてでも止める言うたんは、家族に酷いことして欲しくないからや、言うて。どんだけのもんを、覚悟せなあかんかってんって…」

 ぽつぽつと零れていくあの時の夏樹の覚悟。母親の愛情を嘘にしたくないと言った。家族が好きなのだと言った。例え誰も味方でないとしても、独りだとしても、それでも誰かに刀を向けるよりいいのだと…笑っていた。孤独を飲み込んで覚悟を持った笑顔は、痛々しくて見てられなかった。

「戦争が終わってから、笑うどころか泣くんも出来へんかった。自分やなくて千代が残るべきやった言うて、大事なモンが死んでも悲しんだらあかんて塞ぎ込んで、自分を責めてくれ言うて、せやけどいっぺんも藍染が憎いとは言わんかった」

 絶望に染まった瞳。泣くことすらできないで握りしめていた小さな手。どうして、責めることができるだろうか。

「……オレは…大事なもんは大事なまま抱えて生きたらええと思ってる」
「あの子は、憎くないん…?なんで、憎くないのん?そんなん、なんで言えるん。おかしいわ…」
「せやから、夏樹と会わせられへんて言うたんや」

 ぼたぼたと涙を零す雛森に平子はすまんな、と苦笑いを溢す。

「夏樹もおかしいことくらい自覚してる。それでも、大事ならしゃーないやろ」
「………そう、なんやろか。僕は今あの人を殺したいて、思います」
「…藍染を憎むなとは言わん。けどな、人を憎むんはほんまに…ほんまに疲れんねん。心が蝕まれて乾いてく。せやから、取り込まれたらあかん」
「無理やろ、そんなん…やって、姉様は、」
「…笑ろて逝った」

 悔しそうに眉間に皺を寄せていた千里はハッと顔を上げる。目は赤く潤んでいて今にも涙がこぼれる、そんな表情が打って変わって驚きに染まる。

「あんな、藍染が封印された後にな、夏樹が千代に会わせてくれてん」
「どういうこと、ですか」
「精神世界を繋げてもーたんや。崩玉に残ってた最後の千代の魂魄をな、オレと繋げてくれてん。せやから最期に千代に会えた。100年経って、声も顔も記憶が朧げや思てたんに…全然忘れてへんもんやな」

 平子は少しだけ穏やかな表情を浮かべながら、あの最期の別れのことを切り口に話していく。千代は自らの意思で夏樹を守るために崩玉の力を使ったこと。母親が殺害された後はずっと面倒を見ていたこと。崩玉の力が誰かを傷付けなくてよかったと安堵したこと。今も夏樹は千代が大好きであること。
 あの穏やかな時間を思い出して、愛おしさに目を瞑った。

「姉様は…それで良かったんでしょうか」
「どうやろなぁ。ほんまのところは千代にしか分からん。けど、穏やかな最期やったよ」
「そう、ですか…」
「藍染を憎むなとは言わん。けど、オマエの中にかてあるんやろ。自分が藍染と築き上げてきた糧がたくさん。その結果までなかったことにはできへんねんから」

 過去は変わらない。虚偽に塗れた仮面をつけた姿だとしても、その姿に激励され、叱咤され、成長した過去までは、変わらないのだ。それはなかったことにはならないし、綺麗な思い出を汚し切る必要だって、ない。平子は五番隊の隊士が過去の藍染惣右介を心の底に置く事を悪とは考えていなかった。

「夏樹は今やっと、やっと笑って過ごせるようなってん。夢見が悪くて魘される回数も減った。もう斬魄刀も握らんでいい。普通の高校生に、やっと戻れたんや。…それでも、後どのくらい生きられるんかも分からへん」
「兄さんは…その子のこと、大事なんですか」
「大事や」

 平子は間を置くことなく答えた。

「せやから千里にはまだ会わせられへん。もうこれ以上、傷付いたところ見たァないねん」
「いつか、会えますか」
「せやなぁ…いつか、なぁ」
「遠巻きから見るんもあかん…?」

 千里は食い気味に平子に問い掛ける。雛森はまだべそべそと泣いたままだった。ちり紙をそっと雛森の横に置いてやれば、濁声でお礼を言いながら鼻をかむ音がした。

「話聞いても会ってみたいんか?」
「…うん。僕と話さんでもええから。ただ、どんな子なんか、知りたい。姉様が何を思ったのか、知りたい」
「……ほんなら。今度斬魄刀返す時、五番隊呼ぶから縛道でも張って姿消して見とくか?」
「ええの?」
「まぁ盗み見なんてやらしいけど、それが一番丸く収まるやろ。……あの、桃?ほんまに大丈夫か?」

 鼻をかむ音が止まず平子はやや引き気味に雛森の顔を覗く。

「ずびまぜ…っ」
「いやかまんけど…ほんま涙腺ゆるっゆるやねんな……」
「平子隊長も…相模さんもっ、あぁやって笑うのに…沢山のことがあったんだと思うと、胸が詰まって…!」
「おー…なんか逆に照れ臭いわ…千里、助けてくれ」
「僕!?」
「女の子にこないして泣かれたらどないしようもないやろ!」
「それは僕も変わらんよ!」
「も、もう大丈夫です、すみません…」

 雛森は最期にもう一度鼻をかむと眉を下げて笑った。話すべきことは大まかとは言え話した。もっと詳細に話すべきこともあっただろうが、頭はうまく回らない。かと言って、自分には酒もなしにこんな話をできる気もしなかった。

「千里、移隊もいつしてもええ。すぐ受理するから」
「僕は…五番隊、好きです。おったら、あかん?」
「そら千里の自由や。自分が積み上げてきたものもあるやろうしな」

 平子の答えにほっとした様子で千里は息をついた。おってくれた方が嬉しいわ、と伝えれば千里は嬉しそうに笑った。

「五番隊で兄さんと一緒に死神するの、小さい頃の夢やったん。せやから、これからもよろしくお願いします」
「…はは、そーか。ほんなら、よろしく頼むわ」
「はい!」

 千代とよく似た笑顔で千里は元気良く答える。この話をした事が良かったのか、悪かったのか。分かるのはずっと先になるだろう。
 それでも、平子は後悔はしていなかった。2人が負った見えない傷が、糧になることを願うばかりだった。