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 6月の半ばとは言え外の空気はまだ寒さを残している。夏樹は1人、ひんやりとした空気をゆっくりと吸い込んだ。

―平気、じゃ、ない

 店の入り口にある長椅子に座ると、長いため息をついた。空を見上げると曇天の空に薄っすらと月明かりが見えた。

―みんな、もう平気で…乗り越えて、やだ、な

「大丈夫?」
「…イヅルさん」

 視線を逸らすと吉良が申し訳なさそうな顔で店から出てきた。

「隣、いいかな」
「どうぞ」
「…ごめんね。こんな場に連れてきてしまって」
「い、いえ!ギンと要の話聞けて良かったです。私、家に来てくれる時の2人しか知らないから…」
「そうか。藍染隊長だけじゃなくてお2人も…」
「2人、お兄ちゃんがいたんです。お父さんと、お母さんと、お兄ちゃん」

 そう言い終わるのと同時に夏樹の目から大粒の涙がぼろりと落ちた。突然すぎて気のせいかと思ったが涙は止まらずボロボロと溢れ出して唇が震えた。

「あれっ、あれ…おかしっ、いなっ…!」
「夏樹さん…」
「ごめっ、なさっ…へ、あれ…ぅう」

 嗚咽が止まらず夏樹はしゃくりあげるように泣き始めた。吉良はどうしていいのかも分からず懐から出した手拭いを渡せずにいた。
 母が生きていた頃や虚圏での記憶が熱を帯びて渦巻いて、夏樹の頭は混乱が収まらない。どうしてこんなにも涙が止まらないのか自分でも分からなくて、それが情けなくて。夏樹は必死に涙を止めようと唇を噛んだ。けれど、止めようとすればするほどに涙はこぼれていく。

「あの…よかったら、これ」

 べそべそと泣き上げる夏樹に吉良が手拭いを差し出そうとした瞬間、不意に強い風が吹く。

「夏樹っ」
「ふぇ…ひらこ、ぐん」

 少し息を切らした平子が突然視界に現れて、夏樹は慌てて涙を死覇装の裾で拭う。その一瞬、平子に刺すような殺気の籠もった目で睨まれイヅルは背を正して思わず首を大きく横に振った。

「どないしてん、何があった。ここで皆んなで飲んでる言う話は聞いとんやけど」

 口調は少しばかり早口で、平子はしゃがむと夏樹と視線を合わせて両手を掴む。

「なんでも」
「ないはナシやぞ。なんもなくて泣くアホがおるか。ええからゆっくり言うてみ」

 夏樹は視線を一度逸らしたあと、平子に戻す。

「わか、んなくって」
「おん」
「ギンと、要の話、聞けて…嬉しかったのに」

 平子は静かに相槌を打ちながら夏樹の言葉を待つ。鼻をすすりながら夏樹はしどろもどろに言葉を繋ぐ。

「私も話したいのに、なんでか、気持ち悪くなっちゃって。平気じゃなくなってきて…」
「あー…そうか、そうよな。…そうよなぁ」
「……?」
「死神してるとなぁ、身内も大事なやつも死んでくからなぁ…死んだ事に向き合うのにみんな慣れとるんや。それか、慣れとるフリとか折り合いのつけ方が上手なんや」

 平子は困ったように眉を下げて笑う。

「まだ全部受け止めきれてへんくて、思うてることと感じてることがズレてついてけんくなったんやろ」
「そうなのかな…」
「夏樹、いっぱい泣いとけ。ほんでいっぱい思い出したらええ。無理に人に話さんでもいいし、また思い出して泣きたくなったら泣いたらええねん。泣いて、ちょっとずつ整理してくんや」
「…平子くんも、そうしてたの?」
「ん…オレはそれができんまま、100年経ってしもたから。まあでも、涙出たほうがちょっとだけ、スッキリすんな。内緒やで」

 夏樹は平子の瞳の中にある哀愁に胸の奥が痛くなって、ぎゅうと平子の手を強く握った。

「自分の中で供養させるんに、近道も正しい道もあれへんから。焦らんとゆっくり、な」

 夏樹がこくりと頷くのを見て平子はゆるりと笑った。握られた手の温かさが、心臓に落ち着きを取り戻させる。

「…ありがと、平子くん」
「ん。今日はもう帰り。上手いこと中にゃ言うといたるから、その目ェ擦ったあかんで。明日腫れてたらばーちゃん心配するさかい」
「うん」
「吉良も中入り」
「は、はいっ!」

 程なくしてルキアと恋次が出てくる。2人とも突然外に出て帰ってこない夏樹を心配げな表情で見やった。

「ごめんね、早くに切り上げる事になっちゃって」
「そんなことはどうでもいいのだが…その、大丈夫か?」
「うん、もう平気!ありがとう」

 夏樹は泣き腫らした目でにかりと笑った。ルキアはそうか、と笑うとそれ以上は追求してこなかった。
 ゆっくりと進めばいいのだと諭されて、夏樹の心は軽くなった。平子の言葉と手はやはり魔法が掛かっているんじゃないかと思ってしまう。すぐに立ち止まってしまうけれど、これまでのことをゆっくり、ゆっくりと受け入れられたらいいなと思った。


 = = = = =


 平子は乱菊の目の前の席にどかりと座る。箸と皿を雛森から受け取り酒を注文した。

「任務お疲れ様でした、平子隊長」
「桃も来てたんやな。お疲れさん」
「予定より随分早いお戻りでしたね。任務どうだったんですか?」
「んー、変な虚がおるて報告あがってたから行ったけど霊圧をギリギリまで落として隠れとっただけやったわ。ほんでサクッと終わらせてきた。頑張ったんやから褒めてェや」
「流石です、お疲れ様です!これで明日からの書類もガンガン捌けますね!」
「嫌なこと思い出させんといて!」

 平子は態とらしくウワーと呻きながら頭を抱える。日常となりつつあるやり取りに乱菊はケラケラと笑った。雛森が酔い潰れた吉良の介抱を始めたところで平子は1人でぼんやりと酒を飲む乱菊に視線を戻す。

「すまんかったな、帰してしもうて」
「いえ、あたしこそ性急で軽率だったなあと…あの子、人間ですもんね…すみませんでした」

 酒に酔いながらも乱菊は深々と頭を下げた。

「謝ることちゃうやろ。それにもし謝るんやったら相手は夏樹やし、謝ったら萎縮する思うからやめたってな。連絡もうた時はメンツ的にそういう話したりするんやろなとは思ってたんや。ほんでオレもええ吐き口なったらとは思うてんけど」
「ギンが…あの日、守るように動いていたのは気付いてて。どんな子か会ってみたかったんですけど…自分本位でしたね」
「もう…8ヶ月か。死んだと思うてた家族に会えて、せやのにすぐ死んでしもうて、罪人で。上手く吐き出せへんやろ、そんなん。難儀なモンやで」

 平子は追加で日本酒をオーダーした。話題を変えようと乱菊はちらりと吉良に視線を送る。

「今日の任務早く終わらせたの心配だったんじゃないですか?吉良が相手じゃ」
「アホ、そんなんとちゃうわ。オレの要領がええから早よう終わらせただけや」

 吉良はそんな台詞を小耳に挟んで、瞬歩で来た人の台詞とは思えませんけど、という言葉をぐっと飲み込む。自分が至らなかったのは否定できないからだ。

―この人、どんな顔して夏樹さんと話してたのか自覚ないのかな…

「ま、今度は甘味処にでも誘ったってえな。甘いモン好きやから」
「ふふ、もう誘いましたよ」
「お、そらええな」

 そういえば、と乱菊は声のトーンを落として平子に耳打ちする。

「千代さんのことを知ってるような素振りでしたけど」
「あー、そうか。乱菊チャンって長いんやっけ」
「ギンとは…同期ですから」
「夏樹に崩玉があるんは聞いとるやろ。まぁ詳しくは言えんけど…夏樹は一時期千代と一緒におったんや。せやから千代ンこともよう知っとるし、お姉ちゃん言うてよう懐いとったみたいなん」

 平子は小声で、けれど懐かしむような表情で語りながら、だし巻き卵に手を伸ばす。乱菊は3人の関係性が見えず首を傾げるが、穏やかなこの表情が悪い関係を示してはいないのだと感じていた。

「夏樹が大丈夫そうやなってなったら昔話でもしたってくれへん?もう千代のこと知っとるやつ、あんましおらんしな」

 平子はお猪口を一気に飲み干すと席を立った。机には多めの金を置いて伸びをする。

「これ、夏樹の分と含めてで」
「えっ、多くないですか!?」
「えぇえぇ、もろといて」
「もう行かれるんですか?」
「遠征で疲れたから帰って寝るわ、明日も仕事やしなァ。最後に別嬪さんと飲めて楽しかったで。ほなおやすみ、お疲れさん」

 風のように去って行った平子の背中を見ながら乱菊はすかさず遠慮なく追加の酒を注文した。

「平子隊長、今日の任務あと3日はかかる予定だったんですけど…」
「フーーーン」
「やっぱり相模さんのこと心配だったんですね」

 雛森はゆるりと頬を緩ませた。

「乱菊さん?」
「いや〜面白そうな2人だなーって」
「おもちゃにしちゃダメですよ…」
「吉良、外で平子隊長と夏樹が話してたんでしょ?何話してたの」

 吉良は乱菊に肩を組まれてびくりと背筋を伸ばす。

「早く話しなさいよぉ」
「…市丸隊長達のことを思い出して夏樹さん、泣かれてしまったんですけど…平子隊長が話聞いて慰めてって感じでしたよ」

 あの刺すような視線を思い出して吉良は眉根を寄せて机に突っ伏す。

「ボク、平子隊長に殺されるかと思いました…泣いてる夏樹さん見た瞬間にすごい睨まれて…」
「…へえ」
「平子隊長ってあんな穏やかな顔されるんですね…いっつも激しいツッコミとか漫才されてる姿しか見たことなかったので」
「なんでやねん!」

 耳まで赤く染まった檜佐木が勢いよく吉良にツッコミながら酒を口に突っ込んだ。

「それ発音違う〜って平子隊長に怒られるヤツよ!」

 乱菊は夏樹と話していた時の顔を思い出す。最初は緊張していた様子が、ゆっくりと解れていって、平子と一緒にお菓子を食べたのだと楽しそうに笑う姿。きっと2人は近い関係にあるのだろう。

―また随分茨の道ねえ…

「うっし、今日はトコトン飲むわよぉ!」
「松本さんそれいつもじゃらいですかあ!」

 酒が完全に回りきった檜佐木は焦点の定まらないままそう叫んだ。乱菊はそのとーり!と元気よく答えて追加の酒を注文するのだった。