86
全身が震えるほど寒くて平子は思わず飛び起きた。乱れる呼吸を整えながら、寝汗で服が濡れている気持ち悪さに眉を顰めた。
震える手を見ないフリして、ふらふらと立ち上がると覚束ない足取りで水を取りに行った。
―……なんやねん、もう…
鏡に映る自分の顔色は最悪だった。手の震えは止まったが、動悸はまだ少し速い。水が喉を通って漸く気持ちが少し落ち着いた。
平子は壁に背を預けてずるずると座り込んだ。長いため息をついて、あれは夢だと自分に言い聞かせる。
ここ数ヶ月、時折襲う悪夢に頭を抱えていた。
夏樹が死ぬ夢だった。真っ白な空間にぽつんと立った夏樹は、謝りながら自分の首に刃を突き立てさせる。斬魄刀を握るのは夏樹ではなく、平子自身だった。笑っているのに泣きそうな顔で、手は震えているのに目には強い覚悟が見える。ちぐはぐとした心と身体が悲鳴をあげているように見えた。
平子の身体はぴくりとも思うように動かなくて、声すらも上げられない。夏樹が目を瞑ると勝手に刀が首元にめりこんでいく。やめてくれと叫んでいるのに声は音にすらならない。ただそれをじっと見せつけられて、赤い血飛沫が勢いよく自分の顔に飛んだ。
夏樹の身体が意思を失って倒れ込むと、漸く金縛りが解けて平子は震える手で夏樹を抱き起こした。呼吸も、心臓の音も、聞こえない。2人の服は血を吸って重くなっていた。
震える唇で小さく名前を呼ぶが返事はない。漠然と、こうしなければいけないのだと理解だけはしていた。
ぐったりとした夏樹に、答えのない何故を心の中で繰り返しながら口付けした。夢は、そこで終わる。
―予知夢みたいな、そんな気がしてならんのは何でや…
妙にリアリティの強いその夢は、何かに無理やり見せられているような違和感があった。時には夏樹自身の手で命を断ち、何かに殺される時もあり。過程はどうであれ、夏樹は何度も死んだ。
―何が、誰がこんなこと…
鬼道を掛けられている痕跡も、周囲に誰かがいる気配もない。冷静に考えたいのに、胸の奥深くを抉るような衝撃は思考を奪っていく。
―夏樹が、死ぬ
見たくもない未来を見せつけられたような夢に精神は静かに磨耗していくのを感じた。ガシガシと乱暴な手つきで頭を掻くとおとなしく布団に潜ることにした。
―待てや、この夢見るん…翠雨がオレの手元に預けられてからや
がばりと起き上がると嫌な予測にまた冷や汗が出てくる。
―これを見せてるんは、まさか、翠雨か…?
―なんでこない手の込んだことを。いや、オレに何か伝えるならこうするしか、ない…?
自分を嫌うあの斬魄刀なら。人の精神に介入できる力なら。きっとこんな夢を見せることだって無理な話ではないはずだ。ましてや自分は一度あの刀に精神を侵入され、今は霊力を共有する身だ。
―本来なら。翠雨は神剣として登録されてもおかしない力を持つ斬魄刀や。力の強い斬魄刀は主人のために勝手に力を発揮してまうことだってある
じわじわと、差し迫る嫌な気配にきつく目を瞑るしかなかった。
それから、朝日が登ったことにホッとしながら、悪夢があったことなどおくびにも出さず淡々と業務をこなした。忙しいことだけが救いだった。
平子は誰もいない執務室で机に置かれた斬魄刀の鞘に静かに指を走らせる。純白に輝いて見える色味に懐かしさを覚えるも、彼女の痕跡は何処にも残されていなかった。
ノックの音に顔を上げると来たのは雛森だった。
「どないしたん」
「忘れ物しちゃって。平子隊長こそ、こんな時間まで…あ、」
斬魄刀に目が入り、雛森は少し眉を下げながら明日ですもんね、と言った。
「……明日、すまんけど」
「はい、人払いもしておきますし、急ぎの案件も全部私が引き受けますので」
「ありがとうな」
「いえ、副官ですから。頼ってください」
とん、と胸を張る雛森に頼もしい副官やと平子は笑った。雛森が帰ると平子はまた表情のないまま斬魄刀を見つめていた。
―返すのが正解か、返さんのが正解か…死神の力が、戻ってしもうたら……嫌、やなぁ
―また夏樹が、戦いに身を置かんとあかんくなるんは絶対あかん
夏樹に力が戻ったとなると政治利用や反乱分子として扱われる可能性が浮上してくる。それは避けたい事態だった。
―返さん方が、都合がええことは多い。せやけど…斬魄刀は自分の半身や。夏樹にとっても、大事な存在なら…これからどうしたいかは夏樹が決めた方がいい
「翠雨。オレが嫌いなんは構わへんけど。あんな夢見せるんはもう勘弁してや。言いたいことあるんならもーちょいはっきり言うてくれな分からんわ」
平子はため息を着くとこつんと人差し指で柄を叩いた。抗議する様な翠雨の苛立ちを感じた気もしたが、何を抗議しているのかは判らない。棚に斬魄刀を戻し、厳重に施錠した。
明日、彼女が何を選択するのか。何度考えても分からず、平子は胃にのしかかる重圧に口を結んだ。
= = = = =
「体調はどないや?」
「うん…ぼちぼち、大丈夫かな」
いつものように浮竹の別邸で、夏樹は伸びをしながらそう答えた。この具合であれば夕方には現世に戻っても問題ないだろう。
今日は来てほしいところがある、と夏樹をおぶって執務室へ戻る。
「桃〜、戻ったでぇ」
「お疲れ様です、隊長!お茶、入れてきますね。相模さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです、雛森さん」
「今日ね、前に言ってたきんつばが買えたから持ってくるね」
「わ!本当ですか!楽しみです!」
にこやかな挨拶を交わしながら、応接用のソファに座るよう促す。部屋の隅に昨日まではなかった物のない空間。夏樹は千里に気付いている様子はない。昔の夏樹であれば気付いただろうが、幸いにも死神の力を殆ど失った今では分からない様子だった。
「また何処か行くの?」
「いや、今日の用事はここやねん」
「?」
夏樹が首を傾げている間に雛森は茶を持って戻ってくる。
「平子隊長、では1時間ほどでよろしいですか?」
「せやな、とりあえず終業時刻までは頼むわ」
「はい。相模さん、ゆっくりしていってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
状況の飲み込めていないまま、夏樹はぺこりと頭を下げた。
平子は手のひらがかさつくような感触にやや気が滅入りながらも、きつく手を結んだ。
「夏樹、返すもんあるねん」
そう言って厳重にかけた鍵をひとつ、またひとつ外す。刀を持ち上げたときに響く金属音が妙に耳に張り付いて聞こえた。
「どうしたいかは、夏樹が決め」
「………翠雨」
夏樹は目を丸くした後、恐る恐る刀に手を伸ばした。手つきは慎重に、丁寧に。宝物を受け取る様に掌に乗せた。
「よかった…もう、会えないかと思ってた…」
愛おしそうに柄に額を寄せて、おかえり、と呟いた。
「もう武器なんて持たんでええんやぞ」
「…武器だけど、武器じゃないよ」
「そか」
夏樹は膝の上に斬魄刀を乗せると、穏やかな表情で静かに鞘を指で撫でる。
「対話、できそうか?」
その問いに夏樹の身体は縮こまった。一瞬瞳が揺れた後、どうかなぁと曖昧に笑って見せる。
「別に無理にせぇとは言わんよ」
「うん」
「……手放したかったら、こっちで預かってても構わへんぞ」
夏樹は驚いた表情で顔を上げる。ぎゅうと刀を握り締めながら眉根を寄せる。
「もう戦わへんねや、必要はないやろ」
「……持ってちゃ、だめ?」
「駄目ちゃう、それは夏樹の自由や」
「なら、一緒にいたい」
そう言い切る割に感情は淀んでいるように見えた。深く聞くべきか、聞かぬべきか平子は迷いながら夏樹をもう一度見る。そもそも渡す事自体、重荷だったかもしれない。
「………あァもー!!!」
「ひぁっ」
「そないに暗い顔されとったら気になるわ!渡さん方が良かったんちゃうか思うやろ!!」
突然叫び出した平子に夏樹は目を丸くした。
「ち、ちがくて!」
「ふーん?」
じとりと見つめれば観念したのかたじたじと口を開き始めた。
「……対話って、精神世界に行くってことでしょ…?お姉ちゃんといつも会ってたのも精神世界だったから…最後に、ごめんなさいもありがとうも言えないままだったなって…」
しゅんと項垂れて最後は尻すぼみだ。平子は落ち込む夏樹にしまったとやや反省しつつも、額にデコピンをかました。
「ぁいた!」
「千代はそんな小さいこと気にせんやろ」
「でも…!ちゃんと、言いたかったの。ありがとうって、直接」
「千代なら夏樹がそう思う事くらいお見通しや、大丈夫やて」
乱暴に頭を撫でれば不満げにこちらを見上げてきた。上目遣いで迫力に欠けている。
「そっか…そう、なのかな。あの、平子くん」
「ん?」
「翠雨のこと…ありがとう。返してもらうの、大変だったでしょ?」
「別に大したことしてへんけど」
「…本当だったらお父さんと一緒に私は地下に収監されてた、とかあり得ない話じゃなかったんじゃないの?」
「!」
「尸魂界で私も反乱分子、だったんでしょ?いくら容疑が晴れても、無害だと思われても…私は藍染惣右介に育てられた人間で、世界を滅ぼす力を持ってる。だから、もう二度と翠雨には会えないんだって、そう思ってた」
私が良くないモノだって分かってるよ、と言いながら夏樹は愛おしそうに斬魄刀を見つめる。
「会いたいって、言っちゃいけないと思ってた。ずっとずっと、会いたかったの。お姉ちゃんが、私に遺してくれたのは私の命と……翠雨だったから」
だからありがとう、と続ける夏樹に自分のしたことが間違いでなかったことに漸く確信が持てて、平子は肩の力が抜ける。この子は本当に我慢ばかりだ。
「…千代にも、会いたいって思ってたんか」
夏樹と視線が合った瞬間、大きく瞳が揺れた。夏樹の正面にしゃがんで目線を合わせると、ゆらゆら揺れる瞳が徐々に潤んでいく。
「ちゃうのん?」
「…っ、会い、たい…!お姉ちゃんに、会いたいよ…!」
「最期の時間はオレが全部もろてしもたからなぁ」
夏樹は袖で目を擦りながら勢いよく首を横に振った。
「頭では、全部わかってる、んだけどっ」
「うん」
「すごく、さびしくて…!ずっと一緒だったのにっ、急にいなくなって、ほんとに身体に穴が空いちゃったみたいで」
「うん」
「ずっと、さびしいままなの…」
また瞳から涙が溢れそうになって、夏樹は鼻をすすりながら袖で乱暴に拭おうとした。平子は思わずその手を止めようと手首を掴んだ。
―綺麗や、なんて思うんは可笑しいやろか
濡れた睫毛が上下に動いて、表面張力を失った涙は頬に溶けるように流れ落ちていく。彼女のために流される涙が溢れていくのが何故だか酷く愛おしく見えて、潤む目元に口付けをしたくなる衝動を抑える。
「強く擦ったらあかんて」
「…ティッシュほしい」
「はいはい」
鼻を噛む音が響いて平子はやれやれと笑いの混じったため息が溢れた。
「対話したら死神の力、戻ると思う?」
「…どうやろなぁ。戻ってほしいんか?」
「うーん…どうだろ。また刀を握るのは怖い…けど、何かあった時に何もできないのも、怖いなぁとは思うかな」
「もう平和やねんから戦わんでええよ、夏樹は」
「平子隊長が世界の平和を守るから?」
「どこの戦隊モノの台詞やねん」
「ふふっ、頼りにしてるね」
夏樹が珍しく素直に言葉を発するものだから、どこか気恥ずかしくて平子は頭を掻いた。
「対話は…うん、もう少し勇気が出たら、浦原さんのところでやるよ」
「なんで喜助んとこやねん」
「何かあった時、こっちよりも浦原さんの側の方が都合がいいかなって。平子くん達に迷惑かけちゃう」
「あー……そこまで気にせんでええわ、って言いたいとこやけど、確かにそれは喜助んとこでやるんが1番ええわ」
「うん」
ちょうど終業の鐘が鳴って2人は顔を上げる。同時に雛森が戻ってきて、今日は雛森と現世に戻るよう言った。
「ほなまた、再来週か?」
「うん、お願いします!」
「桃、すまんけど現世までよろしく頼むな」
「はい、お任せください。じゃ、相模さん、行こっか」
「はい!」
夏樹達が出ていく時視界に入った後ろ姿。刀が主人の元へ戻れたのがよく見えて目元を綻ばせる。
「千里、もうええで」
掛け声と共に縛道が消えるが千里は床に座り込んだままだった。
「どないしてん」
「………なんやのん、あの子」
壁にもたれかかったまま、ずるずると床に寝そべる。覇気のない呻き声が床に響いた。
「汚いで」
千里の頭をこつんと叩けばまた呻きながら頭を抱えた。
「…なんか、思ってたんと違う」
「なんやと思ってたん」
「分からへん、けど…姉様が託したって言うのが、ほんまなんやなって思っただけ」
「気ぃ済んだか?」
「………うん」
やや不服そうに千里は頷いた。ごちんと床と額がぶつかる音がした。
「拍子抜けや」
「そーけ」
「あの子ごと、憎いって思えたら…よかったのに」
床に額をつけて顔を隠している。強く握られた拳から押さえ込まれた感情が爆発しそうになっているのが見て取れた。
「僕の、この気持ち、何処にやればっ…ええのん」
「………………」
「あの人、殺したら、ええの」
低く唸るような声で千里は呟いた。
千里に全てを話したのは間違いだったろうか。今なんと声をかけるべきか、選択を間違えると取り返しがつかない予感があった。嫌な未来の予測に平子の心臓は冷える。
「あかん!!!」
「うわっ」
平子が口を開きかけた瞬間に、千里は勢いよく立ち上がると素っ頓狂な申し出をした。
「兄さん、僕を殴って!」
「ハァ!!?」
「こんな僕あかんねん!姉様に顔向けできへんような僕じゃ、あかんねん!!」
真剣な表情で訳の分からないことを言って迫る千里に平子は思わず小さな悲鳴を上げた。
「きゅ、急に来んなや…」
「兄さん!!」
「オレに熱血を求めんな!!アホ!」
「ノリ悪いわ!可愛い弟の意思汲み取ってぇな!!」
「嫌じゃボケ!なんやその十一番隊みたぁなケッタイな思考回路!」
「自分があかんことしそうになったら尊敬しとる人に殴ってもらえて書いてたんや!!」
「何処の何奴がそんなアホなこと言うとるんや!!」
「射場副隊長はアホと違うわ!!!」
「射場ァァァ!!!」
平子は両手で自分の頭を掴んで射場の名を叫んだ。あのグラサンを叩き割りたくなる衝動が走る。
「ドアホ!ンなしょーもないモンに感化されんな!!」
怒りのまま思い切り振り下ろした拳骨が千里の脳天に直撃する。ゴチン!と鈍い音がして千里はあまりの痛みにその場に蹲った。
「イッダァァァァ!!!何すんの!!」
「殴れ言うたんオマエやろ、こンのバカチン!!」
「ちゃうもん!僕が殴って言うたんはもっと、こう!漢!!て感じの!」
「知らんがな!」
2人とも肩で息をしながら睨み合った。あまりのくだらなさに平子は長いため息を吐いた。
「あーーー…しょーもな。ほんま。もう、しょーもなすぎて言葉出―へんわ」
「僕は真剣やし」
「はいはい」
「………僕、あの子にはまだ会わんとく。あの子にきっと、酷いこと言うてしまうから」
「うん、そーか」
千里は頭をさすりながらそう言った。素直で優しいこの男らしい選択だ。
「ねえ、兄さん。あの子、僕のこと弟って気付くやろか」
「なんで?」
「五番隊五席としてなら、ちゃんとできると思うから。雛森副隊長と仲良さそうに話してたのに僕がおるからてこっち来れんのも、可哀想やん」
「…大きなったな」
「急に何!?」
五席を務めるだけの、それ以上の役職でも問題ない程の視野をきちんと持っている。平子は義弟の成長に少し涙が出そうになった。
「いや、そう思うただけや。気付くかもしれんし、気付かんかもしれんな。千代の顔は1回だけしか見てへん、言うてたしなぁ。ただ雰囲気が千里と千代は良う似とるから」
「関西弁取った方がええ?」
「やめとけ、イントネーションとかキッショなるだけや」
「うへぇ、そうかな」
「そんなもんや。アイデンティティ舐めたらあかん」
ボクハゴセキデスーと片言で喋る千里に思わず吹き出す。もうさっきの強い怒りは見えていなかったことに胸を撫でおろした。
「ね、兄さん。この後稽古つけてほしい」
「殴れとか言わんなら付き合うたるよ」
「やったー!」
「ったく、業務時間外の仕事や」
「僕、強くなる。姉様に顔向けできるくらい、心も強くなる。僕が憎しみばっか考えてたら、姉様は悲しむと思うから」
「せやな」
平子は千里の背中を軽く叩くと執務室を出て行く。早よ来な稽古せんぞ!と呼ばれる声に千里も慌ててその背中を追った。
今日は千代に報告しなければならないことが沢山あると、平子の口角は上がる。
夏樹が翠雨と共に生きたいと言ったこと。千代に会いたいと泣けたこと。義弟が大きく成長したこと。きっと彼女がここにいたら、嬉しそうに笑いながらもっと聞かせて、とせがむのだろう。愛おしいと一言で片付けるには勿体ないと感じるほどに、2人の選択を喜ばしく思った。