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「身体に異変があったり、しませんか?」

 俯いたまま、夏樹はそう尋ねられて身体が強張る。怪しげなコードが続く器具を掴んだ手が力んだ。心臓が跳ねるのと同時に、あぁ遂に、と諦めのような感情が胸中を占めていた。
 今は浦原商店の研究室で夏樹の霊圧の変化を測定しているところだった。
 死神の力を失った黒崎一護に死神の力を取り戻させる。人間への力の譲渡は厳しく禁止されている中、浦原はきっと必要になるからと研究を進めていた。他人の霊力を自分のものへと変換する夏樹の性質は、基礎研究に必要だとして協力を仰がれていた。
 学校での一護のやるせない背中を毎日見ている夏樹は二つ返事で頷いたのだった。協力と言ってもマユリのように体の一部を求められる訳でもなく、ただ色々な霊圧を流されたりするたびに擽ったくなる程度のことしかしていない。

「今まで通りですけど」
「本当に?…数値的に、ちょっと怪しい挙動が出てるんスけどねぇ」

 薄暗い研究室の中、浦原は腰を下ろすと夏樹と向き合った。帽子の下から覗く眼光は鋭い。

「どのみちすぐアタシには分かりますよ。早く言って貰えた方が楽なんスけど」

 夏樹は観念して渋々と口を開いた。この人に隠し事は恐らく不可能だと本能的に感じていた。

「……時々身体と…感覚がズレるんです」
「魂魄と器が齟齬を起こしてるんスかね…もうその段階に入ってしまいましたか」
「このままだと身体が、割れるんじゃないかって」

 未覚醒の状態を維持していた時であればまだしも、覚醒しきった状態での崩玉は第一人者である浦原にすら扱いが困難なものだった。夏樹自身、解決するとは思っていない節もありなかなか言えずにいた。

「涅サンはお気付きに?」
「んー…どうでしょう」
「……斬魄刀との対話、試してみませんか」

 夏樹はその提案硬直した。斬魄刀が返ってきても、対話は今までできないでいた。斬魄刀が答えてくれるのか、自分の体はどうなっているのか、死神の力が暴走してしまわないか。考えられうる懸念事項は余りに多く、その一歩は勇気を振り絞る必要があった。
 測定用にとコードを持たされながら、過去に試した数々の策を思い返した。
 ルキアの入っていた崩玉を隠す義骸も試してはみたが覚醒した崩玉を御することはできず、義骸自体が崩壊した。藍染に施した封印は永続的な効力を発揮せず、無間で使用されている拘束具も器の脆い夏樹には耐えられる代物ではなかった。
 現状、覚醒した崩玉と壊れかけの器の2つを同時に制御する方法は見つかっていない。千代が崩玉に干渉したお陰でどうにか命を繋いでいる状態から何1つ、新たな策は見出せていなかった。

「何が起きてるのか、数値だけで見えない現状を知る必要があるんス。無理に、とは言いませんが」
「いえ、その…やって、みます。私も気になりますから」

 作り笑いはどうにも引きつってしまうが、夏樹はゆっくりと胡座をかく。大きく息を吸って吐いて。緊張で心臓の音が身体に響いて、なかなか対話できる状態にはならない。それでも何度も深呼吸をして、意識は心の中へとゆっくりと落ちていった。
 漸く意識が内側に向かった夏樹に浦原は安堵の息をつく。彼女にとってさまざまな危険を孕んだ対話はとても怖いことだろうと。あとは現状が手を打てる内容であることを祈るばかりだった。
 暫くして夏樹は精神世界から戻ってくるも、顔から血の気は引いていた。

「…あまり、よくなかったようっスね」
「あと、1年…」
「!!」
「死んだら、魂魄は崩玉に呑まれて消えて無くなる。枷のなくなった崩玉が…周りを呑み込むかも、しれないって…崩玉はまだ、力を求めてる。下手すると、沢山の人を巻き込むと」

 呆然としながらもはっきりと言葉を紡いだ。唇は震え、青くなっている。一瞬、夏樹と目が合ってその瞳に刻まれた深い恐怖と絶望に浦原の背筋が粟立った。
 平子が酷く苦しそうに、あんな顔はもう見たくないのだと言っていたのが浦原の脳裏を過ぎる。

「はは………ごめんなさい、浦原さん。色々してもらってたのに」
「…まだ、可能性の話っスよね?」

 語尾を強められ夏樹は渋々頷いたが、夏樹には楽観的な未来は描けていなかった。身体の限界が近いのは虚圏にいた頃にも感じていた。夏樹だってある程度の覚悟はしてきたつもりだった。それでも、こんなにも余裕のない事態を招くとは思いもしなかった。
 浦原に言われるがままいつもよりも精密な検査をいくつも進めていった。

「…今日はこの辺にしましょっか。また明日、来てもらえるっスか?涅サンのデータとも合わせて照合しないとですし」
「この話、誰にも話さないで貰えますか?」
「いいんスか?」
「…できるだけ、元気な私のフリだけでもしてたいです」

 貼り付けたような笑みを浮かべてそう答えた。治る見込みのない現状は杞憂ではない。

「………浦原さん、私を殺せば、崩玉を封印できますか」

 震える声で、涙が今にも溢れ落ちそうになりながら、それでも決意を称えた目ではっきりとした意志を伝える。そんな答えが出るとは思ってもみなかった浦原は、ぴたりと器具を片付ける腕が止まる。

「それは生きるのを諦める、と?まだ全ては試していませんよ」

 浦原は夏樹の話を遮ると怒気の籠もった声で夏樹に尋ねる。治療もやめますか?と。崩玉の封印について、是非を答えなかった。答えることはできなかった。

「死を受け入れるって言うんスか。生きるの、やめたいんですか」
「受け入れたい訳ないじゃないですか…!でも、お姉ちゃんはっ…崩玉で誰も傷付けたくないって、言ってたから」

 夏樹は俯いたまま、負けじとしっかりと言葉を紡ぐ。ちょっとやそっとの脅しで屈するほど、意志は弱くない。

「お姉ちゃんの力で、誰かを傷付けるくらいなら、死んだほうがマシです」
「…だからこそじゃないスか。だからこそ、アナタは生きなくちゃいけない。彼女が望んだのはアナタの生だ。いいですか、アナタに生きる気力がなければ解決できるものも解決できない。まだ魂魄の崩壊も限界も決まったわけではない。何が起きるか分からないんだから足掻いてください、最後まで」
「……………」
「平子サンにもちゃんと報告しましょ?」
「ダメっ!それはダメ!!!」

 伝令神機を取り出した浦原の腕を必死に掴んだ。ブンブンと顔を横に振って弱々しい声でやめてくださいと懇願する。

「言うなら…自分で、言いますから…」
「何をそんなに怯えてるんです」

 浦原の攻め立てる声は理解不能だという意思を含んでいた。夏樹は視界が潤んでいくのを必死に堪えながらただ首を横に振る。

「こンの大莫迦者!!!」

 半分開いた窓から黒い塊が浦原の後頭部にクリーンヒットした。あまりの勢いに床と額がキスをする。

「大丈夫か?相模」
「夜一さん!?」
「全く…さっきから聞いておれば喜助、此奴は死神でもなければ戦士でもない。ついでに乙女心も分からん奴め」
「イテテ…夜一サン、ほんとに容赦ないんスから…」
「死への恐怖と向き合い続ける死神と此奴を同列にするでない」

 浦原は後頭部をさすりながら起き上がると不満げに夜一を見た。

「平子には言いたくないんじゃな?」
「………はい」

 夜一は俯く夏樹の頬にぺたりと肉球を当てる。夏樹は縋るように夜一を抱き留めた。鼻をすする音が夜一の体に響く。

「平子には1番言うべき奴ではないのか?」
「だって、どうしていいかわからなくて、こんなこと…考えたくもなかったのに」
「不安か?」

 夏樹はその問いに小さく頷く。平子がどんな人間であるか頭では理解していても、弱い心が同じ事を感じてくれない。

「もう、これ以上平子くんに…重荷を背負わせたく、ないです」
「そうかそうか。…で、崩玉のことは誰にもどうしようもないと、そう思ってるんじゃな?」

 夏樹は遠慮がちに目を伏せながら頷いた。

「まあ生みの親にも破壊できんかったシロモノじゃしなァ」
「確かに崩玉は人が破壊できるものでも、思うが儘にできるものでもないっス。けれど、崩玉を作ったのはアタシですよ。出来ないかどうかはアナタが決め付ける事じゃない」

 夏樹は思わず叫びそうになった。崩玉のこの熱量を内側から実感したことのない貴方に何が分かるのだと。最早天災としか言いようがない脅威を身体の内に秘めるこの恐怖はきっと誰にも分からない。誰にも伝わらない。それに気付いて夏樹は口を噤むと静かに夜一を床に下ろした。

「ま、実際どうにかできる術が今はないので、説得力がないと言われれば言い返せないんスけどね。諦めるな、なんて軽々しく口にしたところでアナタに響かないことも分かりますよ」
「確かにの。喜助よりも説得力ある説明をした方がよかろう」
「………言うなと言われているんですが、仕方ないですねェ」
「…?」
「アタシの本棚、アソコがすっぽり抜けているでしょう?」

 くい、と扇子で指された方に視線をやると確かに本棚の一列分に本が入っていなかった。他にも所々抜けたところが見受けられる。

「崩玉に関連する論文や基礎研究をまとめた資料が入ってたんスよ。今その資料は全部、平子サンにお貸ししてます。あの戦争が終わってからずっとね」
「え……?」

 夏樹は思わず眉根を寄せた。浦原が言わんとしている事をうまく理解できない。

「本来学ぶこと自体が禁忌っス。しかも崩玉に関して正しく理解できるとしたらアタシや涅サン…それから藍染サンくらいでしょう。とてもじゃないが平子サンには理解しきれないと思います」

 別に平子サンの頭が悪い訳ではないんスけどね、と付け足した。

「それでも、アナタが1日でも、1秒でも健やかに生きれるようにと、願っているから。だからできる事はないかと平子サンも足掻いているんです」

 夏樹は浦原の言葉に何も返事が出来ずにいた。平子はそんな素振りを見せもしなかったから、夏樹は知る由もなかった事だった。

「そんな…」

 生きてと願う母の声が、大丈夫と笑う千代の声が自分の生を肯定してくれたように、平子もまた願い続けてくれたのだと改めて実感する。早々に諦めようとした自分が恥ずかしくて、平子の想いが嬉しくて、羞恥と歓喜で胸の奥が燃え盛るように熱くなる。

「アタシたちもできうる限りのことを尽力します。不安は重々承知っスけど、諦めてほしくないんスよ。藍染サン曰く、崩玉は人の意思を反映するもの。だとしたら希望は捨てちゃいけない」

 浦原は夏樹と視線をもう一度合わせる。どうして、どうしてこうも自分の周りにいる人は優しいのだろうか。夏樹は応える方法が分からぬ戸惑いを隠せず、ただただ目尻に涙が溜まっていく。

「もう一度お聞きしますよ。生きるのを、諦めますか?」

 夏樹の双眸に溜まっていた涙が床を濡らす。感情ばかりが先走って、首を横に振りたくて仕方がないのに、それを阻むのは熱を孕んだ自身の核だった。ざわざわと、感情と一緒に崩玉もざわつくような感覚に下唇を噛む。

「…アナタの生を願う人の想いを無碍にしてはいけない。それだけはどうか、忘れないで。平子サンは、この先何が起きてもアナタのことを気にかけ続けますよ」

 夏樹は泣きながら、はい、と答えるのでいっぱいだった。周りの気持ちへ応えることのできない不甲斐なさが辛さを助長する。
 勢いよく鼻をすすると涙を袖で拭った。夜一がやれやれと小さく安堵の息を吐く。

「いい返事です」

 浦原はへらりと笑ったあと、お茶にしましょうと言った。

「喜助もまあ口下手な方での…お主には死んで欲しくないと思うてる。お主が生きる事を諦めてしもうたら何もできぬ。崩玉を御せぬ事への不甲斐なさも人一倍責任を感じてるんじゃよ」
「夜一サーンあんまり色々と適当な事言わないでくれます?」
「お主が崩玉を御せればいいだけの話じゃろ!」
「その…私、弱くてごめんなさい…沢山の人が私のことを考えてくれてるのに」
「何度迷っても構わん。それは弱さではあるが罪ではない。ただ、全てを放棄してしまっては可能性を絶やしてしまうからの」

 夏樹は顔を上げると浦原が部屋を出て行こうとするのを止めた。

「…現状で崩玉に対して打てる手を教えてもらえますか」
「それは、まだ諦めないと捉えても?」
「そこまで強くは…言えません。でも…考えることは、やめちゃいけないと思って」
「わかりました。ただお疲れのようですし休憩してから、お話しまショ」

 すこーし前を向いてくれただけ上出来ですかね、と浦原は緩く笑う。

「あ、今晩も平子サンうちに来るっスよ。資料は持ち出し厳禁なんでうちで勉強されてるんス」

 夏樹は目を少し見開くと躊躇いながらも口を開いた。平子が来ると言われて衝撃のような何かが走る。気がつけば口を開いていた。

「待っていても、いいですか」
「もちろん」

 浦原は柔らかく笑う。折角だから晩ご飯もご一緒にどうぞ、と付け加える。
 何度も折れて、何度でも立ち上がる力がある。浦原は、そのことに気付いていない夏樹が生を諦めない為には彼が必要なのだと悟っていた。
 浦原にとっても夏樹はただの人間ではない。大切な部下が繋いだ尊い命だ。

―ボクだって、彼女の死に責任を感じていない訳ではないんスよ。でも、そんな感情での施しを相模サンは受け入れちゃくれない。負い目を感じてしまう。だからこそ彼女自身と向き合える平子サンが必要なんです、彼女を死なせないためには