8

 あの日から4日が過ぎたが、それ以来平子には会っていない。なんとなく汐里の店にも行きづらく、偶然スーパーの帰りに会うようなこともなかった。
 今考えると、平子と出くわすことが多かったのは平子が自分にタイミングを合わせていたからのように思えた。
 平子に会って父のことを尋ねたかったが、同時に今になって事件と向き合う恐怖もあった。どこかホッとしていた、彼と会えないということに。

―でも、やっぱり…話が聞きたい。聞かなくちゃいけない気がする

 時折見せる平子の探るような視線は気のせいでなかったのかもしれない。全てを見透かすようなその瞳が、少しばかり苦手だった。

―きっと、平子くんは何か知ってる

 平子と過ごした月日は確かに楽しかった。けれど、夏樹の記憶に残るのはいつもの飄々とした態度ではなく、数度だけ見た寂しそうに懐かしむ笑顔だった。
 祖母が母の話をする時の表情と、どこか似ていた。大切な人を悼む表情がだとしたら、それは彼の隣にいた誰かなのだろうか。気になることは、たくさんあった。

「汐里〜平子くんの連絡先知ってる?」
「え、うん知ってるけど?」
「ちょっと用があるんだけど教えてくれない?」

 突然の申し出に困惑した表情で汐里はケータイを取り出した。夏樹はいつもと同じ口調で、いつもと変わらぬ笑顔で。
 嘘をつくのも随分と手慣れてしまっていた。誰にも心配させまいと、誰にも本心を見抜かれまいと、あの日から勝手に身に着いた生きる術は今日も何事もなく発揮される。

「いいけど、何があったの?」
「借りてたCD、返しそびれちゃってさ」

 汐里は何か思うところがあるのか一瞬考える素振りを見せるが、素直に番号を伝えた。
 屋上へ続く階段の踊り場まで来る。ここなら人も滅多に来ないだろう。

―もし、平子くんが事件と繋がっている可能性があるなら…汐里には、何も言わないほうがいい

 恐る恐る通話のボタンを押せは、無機質な機械音が何度か繰り返された後、聞きなれた声が聞こえてくる。

「もしもしィ、もっと早よに連絡来ると思っとったけど」
「……平子くん、」
「…なんのゴヨーですかァって、ひとつしかないわなぁ」

 電話越しにでも分かる酷く冷めた声色に、夏樹はケータイを強く握りしめた。声が震えそうになるのをぐっと堪えて口を開く。

「会って、話がしたい」
「…今日の夕方5時、空座第3公園で待っとる」

 それだけ言うと、平子は返事も聞かずに通話を切ってしまった。
 夏樹は緊張と不安を息と一緒に吐き出す。この選択が正しいのか間違いなのか。誰にも答えの分からない問いかけが己の中で無為に繰り返されていた。

 冬至を過ぎたばかりとは言え、この時期の夕暮れは早い。5時を過ぎればもう日はほとんど沈んでいて、金星が夜を告げていた。
 肌身離さず持ち続けた母の形見。思えば初対面の時にも、この髪飾りについて触れられた気がする。

「これが、関係してるのかな…」

 夏樹にとっては大切な唯一遺された母の形見。夏樹自身、この石に関して知っていることは少なく、遺言に従いただ常に身につけているだけと言った方が正しい。いつか必ず必要になる時が来るから、と。
 生前、祖母に母が預けたものだと言っていた。

―平子くんはきっと、何か知っている…

 ブランコを1人漕ぐ音と風吹く音が虚しく響いた。日が沈み切ってしまえば、温かかった昼の名残もすっかり身を潜めている。
 もう一度平子に会ったとして、自分は問いだす勇気が持てるだろうか。

「………知って、どうするの」

 何かを知ったとして、自分は何ができるのだろう。何がしたいのだろう。
 何をしたとしても、両親にまた会えるという訳でもないのに。
 そう思うのと同時に、真実を知りたいという願いが胸を締め付けた。人間の好奇心というのは、理不尽で身勝手だ。7年間、知りたかった真実が知れるのであれば、何にだって縋りたかった。
 ふと人の気配がして顔をそちらに向けると、ハンチング帽を深く被った平子が立っていた。片手には何故か日本刀を携えている。

「久しぶりやな、相模チャン」

 いつもと変わらぬ口調で、口元だけがニィッと笑っているのが見える。どう返事をしてよいものか分からず、思わず身構えた。

「久しぶり、かな?」
「ちょっと話しようや」

 声が震えない様に必死に平静を装う。有無を言わせない圧を感じ、夏樹は静かに頷いた。
 手元に握られた凶器に夏樹は恐怖を覚える。これは脅しではないのか、と。

「それ、どこで手に入れてん」

 それ、というのは間違いなく母の形見のことだ。夏樹は平子の問いにどう答えてよいのかと、すぐに返事をできないでいた。

「教えてくれへん?」
「どうして?」
「…何でもええやろ」

 威圧的な声に思わず手を握りしめた。平子は何も答えない。
 冷たい風の音が耳をつんざくように吹き抜けていく。

「……………」

 もしかしたら、彼は事件の犯人と、原因と繋がっている可能性があるのかもしれない。そう思うと恐怖が身を竦ませた。聞きたいことも言いたいことも山の様にあったはずなのに、口が震えて上手く動かない。

「オレにとってめちゃくちゃ大事なモンやねん、その石」
「…7年前の事件、お母さんの形見も…何か、知ってるの」

 違うと思いたかった。どうか、彼が事件とは無関係であるように、と。
 立ち込める不穏な空気に耐え切れず、夏樹は切羽詰まった声を上げる。

「平子くんは…!何を知ってるって言うの!答えて!」
「…その形見な、オレが嫁さんにあげたもんやからなァ」
「っ、ふざけないで…!」

 平子の気の抜けた声に血が頭に登っていく。的外れな答えにやるせなさと怒りが湧き上がった。
 思わず手を強く握りしめれば、平子は肩の力を抜いて口を開いた。

「…7年前、ご両親が強盗に刺殺された事件やろ」
「…………」
「犯人の放火により家が全焼、運良く救助された相模チャンだけが生き残った。その後、鳴木市に住む母方の祖母に引き取られて現在に至る」
「……調べたんだね」
「知ったんはついこの前やけどな」

―知らなかった…?お父さんの名前を聞いてから、調べたってこと?

 元から知っているのではと疑っていただけに、予想外の答えに夏樹は逡巡する。
 余裕綽綽な表情をして、どこか取り繕うような平子に違和感を感じた。まるで焦っているかのような。そうして、ずっと思っていたことがポロリと口から零れた。

「平子くんも、誰かを亡くしたの…?」

 平子は僅かに眉を上げたがそれ以上の変化はなかった。が、ピシリと場の空気が確かに凍った。
 
「なんでそないなるねん」

 口調とは裏腹に底冷えするような低音に、夏樹は思わず強張った自分の腕を握りしめた。平子から怒気の籠った視線に貫かれ、あまりの居心地の悪さに半歩後ろに下がった。

「…なぁこの強盗に襲われたん言うんは、ホンマか?」
「何を、言ってるの…?」
「この事件の記録、すべて相模チャンの証言を元にできとんねん。母親の遺体には深い刺し傷の他に不可解に抉られた傷もあったそうや。まるで人間じゃないものに襲われたような…」

 平子の瞳には何も感情が映らない、口元は笑っているものの酷く冷え切っていた。恐怖だけがその場を支配していく。

「そう…例えば、『仮面を被った化け物』とかなァ?」

 どこからか突然、白い仮面を出した。月明かりに照らされた白さが不自然に際立つ。見たこともないそれは、酷く禍々しく、目を開けたくないほどの白さが異質さを放っていた。
 夏樹の背筋に悪寒が走り、脳裏に写ったのは明確な死だった。

「何、それ…」
「知らんのかいな」

 平子は落胆したようにため息をつく。そのしぐさは見たことがあるはずなのに、仮面を持つ平子が全くの別の何かに見え、恐怖に膝の力が抜けそうになる。

「それ、ヤダ…」
「?」
「しまって、お願い」

 嫌だ嫌だと怯えるように首を横に振った。

「相模チャ…」
「来ないで!!!」

 平子は少し驚いたあと、夏樹の願いも無視して歩み寄った。ザリザリと砂を踏む音が妙に耳について、余計に恐怖心を煽った。

「コレ、知っとるんとちゃうんのん」
「嫌!!!!」

 強い拒絶反応を示し、夏樹はへなへなと座りこんだ。目に溜まっていた涙がボロボロと零れ落ち、身体は恐怖で小刻みに震えていた。

「お願い、それ、それ…」
「知っとるんやな」
「わか、な…い、やだ、知らない…!知りたくない!!!」
「何を知っとるんや…!」 

 夏樹は自分の身を守るように腕を胸の前で交差させ、強く身体を抱きしめる。一歩、一歩と詰め寄る平子が夏樹の肩に触れようとした瞬間、ふわりと風が吹いた。

「やりすぎっスよ、平子サン」
「喜助ェ…!」
「少し落ち着いて」

 浦原はスッと夏樹の顔に手を当てる。何が起きたのか理解しようとしたが、夏樹の意識は意思に逆らうように微睡みに落ちた。
 身体がぐらりと倒れた瞬間、浦原は夏樹の身体を抱きとめた。

「女の子泣かすなんて平子サンらしくないスねぇ」

 焦りすぎですよ、と視線が優しく平子を咎めた。

「……すまん」
「それは彼女に言ってあげてくださいな。さて、ウチに行きましょうか」

 風がもう一度吹いた後、その場に居たのは舞い上がった砂埃だけだった。


 = = = = =


「終わりました?」
「ばあちゃんの方は多少霊感ありそうやったけどしれてるわ」

 平子は浦原に乱雑に記憶置換を投げると、どかりと畳の上に胡座をかいた。平子が戻って来るタイミングが見えていたかのような間で、テッサイがお茶を置いた。平子は軽く礼を言うと、ズズと音を立てて緑茶を飲む。

「で、どうや」
「ちょっと時間がかかりそうっスけど…まぁ朝までには終わるでしょう」

 ちらりと夏樹の方に目をやると、顔やら腕やらに謎のコード類が取り付けられ、その周りには仰々しい機械が所狭しと並べられていた。

「…意図的に霊圧が封印状態にあるのは間違いありません」
「そうか」

 浦原はいつもよりもゆっくりとした口調で、言葉を慎重に選んでいるようだった。

「特に妙なのはこの蓄霊石、霊力が蓄積されれば中が花開いた今の状態になるようボクが作りました」

 浦原はちゃぶ台の上に夏樹の母の形見を置く。平子はそれを受け取ると、手のひらでころりと転がし目を細める。
 石の中央で柔らかく黄色い花が咲いている。

「この状態で何も感じないと言うことは、おそらく中の霊力が感知されないように遮断されている。相模夏樹サンの霊力も同じように『封印』が施されています」
「こいつ、何モンやねん…”どっち”なんや」
「…どうでしょうねぇ」
「可能性、あると思うか?」

 浦原は手を止めると振り返り、平子と目線を交わす。いつになく平子の揺らいだ瞳に浦原は小さくため息を吐いた。

「何が、”どっち”なんスか?」
「…せやな。聞かんかったことにしてくれ」

 らしくない、と平子は身体を大きく反らした。そのまま畳に頭をつけてごろりと寝そべる。

「ここまで来るとあいつらに話さん訳にもいかんな…」
「まだ話してなかったんスか…」

 浦原はやや呆れながらも、顔は忙しくなく表示される機械の数値に移っていた。

「あいつは、死んだんや」

 ぽつりと呟けば、浦原の肩がぴくりと動く。
 涙の跡が残る穏やかな表情で眠っている彼女に罪悪感を抱きながら、平子は後のことを浦原に任せ帰路についた。