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 夏が来る。死神の力が目覚めてから、もう1年が過ぎていた。修行に明け暮れた日々が嘘だったかのように、極々普通の高校生活を送っていた。
 あの世とこの世を行き来することも日常に組み込まれてしまったが、それもあんな凄惨な戦いのことを思えばただの日常の一部に過ぎなかった。

「今週末だっけ?尸魂界に行くの」
「うん、そうだよ」
「ふーん。これ、真子に渡しといてくんない?うちのチラシ。お父さんがアイツはいいカモだから絶対買うだろって」

 放課後の教室に汐里は顔を出して夏樹にチラシを手渡した。
 ジャズフェアの広告。確かに彼の好きそうな曲がラインナップされている。汐里の父親は抜け目がないらしい。

「渡しておくね」
「…ねえ、夏樹?」
「何?」
「ううん、なんでもない」

 汐里は一瞬視線を逸らした後笑みを見せた。汐里の何か言いたげな表情に、夏樹は焦りを奥底に隠す。親友の目は鋭い。いつも通りに過ごしているのに、自身の僅かな機微を悟られたかもしれない。

―お願い、何も…何も聞かないで

 夏樹は親友の目から逃れるように話題を逸らす。もう夏休みも目前で、汐里は大学受験に向けて本格的に対策が始まろうとしていた。

「じゃ、塾行ってくるわ。あとこれ、真子と行けば?私、集中講義で行けないんだよね。ほんとは!アンタと行きたかったんだけど!仕方ないから真子に譲ってあげる。仕方なしだからね!?」
「分かった分かった、よく分かんないけど。埋め合わせに塾ない日にケーキ食べに行こ?」
「行く!じゃあまた明日ね!」

 部活の引き継ぎは同じクラスの後輩が務めることになった。夏樹は以前と変わらずのんびりと部活に参加している。
 押し付けられた紙切れを見てみると8月頭の鳴木市の夏祭りのチラシだった。日付は2週間後。

―もうそんな時期かぁ…

 去年は霊力が暴走しかけて大変だったことを思い出す。あの頃は霊圧も随分と不安定で、千代の記憶が濁流のように押し寄せて意識が混濁していた。

―あれ、お姉ちゃんのいつかの記憶だよねえ。いくつか見たお姉ちゃんの記憶、正直断片的すぎて殆ど覚えてないけど…

 今も記憶が曖昧なことに夏樹は安堵していた。ハッキリ覚えていたらそれこそ平子と顔すら合わせられなかったかもしれない。

「あ、夏樹ちゃん!あのね、みんなで夏祭りに行こうって話をしてたんだけど、どうかな?」

 荷物をまとめていると織姫がぱたぱたと駆けてくる。数ヶ月経って、クラスメートなのだからと敬語を外してもらい、名前で呼ばれるのも気軽に話すのも随分と馴染んでいた。

「ん、いいね。私も行っていいの?」
「もちろん!」
「じゃ、混ぜてもらおうかな。誰が来るの?」
「えっと、たつきちゃんでしょー、千鶴ちゃんでしょ、みちるちゃんと鈴ちゃん!あと、茶渡くんと石田くんと浅野くんに水色くん。それから、黒崎くん…!」

 指折りながら最後に頬を少し赤らめながら一護の名前を呼びあげた。そんな可愛らしい乙女らしさを見せられて、夏樹は口元が緩まる。いつもクラスでよく話すメンバーだった。

「大人数だねえ」
「うん!楽しみなんだー!」

 夏樹はこれで誘う名目が消えたと気が楽になる。平子を夏祭りに誘おうとは考えていなかった。

―行けたら…うん、行きたいなぁ。行けたらいいのに

 行きたいと思うものの、その一歩を踏み出す勇気が出ない。断られた時のことを考えて臆病になっているだけではなかった。

―あ、また

 胃のあたりがぱきりと静かに亀裂の入るような感覚に口を結ぶ。時折軋む自分の身体に言いようのない恐怖が差し迫る。終わりが近づいてきているのだと無言でのし掛かる圧力を夏樹は振り切れそうになかった。


 = = = = =


 どうしてこうなったのか、原因は思い出せない。と言うよりも無い、と言った方が正しかった。ただ目の前にある体温は本物で、心臓が張り裂けそうなくらい痛むのも忙しないのも、本当だった。

「ひ、らこく…あのっ、」
「ええから」

 いつもより数トーン低い声で有無を言わせぬ圧を放ちながら、平子は夏樹を抱きしめていた。普段の平子らしい余裕もなく冗談を言える雰囲気ではなかった。
 昼寝の途中で目が覚めて、手洗いに行っただけなのに。戻ってきた時、平子は酷く切羽詰まった表情をしていた。動じて揺らめく瞳で夏樹を見つめたまま肩を強く掴んだ。
 良かった、と掠れるような声が聞こえたと思った拍子に気が付けば平子の腕の中にいた。夏樹は呆然としながら、どこか縋るような必死さの混じる声色が囁くように届くのを聞いていた。

「もうちょい、このまま」

 今日は確かにいつも通りの筈だった。いつものように十二番隊から浮竹の別邸へと移動して。そのまま昼寝しているだけだったのだ。
 部屋に着けば布団が用意されているし、平子がよく読む本も置きっぱなしになっている。そんないつも通りの中で、いつも通りでないのは平子の様子だけだ。
 いつもより少しだけ口数が少なくて、けれど冗談だって喋るほどに普段通りだった。

「…夏樹」

 名前を呼ばれただけなのに、身体が奥が熱くなる。焦がれるような声色は自分を求められているような錯覚に陥ってしまう。
 苦しいくらいの力加減で、立ち続ける体力もない夏樹は体重を平子に預けざるを得ない。
 好きな人に突然抱きしめられて正常でいれる人間なんているんだろうか。抱きしめ返すこともできず、遠慮気味に掴んだのは平子の隊長羽織だった。
 何かあったのか、と聞くことすら憚られる空気の中平子の心臓が動く音を聞いていた。ほんの少し早く打つそれが、生きている血潮を感じさせて体が熱い。

「………死なんとって」

 ぽつりと呟くように溢れた声に夏樹は一気に頭が覚醒する。まさか、何か気付かれたのだろうかと、指先が震えるのを誤魔化すように力強く握り拳を作る。

「…死なないよ」

 何が平子をそう駆らせたのか、夏樹は何も悟らせまいといつもの声色を出す。顔を肩口に埋めたまま、きつく目を瞑った。

「大丈夫、私元気だもん」

 自分に言い聞かせるようでもあった。ちゃんと生きるから、と。
 平子は何も答えず、抱きしめる力を強めた。努めて平常心を保とうとしても、身体は熱いのに頭は冷えていくあべこべな感覚に目眩を隠せなかった。

「お姉ちゃん以外の人に、こんなことしちゃダメだよ」

 小さな苦笑いをこぼしながら平子の背をぽんぽんと叩いた。けれど平子は動く様子がない。何かがおかしいと、夏樹は妙に平子が熱いことに気付く。この熱さは異常だ。

「平子くん…?ちょっとごめんね」

 腕を無理やり上げると平子の首筋に手を当てる。

「あっつ!」

 汗ばむ首筋に触れた瞬間、平子の体がぴくりと動いた。

「何これすごい熱っ…!」

 強く平子の胸を押すと目の焦点がいまいち定まっていないのが見えた。平子の腕をぐいぐい引いて布団へと導く。

「風邪引いてたの…!?酷い熱じゃんか、なんで…!」
「…別に大したことあれへんやろ」
「大したことあるでしょ、バカ言わないで!!」

 平子の声はどこか虚で声も勢いがない。どう見ても本調子ではなかった。大きな声を出して夏樹の体がぐらりと傾いた。ふらつく頭を片手で支えるも、片足の力がかくりと抜けた。

―あ、やば…

 大量の霊力を受け取った後はいつもこうだ。身体が怠くて意識を保つのも難しくて動けなくなる。
 平子の腕が伸びて、抱き留められたのと同時に2人して布団の上に崩れ落ちた。

「ひ、らこく…重いっ!」
「ん…」
「ちょっ、寝ないで!起きて!」

 倒れた込んだせいか平子は眉間に皺を寄せながら夏樹を抱きしめる力を強めた。変な体勢で抱きこまれて痛みに夏樹は顔を顰めた。

「もう、嫌やねん…夏樹が死ぬん、見たないんや」
「何言って…」
「死なんとって」

 夏樹は言葉を失う。死なないよ、とさっきと同じようには言えなかった。目頭が熱くなって悔しさに下唇を強く噛んだ。
 平子が小さな声であの人の名前を呟いたのが耳に届く。その瞬間、心臓がぎゅうと絞られるような痛みが襲った。
 懐から無理矢理伝令神機を取り出すと虎徹三席の番号を探す。なかなか電話が繋がらないが、きっと何かあったのだろうと来てくれることを信じることにした。

―馬鹿だ。私、馬鹿だ…私を見てほしいだなんて、

 苦しそうな平子の息遣いを聞きながら、背中に回した手は羽織を掴む。そばに居るだけでいいなんて大嘘で、自分が強欲であることを突きつけられた。

「わたし、お姉ちゃんじゃないよ」

 漏れてしまった言葉にハッとする。荒いが規則的に聞こえてくる呼吸に、平子はきっと眠ってしまって聞いていないだろうと安堵した。
 随分と欲張りになってしまった。触れる鍛えられた身体。香水の奥に微かに残る煙草の匂い。背に回された腕が動くことを阻んで、夏樹は選択肢が残されていないことに感謝した。この人の体温を拒まなくていいのが嬉しくて堪らない。

―好き、好きなの。お姉ちゃんとか、死んじゃうとか、そんなのもうやだ

 あの人の代わりになんてなれなくて。それでも好きな気持ちが止まらなくて。身体がぐらぐらと揺れる気持ち悪さに目を閉じれば、意識はゆっくりと遠のいていった。