逃げない方が良い



 デパートの騒動からひと月ほど、特にこれといった問題はなく過ごした。唯一あるとすれば、上司から意味ありげな笑みでおめでとうと声をかけられたくらいか。一体何のことだと返しても、そうかそうかと嬉しそうにするだけで会話にならなかった。他の誰に聞いても何か知っている風もないので、真実は謎のままだ。
 家まで送ってくれた安室さんからの接触もない。きっと冗談のつもりであんな事を言ったのだろう。少しくらい笑えばよかったかな、あるいは気の利いた返答でも出来る余裕があったなら。そう思い始めていた土曜日の午後、いつものように自宅で寛いでいたらインターホンが鳴った。備え付けの液晶画面を見れば、明るい髪色に褐色の肌の美青年。できれば会いたくないので居留守を決め込んだ。間隔をあけてもう一度インターホンが鳴ったが、それも無視をした。

 数分後、再び部屋に音が響いた。今度はマンションのエントランスではなく、このすぐドアの向こうだ。一体どうしてと冷や汗が背中を伝う。もう一度呼び鈴。私に危害を加えたいのならこの間の車の中で済ませているはずなので、その心配はないと思いたい。とりあえず今度はドアをこじ開けられたりしてはたまらない。今開けますとインターホン越しに返事をして玄関へ向かった。
「迎えに来ましたよ、xxx」
 ガチャリとドアを開ければ彼は開口一番そう言った。確かに、準備が出来次第迎えに来るだとか何だか言っていた気はする。冗談じゃなかったのか。いや、こっちにしてみたら冗談じゃない。軽くパニックになりかけて呆然としていると、いつの間にか安室さんにリードされいつかの高級車の前まで来ていた。まって家の鍵もかけてないのに。これ以上ないくらい丁寧なエスコートで車に乗せられかけた時、ようやく抵抗すべきことに気付いた。ここから先は立派な誘拐だと思いますよ、安室さん。
「これ以上はだめです。車には乗れません」
 安室さんをまっすぐ見つめて出来るだけ強い口調で言った。彼に明確な動揺が見て取れたので、この隙にと腕から抜け出そうとする。まあ、運動不足の私ではかなうはずもなかったが。
「あなたの事ですから、きっとそう言うとは思っていました。しかし、実際に拒まれると想像した以上に辛い」
 端正な顔を切なそうに歪めて安室さんは言った。ドラマの中で、俳優が恋人に振られたときみたいだ。そんな馬鹿なことを考えて抵抗するのを一瞬忘れてしまった。途端に腕を強く引かれ視界は安室さんのシャツに占拠された。詰まるところ抱きしめられる形となったわけだが、安室さんが小さくすみませんと囁いたのを最後に私の意識は途絶えた。


 目を覚ますと、知らない天井だった。いつもより高い位置にあるし、照明は埋め込み式ダウンライトだ。上体を起こす。寝ていたベッドはシングルより広く、心地も良い。見たところ寝室だろう。カーテンは閉められていて外の様子はまだ分からない。
 たいして働かない頭で、どうしてここにいるのかを考えてみる。記憶が確かなら、安室さんに連れてこられたらしい。なぜ。頭を抱えていると部屋のドアが開いた。顔をあげると安室さんが水を持って立っている。
「そろそろ起きるのではないかと思いまして」
 どうぞ、と差し出された水を受け取る。寝起きで喉も乾いていたことだし、水やグラスから変な臭いもしない。まあいいかと飲み干した。安室さんがベッドサイドに座る。彼の体重分だけマットレスが沈んだ。
「どうして、こんなことを」
 尋ねると安室さんは私の手を握って、すみませんともう一度謝った。

 曰く、どうやら私は安室さんの中では恋人という位置づけらしい。私を守るために、今日から此処で一緒に住むそうだ。私の家はすでに今月末解約の予定で、仕事もやめることになっているらしい。安室さんの話には訂正すべき箇所が多すぎて適当に相槌を打っていたが、情報をかみ砕くのに精一杯だったというのが実のところだ。
 そうこうしているうちに、安室さんの話は今後の生活のことに移っていた。
「出来るだけこの家で過ごして欲しいところですが、もちろん必要があれば外出してもかまいません。ただし出かけるときは僕に連絡してください。何か異常があった際もすぐに僕に伝えるように。僕も出来るだけここに帰ってくるようにしますが、仕事の都合上不可能な日もあります。その時は連絡しますからご心配なく」
 こんな調子でつらつら流れる安室さんの声を拾っているうちに、彼の症状に思い当たることがあった。相手を恋人だと思い込む、クランベリーみたいな名前のシンドローム。随分前にテレビで見た記憶がある。確か、妄想を否定されると感情的・暴力的になるのだったか。下手に拒絶すれば私の身も危ない。
 どうするのが正解なのだろう。
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