小さなレディ



 やってしまった。午前十時、いつもより少し遅い時間にやっと覚醒して出した一声がそれだった。妄想症の過ぎたイケメン同居人が、夢の中で結婚してくださいなんて言うものだから思わず喜んでと返してしまったのだ。夢現の状態では正常な判断など出来っこないし「高級ディナーに連れて行ってもらったので、プロポーズを一瞬身構えたせいでこんな夢まで」なんて考えてさえいた。夢ならば了承したって覚めてしまえば何も問題はない。そう、夢だと思っていた。にもかかわらず、左手の薬指にあるそれが現実だったことを主張している。
「やってしまった」
 もう一度そうため息をついて両手で額を覆う。私だってきちんと意識のある状態であれば、穏便に先延ばしを勧める予定だったのだ。「今は大変な時期だから全て終わってから」だとか「まだ覚悟が出来ていない」だとか。拒絶するのはあまりにもリスクが高すぎるので、せめてこれ以上関係が進まないようにと思っていたのに。
 安室さんの気配はもう家にない。仕事に出かけたのだろう。早朝の自分に恨み言を贈りながらベッドから這い出た。
 簡単な食事を作り、さして興味もないワイドショーを見ながらそれを口にした。安室さんの作るものには負けるが中々の味だ。小一時間ほど呆けて、このままではいけないと思い立つ。気分転換が必要だ。終わったことを悔いていても仕方ない。
 久しぶりにショッピングでもしようか、とお気に入りブランドのセールと新作情報を携帯でチェックする。まだ働いていた時の貯金がそれなりにあったはずで、xxxxx名義のカードも持っているので資金については遠慮も心配も必要ない。流石にブランド街へ1人で行くのは寂しいので、ダメ元で梓さんを誘えば丁度非番だったようで快諾してくれた。無論いつもの業務連絡も忘れない。


 目論見通り気分転換に成功した。梓さんと仲良く買い物を楽しみ、キャッキャウフフとお互いのセンスを褒めたり指摘したりしながら時間は過ぎていった。買ったのは小さなポーチとシンプルなヒールだ。財布や時計も新調したかったが、如何せん心底惚れるようなものは無かった。
「今日は楽しかった。付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ! じゃあ、またね」
 梓さんと別れ家へ向かう。気分も良いしケーキでも買って帰ろうかな。道の端に立ち止まって花壇のレンガに荷物を置き、評判のいいケーキ屋を検索した。カフェ併設でここから700メートルか、悪くない。道順を確認し、そんなに複雑ではなかったので携帯をしまい込む。
 まず、ショートケーキは買おう。プリンも美味しいらしいのでサイズ次第では買いだ。自分の分だけ買うのもどうかと思うので、安室さんの分も買う。どんなものが好きなのだろう。適当に何個か見繕って、残ったものは彼の職場に持って行ってもらおうかな。あれこれ考えながら歩き、信号に捕まったので立ち止まった。
「ねえ、これ貴女のでしょう? さっき置いていったわよ」
 スカートの裾をクイと引かれ、振り返るとウェーブのかかった色素の薄い髪を持つ女の子。私のスカートを引く反対の手には、先ほど買ったポーチの入っている紙袋が握られていた。慌てて自分の荷物を確認すると、案の定それがない。
「ありがとう。わざわざ追いかけてくれたの」
 凄く助かっちゃった、と女の子に目線を合わせて笑いかける。彼女は「べつに」と紙袋を私に差し出した。随分とクールな子だな。愛想は良くないが、こうして忘れ物を届けてくれているのだから悪い子ではないのだろう。
「たまたま同じような方向に用があっただけよ」
 そう言って彼女は通りの向かいにあるケーキ屋を見た。なんだ、目的地が一緒ではないか。せっかくだから一緒に行こうと誘えば、一瞬考える素振りを見せたものの了承してくれた。手を繋ぐのは拒否されてしまったが。道中で思い出したように自己紹介をし、他人行儀にxxさんだなんて呼ぶ哀ちゃんに一抹の寂しさを感じた。最近は友好的な人間に囲まれて、それが当たり前になってしまっているのかも知れない。
「せっかくだから、お礼もかねてお姉さんとお茶しない?」
「ありふれたナンパかしら」
「やだなぁ、違うよ。無理にとは言わないけれど、ぜひ忘れ物のお礼をさせて」
 お店併設のカフェが気になったので、哀ちゃんを誘う。少年探偵団ならば「わーい」とすぐさま元気な声が返ってくるのだがこの子は違うらしい。だめかな、と出来るだけ柔らかい笑顔で問いかければ、哀ちゃんは一瞬言葉に詰まった様子を見せた後小さく頷いた。
 空いている席に適当に座ると、ウエイターさんが水を置いてくれた。座って初めて、自分が思っていたよりも歩き疲れていることに気付く。好きなものを頼んでね、と哀ちゃんにメニューを渡して水を飲んだ。へえ、ミント水だ。上手に香りづけしたものだなと感心していると、哀ちゃんの注文が決まったようだ。これ、と示されたのはベーシックなアールグレイとショートケーキのセット。遠慮しないでちょっとお高めのものでも良いのよと勧めるが、わかってないわねと一蹴された。曰く、料理人の卵料理に当たるだとかなんとか。そういうものか、と私も自分の分を決めて注文をした。持ち帰りの分もオススメを聞きながら頼んでおく。

 ケーキと紅茶をお供に哀ちゃんといくらかお話しをしてみれば、驚くほどに趣味が合うことが分かった。好きなブランドや服の系統、小学生とは思えない嗜好に思わず「本当に小学生?」と聞いてしまったほどだ。当の本人はさあどうかしら、と涼しい顔で意地悪そうに笑っていた。
 気づけば空も暗くなっており、予想以上にお喋りを楽しんでしまったらしい。まるで同年代と話しているようだったが、見た目は小学生だ。大人として1人で帰らせるわけにはいかないので、送っていくよと声をかけた。哀ちゃんは別に良いのにと言いながらも素直に送らせてくれるようだった。この数時間で随分と仲良くなれたことに気を良くし、もう一度手を繋ごうと試みたが冷たく振りほどかれてしまった。ううん、残念。
 阿笠博士という人と2人暮らしらしい。彼の食生活についての愚痴などを聞きながら、哀ちゃんに先導してもらい彼女の家に向かった。
「だから今日は特別にケーキを買ってあげたのよ」
「じゃあ、阿笠さんもきっと大喜びだね」
 そうでしょうね、とクールに返答する彼女はどこか嬉しそうだった。関係は良好らしい。哀ちゃんは家族思いだね、と笑いかければ「そんなんじゃないわよ」と顔を真っ赤にして叫んでいた。案外響いた自分の声に驚いたらしく、きまり悪そうに彼女は咳払いをする。それが可愛らしくてつい口元が緩んでしまった。ふふ、と笑い声を抑えられなくなった私を見上げた哀ちゃんも、眉を寄せてはいるが口元は優しい弧を描いていた。

 それほど遠くない彼女の家にたどり着き、彼女を見送る。阿笠さんとも挨拶をし、いやいやどーもこちらこそ、なんて会話をしてからその場を後にした。通称は博士だそうだ。
 さて私も帰ろうといくらか歩いたところで、車のライトに照らされたかと思えば安室さんに呼び止められた。振り返るといつもの白くてカッコいい車に、予想通りの人物が乗っている。
「あれ、安室さん。今お帰りですか」
「ええ、そんなところです」
 乗ってください、と合図をする彼に従う。疲れていたので助かりましたと助手席に座ると、助かったのはこっちだと返される。何のことだ。首を傾げていれば、危ないからもうするんじゃないと注意をされた。夜道は危険だからあまり出歩くなということだろうか。小学生を1人で帰す方が危険だと思うが、反論は飲み込んでおく。以後気を付けますと上辺だけの返事をして、これ以上の追及がないようにケーキの好みを聞いた。
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