ほらまた莫迦なすれ違い



 最近、安室さんに怪我が多い。
 たとえば、夜寝る前に横で彼が読書をしているとき。「あっ」と声が聞こえそちらを向けば紙で切ったらしい傷。たとえば、彼が私の頬をするりと撫でるとき。ざらりとした違和感にその指先を見れば料理中にうっかりしていたという傷。たとえば、おかえりなさいと出迎えたとき。油断したと零しながら真っ赤に染まったワイシャツをたくし上げて見せた傷。一々挙げていればきりがない。
 その度に私は不慣れな手つきで手当てをしていたのだが、あまりに回数が多いので応急手当が上手になった気さえする。外での大きな傷はせめて簡単な処置をしてから帰ってきてほしい。放置して悪化でもしたらどうするつもりなのだろうか。流石に膿んだ傷口なんて診られやしないのだから本当に気を付けてほしい。もちろん怪我をしないことが一番なのだが。いくら精神疾患をお持ちの方とはいえ、それなり長く彼と一緒に暮らしているうちにいくらか情が移ったらしい。せめて身体だけは健康でいて欲しいので、手当の際に次はもっと気を付けてくださいねと念を押している。

 もう1つ気になることがある。こちらは朗報と言って良いのかもしれない。この間の柚によるひと悶着のため、安室さんから出来るだけ家に居ろと言われてしまったので週の半分以上は家にいる私だが、もちろん出かけることもある。その度に、安室さんを遠くから見かけるようになったのだ。とびきりの美女付きで。プラチナブロンドの艶やかな髪に色気のある表情を湛えた彼女は、どこかで見た事のある顔のような気がした。あれだけの美人であれば大女優やスーパーモデルですと言われても納得しかないので、きっとメディアで見たのだろう。そしてその美女と安室さんは仲睦まじい様子で人気のない場所へと入っていくのだ。そういえば最近乗った安室さんの車に、見知らぬアクセサリーが落ちていたので彼女の物かもしれない。
 普通の婚約者であれば怒るか悲しむかをした末に問い詰めるのだろうが、幸いと言って良いのか私は違う。何度か聞いてみようとは思ったのだが、藪蛇は嫌なので聞くタイミングをうかがっている。何にせよ、ようやくクレランボー症候群のターゲットが移った。見知らぬ美女さんありがとう。よくある恋愛小説や少女漫画での「あの人が他の女性といるとモヤモヤする……」なんてことはない。あっても良さそうなものだが残念だ。一抹の寂しさは感じるが感覚は親離れに近い。
 今も、少し遠くを安室さんと美女が通った。私は哀ちゃんと映画を見る約束をしているので、そこへ行く途中だ。名作古典文学のアレンジをしたというそこそこ話題の映画で、珍しく哀ちゃんから誘ってくれた。
 待ち合わせ場所に到着して、哀ちゃんを待っていると携帯が鳴った。安室さんからのメールだ。「今日は家に帰らないでくれ」と記された画面を見て驚く。何かあったのだろうか。いや、これからあるのか。あの美女さんと。だとしたら、私の存在は随分厄介なことだろう。このタイミングであの家から出ていくのも良いかもしれない。あの家にあるものはほとんど安室さんが買ってくれたものであるから、無いと困るといったものはない。貰った指輪は、今日のファッションには合わないからと家に置いてきているので安室さんが処分してくれるだろう。善は急げと「家を出るから心配しないで美女さんとお幸せにね、今までありがとう」という旨のメールを返した。ああそうだ、しばらく哀ちゃんの家に泊めてもらうことはできないだろうか。そんなことを考えていると、哀ちゃんがやってきた。
「早いわね」
「そうかな、ちょっとの差だよ」


 映画を見終わり、同じ建物内のカフェに入り感想戦をする。何なのよあの映画! とご立腹の哀ちゃんをまあまあと宥めながらコーヒーを啜る。ゾンビ要素が思ったより多くお気に召さなかったらしい。まあ、不朽の名作が感染するような映画は人を選ぶのかもしれない。私は楽しめたけれど。携帯を初期化し、ハンカチで包む。ねえ哀ちゃん、と少し声を潜めて呼びかけた。
「どうかした?」
 哀ちゃんも合わせて声のボリュームを下げてくれる。彼女は飲んでいた紅茶のカップを置いて、そのままテーブル越しに心なしか身を乗り出した。
「いきなりで申し訳ないんだけど、お願いがあって」
「聞いてからしか判断できないのだから、言ってみてちょうだい」
「今日から少しの間、哀ちゃんのところに泊めて欲しいの」
 哀ちゃんは少し考えた後、私はかまわないけど一応博士に聞いてみるわと言って電話をしてくれた。電話を切り、良いわよと短く返事をくれる。こんなにあっさりと泊めてくれるとは思わなかった。わあ、本当にありがとうと思わず哀ちゃんの手を握った。

 万が一、まだGPSが機能しているとしたら面倒なので携帯は電車の中に置いてきた。忘れ物として届けられてもよし、気づかれずに終点までいってもよし。バッグや服に覚えのない機械やシールが無いことを確認すれば完璧だ。あとは新たな犠牲者に祈りを捧げてアデュー。
 こうして少しの間、哀ちゃんの家に御厄介になることにした。
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