あなたといたい



 この家で再び過ごすことになっても、安室さんは私の姿が見えなくなると酷く取り乱すようになった。その度に「はいはい、此処にいますよ」と手のかかる彼をナニーよろしく抱きしめる。トリプルフェイスはどこに消えたのか、仕事はどうしたのだと気になって問うてみればぎゅっと眉間に皺を寄せ「俺に仕事へ出かけてほしいのか」と拗ねた。かつてのように身体を壊しそうなほど働かなくても良いが、ずっとこの調子なのも別の意味で不健康だ。まずは葉っぱをかけてみるか、と口を開く。
「……また零さんに、おかえりなさいって言いたいです」
 さも独り言のように、けれど彼にしっかりと聞こえる音量でそう囁くと安室さんはピクリと肩を揺らした。おずおず私と視線を合わせ、本当に? と震える声で確かめる。不安気な瞳が潤んだ中で揺れていた。
 思えば今まで、過保護な所に目を瞑れば“素敵な男性”を地で行く安室さんしか見てこなかった。まるで絵に描いたような人物だと思っていた。安室透という像を見ていたようなものなのだ。そのお陰でいくら甘い言葉を受けても彼に入れ込むことはなかったし、暴力を間近に見ても過剰に恐怖を覚えることもなかった。彼の関心が私個人に向いているという意識が薄かったから。だが、今はどうだろう。目の前にいる彼はきっと強くて大胆な安室透ではない。脆く繊細な降谷零だと、そろそろ受け入れないといけないのかもしれない。



「ああもう、何をしているんですか」
 お風呂から上がって水を飲もうとキッチンに入ると、仕事から帰ったらしい零さんがいた。手首についた真新しい切り傷を水道水にさらして。傷口を洗うにしても、そんなに流したら血が止まらないじゃないか。おかえりなさいと言うよりも先に、慌てて水を止め患部を圧迫する。
「ほら、もっと腕を上げてください」
「やっぱり来てくれた、xxx」
 なかなか止まらない血に少しハラハラするが、当の本人は気にした様子もなくされるがままだ。先日、おかえりと言わせてくれなんて嘯き、どうにか零さんを職場復帰させたのは良い。良いのだが、次は何と言葉を紡げば自傷行為をやめてくれるのだろうか。
 零さんは、彼の手首にガーゼを当てる私を嬉しそうに眺めていた。手当が終わればいつも満足そうにお礼を言うのだが、今日は少し違った。聞き覚えのある声で、聞き覚えの無い歌が近くから聞こえる。歌声は酷く歪で、零さんのものだと気付くのに数秒を要した。意外な欠点に思わず微笑む。
「素敵な歌声ですね」
 冗談めかしてそう言えば、零さんは大きく目を見開いた。どうやら自分が歌っていることに気付いていなかったらしい。勢いよく口を手で塞ぎ、恥かしそうに俯く。聞かなかったことにしてくれ、と小さな声がした。なんてかわいいひと。私が自衛で隔てた見えない壁は、どうやら崩れたらしかった。



 窓を開けたまま寝てしまったらしい。早朝の少し冷たい空気が身体に触れた気がして目を覚ました。まだ6時にもなっていない。窓を閉めたらもうひと眠りしよう。
 窓際から戻って再びベッドへ潜り込もうとしたところで、ふと零さんの寝顔が目に入った。そういえば、彼はいつも私より遅く寝て早く起きる。寝顔を見るのは初めてだった。起きているときよりもっとあどけない。零さんがいつも私にするように、そっと彼の頬を撫でつける。
 好きです、零さん。
 何の脈絡もなく思い浮かんだ台詞に驚いた。もしかしたら、声に出したかもしれない。誰も、私ですら聞いていないのだからどっちだって良いけれど。問題は私が彼にうっかり惚れてしまったらしい事だ。
 おいよせリスクが高すぎる、と冷静な自分が語り掛けてくる。そうは言っても仕方がないでしょう、と反論するのも私だ。危険なお仕事をする患い屋に惚れるなんて、正気じゃない。でも既に婚約だってしてしまったし。きっと悲しむことになるぞ。そうかもしれない。やめておきなさい。いいえ、理屈じゃないの。ああそうか、情とはそういうものだった。
 愛しい人の、その甘ったるい顔に微笑んだ。


本編はこれで終了
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