逃亡失敗



 安室さんに監視管理される生活に、もう我慢ならないと家を飛び出した。携帯電話はもちろん置いていく。財布と化粧品、少しの着替えだけが私の持ち物全てだ。束縛の強すぎる自称恋人には申し訳ないが、これ以上一緒に生活するのは私の精神衛生上よろしくない。ばいばい安室さん、と随分長居してしまったマンションを振り返って歌うように呟いた。
 私が逃げたと気付いた時の安室さんを思うと少しだけ心配だが、きっとすぐに別の対象を見つけて新しい恋人を作ってくれることだろう。容姿も収入も頭も良いのだから寄ってくる女性は掃いて捨てるほどいるだろうし、実際にポアロで熱い視線をたくさん貰っていた。大丈夫、大丈夫。私の足取りは軽かった。


 家がないので、しばらくはホテル暮らしだ。ついでに仕事もないので贅沢はできないが。幸い働いていた時の貯金が少しだけ残っている。3か月で尽きる金額だが、それまでに住み込みの仕事でも探せば良い。いっそ実家にでも帰ろうかとも思ったけれど、もう安室さんの息がかかっていることを思い出して却下した。
 杯戸町や米花町を拠点にするのは危険だ。とはいえ、あまり田舎に行っても仕事がない。結局都内の適当なホテルの一室を長期で借りることにした。


 求人情報誌を頼りに、のんびりと就職先を吟味すること一週間。自由を謳歌しながら桜田門あたりを散歩していると、ふいに腕を引かれた。え、と声をあげる暇もなく体が回れ右をして誰かの胸板にダイブする。勢いあまって鼻と口が潰れた。ぎゅうぎゅうと力いっぱい押さえつけられ、息が出来ない。そろそろ意識が遠のきそうだというところで私の背中に回っていた腕の力が弱まった。酸素を求めて胸いっぱいに息を吸い込めば、知っている匂いがした。
 恐る恐る見上げると、予想通りの顔だ。嗚咽を堪えるように口を閉ざし、潤んだ瞳が私を見下ろしている。皇居付近を散歩コースに選んだのは失敗だったな。よく考えれば警察庁の近くじゃないか。
 xxx、と形の良い唇が動いたが声は聞こえなかった。何と言って良いか分からないので、そのまま数秒見つめ合う。そろそろ言い訳でもするべきだろうか、と口を開こうとすると安室さんがそれを遮った。
「誰に脅されたんです?」
 震える声でそう問われるが、意味が分からない。どういった思考回路でその質問をするに至ったのかを考えていると、言い淀んでいるように見えたのか、安室さんが続けた。
「優しさはあなたの美点の1つですが、あなたを脅して僕たちの仲を裂くような輩を庇う必要はありません。それとも、他に言えない理由が?」
 探るような視線が突き刺さる。しかしその奥にあるのは、一週間前までと同じ暗く濁った甘い狂気だ。一瞬言葉に詰まるが、ここで流されてはまた束縛ライフだ。なんとか勇気を絞り出して声を出す。
「あの家を出たのは、自分の意思です。誰に言われたわけでもありません」
 安室さんが目を見開いて息を飲む。嘘だ、と私の肩を掴む指の力が強まった。それが怖くて、思わず目を逸らす。失礼だとは思いながらも、俯いたまま続ける。
「何も言わずに出て行ってしまい、とてもご迷惑をお掛けしました。すみません。ですが、もう私のことなど気にせず安室さんも新しい人を――」
「もういい」
 振動よりも吐息の方が多いような声が上から降ってきた。安室さんが私の手首を掴んで急に歩き出す。いつもより早い歩調に戸惑いつつも、転ばないようについていけば付いた先は良く知った建物だった。
 良く知った入口から、先導されるがまま入ったことのない部屋へ。安室さんが扉を閉めて鍵をかける音が、やけに大きく聞こえた。戸惑いを隠せないまま辺りを見回す。乱雑に置かれたファイルや栄養ドリンクの空き瓶が目立つ。私の写真がデスクに飾ってあるのを見つけて、零さんの部屋だろうかと考えた。
 部屋に気を取られていると、グイと備え付けのソファに座らされた。そのまま零さんが覆いかぶさるように近づく。片膝をソファに乗せ、両手で背もたれを掴まれれば逃げ場はない。
「もう1度だけ訊く。誰に脅されて、俺から離れた?」
 怖くて顔をあげることは出来ないが、声色から怒りを感じる。下手なことは言えない。どう乗り切ろうかと思考を巡らせるが何も思いつかなかった。嘘をつくわけにもいかず「誰にも」と辛うじて紡げば強い力で顎を持ち上げられた。否が応でも視線が合ってしまう。外で言ったことと同じ内容を続けようとすれば、それを察したのか顎にあった手が下へ降りていく。軽く首を絞められ、息は辛うじて出来るが恐怖で声が出ない。
「それ以上俺との関係を否定するなら、そんな声いらない。あなたの綺麗な声が聞けなくなるのは残念だが、他の誰かに教えられた言葉しか喋らないんじゃ意味がない」
 生理的な涙で視界が歪み始めた。零さんの表情が不鮮明になる。
「xxx、あなたは俺の最愛の人だ。あなたにとっての俺も同じ。そうだろう? 大丈夫、もう強引に訊いたりしない。あなたがどうしても言いたくないなら、それでいい」
 泣かせた罪悪感からか、急に声が優しくなった。喉元の手が今度は頬と頭を撫でる。
「戻ってきてくれるね?」
 痺れるくらいに甘く低い囁きに、頷くしかなかった。
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