悪魔的よあけ

 本当にxxが液晶を越えてこっちに来てくれた。最初はそれが信じられず、寝ている彼女に気付かれないよう何度もその心音の確認さえした。規則正しく聞こえる収縮と拡張の音や、触れた柔らかさに安堵する。ヘッドセットをせずとも見える姿やイヤホンを付けずとも聞こえる声、あらかじめ用意されたものでない台詞に、触れれば感じられる体温。全部俺のためのものだ。数多いる彼女の熱心な担当医ですら、俺以外の誰1人として知らない。そのことに並々ならぬ優越感を覚えてうっとりと微笑んだ。


「あの、お願いがあるんですけど」
 朝食を終えて、今日は遅めの出勤だからとリビングで寛いでいれば、隣に座ったxxが遠慮がちに声をかけてきた。どうした、と呼んでいた本からxxへと視線を移す。欲しいものでもあるのだろうか。それとも行きたい場所が? 何不自由なく生活させてやりたいし、そうするだけの資本もあるのでどんなお願いがきてもある程度は希望に添えると思うのだが。
 外で働いてみたいので、自分でも働けるような場所をどこか紹介して欲しい。xxのお願いは俺の予想と随分違うものだった。確かに労働は国民の義務ではあるが、事実上扶養家族のようなものであるから必要無い。そもそもxxが国民かどうかもグレーだ。一体どうしてと疑問をぶつけると、xxはぎゅっと小さな手で握りこぶしを作る。
「今の私には“統合失調症”という枷もありませんし、せっかく零さんと同じ日本に居るんですから家にばかり籠っているのは勿体ない気がするんです。私は文字通り“箱入り”の娘でしたから、至らない点も多いですし、出来ることなら零さんにこれ以上迷惑かけないようにそういうのも学んでいきたいな、って」
 ここまで言われてノーと答えられる担当医がどこにいるだろうか。いや、もう担当医ではないのだが。わかった、と頷けばxxは顔を明るくさせる。それが可愛くて、気が付けばポアロに連絡を入れていた。思えば、それが間違いだったのかもしれない。


「ね、お願いがあって」
 仕事を終えて家に帰り、xxが用意してくれた夕食をとっている最中、目の前に座っていたxxが箸を休めて言った。口調も敬語から親しげなものに変わって、もう夫婦と言っても差し支えないのではと余計なことを考える。働きたいという最初のお願いこそ予想外だったが、この間のお願いは“一緒に温泉に行きたい”だった。今度も旅行だろうかと、軽い気持ちで「言ってごらん」と促す。
「ひとり暮らしというものを、してみたくって」
「……は? なぜ」
 思ったより冷たい声が出た。xxには柔らかい声色をと意識していたのに、参ったな。それでも不意に頭をよぎった嫌な予感は俺の表情と声を硬くさせていく。持っていた茶碗を置いて真っすぐにxxを見つめる。拙いことを言っただろうか、とxxの顔にはそう書いてあった。
「俺と暮らすのが嫌になったのか? 何か不満があるなら教えてくれと常々言っているだろう。それとも別に男でも出来たか? 夫婦のようだと思っていたのは俺だけだったみたいだな」
「えっ夫婦……あ、いや、そうじゃなくて」
 xxが慌てて立ち上がった。その拍子に彼女の手が傍にあった椀に当たり、味噌汁がこぼれる。すぐさまキッチンから拭きものを持ってきて、xxの腕や腹を布で撫でた。火傷をしていないかと確認すれば、大丈夫だったようで安堵する。
 片付けを終えて、改めて向き合い話し合う。俺が何か言う前に、xxが口を開いた。
「何も不満はなくって、ただ本当に“ひとり暮らし”を体験してみたかっただけなの。アルバイトを始めて、お金もある程度貯まったから」
 xxは、ちらりと俺の表情を伺った。とりあえず怒ってはいないと判断したのか、続けて言葉が紡がれる。
「その、零さんが夫婦みたいだって言ってくれて嬉しかったけれど……恋人みたいに待ち合わせデートとか、会えない日に電話をするとか、そういうこともしたい、な」
 xxは、そう言えば俺が強く出られないことを知っているのだ。俺がxxに甘えられれば弱いことをよく理解している。世間に公開されている設定と違って、計算高い女だ。天使かと思えば小悪魔じゃないか、と称賛を込めて彼女へ笑いかけた。
「期限付きなら許そう」
 そう言えば、彼女は嬉しそうに頬を緩めてどこからともなく賃貸情報誌を机に並べだした。どこにしようかな、とわくわくした表情のxxを眺めながら俺も候補を絞った。

 1度ここから出せば、俺のもとに戻って来なくなるのではという懸念が無いとは言えない。心配であれば許可などしなければ良い。それは分かっているのだが、このまま俺がxxを縛り付けて嫌われてしまったらと考えると、どうしても拒否できなかった。
 要は、最終的に俺がいなければだめだと気付かせればいいのだ。一旦俺から離れるのも、xxには俺が必要なのだと分からせるのにはいい方法かもしれない。俺さえいれば幸せなのだと教えてあげなければ。
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