最果ての体温

 家族でアイルランド旅行の最中、大規模事故に巻き込まれ天涯孤独に。そのショックで統合失調症が発症し、叔母夫婦の勧めでこの療養施設へ。それが私、xxxxの設定だ。
「どうしてみんな私をおいていくの? ずっと一緒って言ったじゃない……やだあ、目を開けてよ。はやく。……あ、あ、やめて! 違うの、私のせいで、でも、私がいたから、それで、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、そう、私のせいなの……だから、もうやめて」
 傍にあった枕がまるで最愛の人であるかのように「死なないで」と叫び、はっとしたように両手で耳を塞ぐ。事故で亡くなった人間が「お前のせいだ」と私に語り掛けてくるのを必死に振り払った。思ってもいない言葉を吐き、体が勝手にそう動く。この場面ではそうプログラミングされているからだ。だから私は幻覚を見て幻聴が聞こえるように振舞う。
 レイ先生が認識している今の私には陽性症状が出ていて、データで出来た腕が優しく私を抱いた。知らない世界でレイさんが「大丈夫、俺がずっと傍にいるから」と言ったのが聞こえた。接続されたカメラとヘッドセットを通してだけ、私はレイさんの姿と声を認識することができる。カメラの向こうの彼はいつも無理をして私に逢いに来ているようで、私が“患者”だというのにこちらが心配になる。ただ、私へ向ける表情と声色は柔らかくて、それがいつしか手放し難くなってしまっていた。
 レイさんは私に薬を飲ませる選択肢をとったようで、レイ先生が錠剤を差し出した。嫌だ嫌だと顔を背けると、レイ先生が自ら薬と水を口に含んだ。その様子を不思議に思った顔でレイ先生を見上げれば、ぼやけてはっきりしない顔が近付いてくる。レイさんはもっと綺麗な顔をしているのに。ヘッドセットで顔の上半分は分からないが、いつもその形の良い唇が私のために動く様を眺めていた。
 レイ先生によって薬を口移しされ、私の症状は落ち着いた。
「ラーム・ディアグ・アブー」
 私は自分の掌を見つめて呟く。
「赤き手は勝利へ、か」
 レイ先生が言った。印象に残らない無機質な声だ。きっとレイさんには文章で見えているから、ゲームウィンドウが見えない私のための声。レイさんはそれよりもっと素敵な温かい声で「ゲール語か」と呟いていた。随分と博識らしい。
 俯く私をレイ先生が覗き込む。ちらりとそちらに視線を向けて、また戻した。ぎゅっと両手を握りしめる。
「私だけ生きているんです。家族を犠牲にして、この両手を血に染めて、命を勝ち取ってしまった」
 声と手を震わせて涙ぐむ。命なんて私には最初からないのに、と心の隅で考えた。それでもどうして心はあるのだろう。
 レイ先生がそっと私の涙を拭う。そして励ましの言葉が紡がれる。それを聞いて元気づけられたように微笑めば、一瞬だけ時が止まってカシャリと音がした。きっとシステム音だろう。レイさんが握るそのコントローラーに、もしセンサーがついていれば。あなたの体温を感じることはできただろうか。
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