君は綺麗
隠れて見えないところにある優しさだとか、自分の醜さだとか、そういうものはいつも怖い。
怖いけれど、きっと気付かれる優しさよりも気付かれない優しさの方がずっと多くて、隠れれば隠れるほど美しいのだろうと、なんとなく思うのだ。
「遥緋ちゃん、それ、何か意味があるの?」
どうやら無邪気な私を求める時代ははるか昔に終わったらしい、と気が付いたのはいつだったか。意味の無いことをする権利が妹の専売特許にされてしまったのはいつだったか。
何の悪意もなく、いつも通りに微笑んで訊く母親にふと、息が止まった。
ギー、ギー、と若干嫌な音のするブランコを漕ぐ。俯きながら、くたびれたスニーカーを見つめていた。
コート一着と財布、携帯。それらだけを持って家を飛び出してきたが逃げる先も見つかっていない。
帰るつもりがない訳では無いのだ。ただ、今逃げないとあの場所では窒息しそうだっただけで。
ギィ、ギィ、と錆びた鎖特有の軋む音が等間隔で鳴る。
「補導されるぞ」
いつもと同じ、抑揚が控えめな落ち着いた声。ここ一年で耳によく馴染んだその音を持つ人が、私の乗るブランコのチェーンを掴んだ。
大した高さでもなかったブランコは少しだけ揺れて、止まる。
「奈良坂くんがこの前年齢のサバ読み疑われてたから大丈夫。成人済みの兄ですって言う」
「井伊の兄にはなりたくないな」
「こんなにかわいい妹できるのに!?」
「だから嫌なんだ」
「かわいいって初めて言われた」
「言ってない」
「つ、ツンデレ」
私がいつもの調子で話すと奈良坂は呆れたようにため息をついて、「夕食は」と訊いてきた。食べてない、と返すと顔を顰められた。
顰めると言っても、表情の変化に乏しい奈良坂だ。眉を少しひそめただけの変化だが。
「そんな顔しなくても」
「顔色が悪い」
「それは精神的な問題かなあ」
「…コンビニへ行くぞ」
「手引いてよ、奈良坂」
「こうか」
「わあ」
奈良坂が公園の鎖で冷えた私の手をとって、私をブランコから立たせた。割と強引に引っ張られたせいで奈良坂の胸元に頭をぶつける。
こういうのって少女漫画では押し倒してしまうものじゃないんだっけ。そういうのにならないから私たちはこうして話せるわけだけれども。
「執事にしてはお嬢様の扱いがなってないなあ」
「そんな柄じゃないだろう」
「え?奈良坂もしかして自分のこと王子様だと思ってるの?」
少しもつれる私を支えるみたいに、奈良坂に左手を繋がれた。砂ばかりの公園を出て、コンクリートにスニーカーの靴底が擦れる。
「井伊、空元気を出すな」
「…バレた?」
「バレバレだ」
恋人同士じゃない。家族同士じゃない。友達同士でもないのかもしれない。
なら、この感情は何なのだろう。希望でもないし、絶望でもない。不安なままなのに呼吸しやすい。口から感情が正常に吐き出せる。
奈良坂は泣いている私の鈍足に合わせて、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。近いコンビニはあるのに、私が泣き止むように少し遠い方の店を選んだ。ずっと手を握ったままでいてくれた。
迷子の子どもを迷子センターに連れていくような、そういう歩き方だった。
カシュッと買った缶のココアを開ける。
コンビニのイートインスペースは私たちのほかに二人ほどの人がいたが、スマホをいじったりパソコンを見たりとそれぞれが液晶と向き合っていたので、目が合うことは無かった。
ずっとそこにいるのも落ち着かないのを見兼ねたのか、奈良坂はおにぎりをたいらげた私と一緒にまた夜の住宅街を歩いていた。
勝手知ったる道ではあるが、ルートはほぼ奈良坂任せだ。家に帰されてもどこかに置いていかれても、奈良坂にならまあ許せる。
「奈良坂何買った?」
「ほうじ茶」
「一口ちょうだい」
ん、と目の前に200mlペットボトルが差し出される。私もココアを渡して、こくんと一口飲んだ。口に残っていた甘いココアの味とほうじ茶の渋味が微妙に混ざる。
合わない。
ほうじ茶は口に残らないがココアは口に残るのだ。飲む順番を間違えた。
「飲み切った」
「謝罪がないなあ」
奈良坂から返ってきた缶にはココアは残っていない。ふざけんなよと奈良坂の靴を蹴る。
「奈良坂飲みすぎ」
「残り少なかった」
「全部飲み干すことはないじゃん」
奈良坂は一応気を遣ったのか、私の手から缶を回収し、道路脇にある自販機のゴミ箱に捨てた。
カラン、と夜の住宅街に空のアルミ缶特有の音がする。
なんとなく足が止まる。吐いた息は白く染まるのを再確認する程度に、静寂が流れた。
そういえば、奈良坂との静寂は怖くないんだよな。気まずいと思わないし、居心地が良いとすら思う。
「井伊」
「んー?」
「帰れないのか」
「帰れないわけじゃないよ。帰らないだけ」
「そうか」
こういうとき、奈良坂は迷惑だと私に言わない。奈良坂のそういう、お礼を言わなくても許される優しさが好きだ。それに甘えている自分は嫌いなくせに。
「奈良坂は良い人じゃないけど良い奴だよね」
「同じ意味だろう」
「そんなことないって。井伊ちゃんは良い奴の方が好きだよ」
「井伊だけに?」
「変なノリの良さ今出さないでくれませんかね恥ずかしいので」
家に明かりは着いていなかった。サイドエフェクトによると家族は寝ているらしい。
探されることがなかったことに安堵と諦めを混ぜた笑顔で奈良坂に笑う。奈良坂は呆れたようにため息をついた。
私の家族は、いわゆる「良い人」に入ると思う。それなりには人助けを厭わず、それなりには誠実で、それなりには優しい。きっと私のことを愛しているし、帰るのが遅くなれば一応心配くらいはする。怒って、ホッとしたような顔もするだろう。
でも心配をするだけだ。怒るだけだ。根本的に、「私がどうしてそうしたか」になんて興味はひとつもない。聞くつもりもないし話させるつもりもない。私の行動に意味を見出すことはない。
今日だって、彼らが怒る理由は「私が深夜に家出した」からではなく、「自分たちの娘が深夜に家出した」からなのだ。一言二言目は耐えるが、三言目あたりで、ご近所さんに――なんて言葉が挟まることだろう。
「奈良坂は私がぶつかっても失望しないじゃん。期待してないって感じなのがムカつくけど」
かわいい娘でありたくて努力していたら、いつの間にか庇護から追い出されてしまった。
価値の逆転だ。私に価値をつけたくて頑張っていたら、その頑張り以外の私はオマケになってしまった。進学校で、ボーダー隊員で、運動もまあできて、友達が多くて。求められる人間モデルを目指したら人間モデルとしてしか大切にされなくなったなんて笑いものだろう。
勉強も嫌いだし運動もそんなに好きじゃない。友達は家族と同じように人間モデル側ばかりに出来る。こういうろくでもない私を偶然見つけてしまった奈良坂は不運だったとしか言えない。
その点妹は上手かった。頑張りすぎないことを頑張って、みんなに可愛がられるのだ。それで、妹にそう思ってしまう自分のことを私はまた嫌いになる。
「俺は井伊が好きだ」
「ど、どうした?」
「静かに聞け」
「はい」
「好きだから、頼られることを期待している」
「……どうぞ、続けてください」
「…言う気が無くなった」
「な、なんで!?こっちは羞恥心に殺されてるのに自分だけ回避するなよ!」
奈良坂は珍しく言い淀んで、うるさい私に諦めたみたいに白状した。
弱いところを見せられるのは俺だけであることが、嬉しかった。
と。
私は固まり、奈良坂は居心地が悪そうな顔をして。強引に言葉を紡ごうとするが出てきたのは考えられるうちで最悪な言葉だった。
「親友マウントやば……」
「親友じゃない」
「この期に及んで」
「言い直す。井伊と親友にはなりたくない」
「……そっ、う、ですか」
あいにく逃げ道を残すつもりは無いみたいだった。どうやらそうしてくれるほど優しいわけではないらしい。いや、十分優しくしてくれたのか。
気まずくなりながらも少し口角を上げてお礼を言う。巻かれたマフラーを外して奈良坂に返そうとすると軽くかがまれたので、首元にマフラーを簡単に巻くと、奈良坂は笑った。
もう親友って言わせてくれない気がするなあ。今まで奈良坂は言わないできてくれたんだなあ。私が悲しがるから、恋じゃないままでいてくれたんだ。
滔々と心臓に気付かないふりをしていた好意がしみ広がっていくのが分かった。
「……ありがとう、ごめんね付き合わせて」
「好きで来たんだ、気にするな。おやすみ」
特に何をするでもなく、背を向けて奈良坂が帰る。拍子抜けした私は、奈良坂が道の角を曲がって見えたくなるまで見送った。名残惜しいとか、そういうのではなく。
トリオン体で二階のベランダまで跳び、窓からベッドへそのまま身体を投げ出した。
「……」
好きだと言われたとき、赤い耳が見えた。何も変わりはしないのに、それでいいやと思った。非合理的だ。解決策だとかは元から私に必要なかったのかもしれない。ただクズみたいな私を知っているひとが、私を好きでいてくれる。
そういう子供みたいな、他者による自己許容を、特定個人でもない周囲に求めていただけなのだと、十八歳にもなってやっと気が付いた。恋でも友情でもいいから面倒くさい私を好きでいてほしくて、でも恋は得意じゃないからできる限り扱いやすい友情に成形したくて。
私を好きな奈良坂は、それを知っていて私にわ優しくしたのだ。
奈良坂透という人間は、私にとって概ね正しい。だからきっと、私は誰でも良い。
なら、奈良坂じゃなくていいはずなのに、奈良坂じゃないとダメだと思う、この感情は。握ってくれた手をやっと握り返したいと思う手遅れの欲は。
窓の奥の曇り空から少しだけ星がのぞいた。きらきらとこれみよがしに輝く眩しさが私の憧憬を切り取ったようで、思考を放棄するみたいに目を瞑った。
晴天の星は似合わない。月も、太陽も、世界一美しいなにかも。ふてぶてしいようで分かりづらいきみみたいだと言うには、優しさが足りず、遠過ぎて、眩し過ぎて、きっとどれも不釣り合いなのだ。